CHAPTER2:Revolutions are not about trifles, but spring from trifles.(2)
アクタは汗ばんだ額を拭って、眼前に連なる白亜の建造物を眺める。
積み上がる無数のキューブがタクシーに連れられて訪れた織香早蕨の邸宅だ。
周囲には建物らしい建物はなく、無人機によって丹念に整備された人工樹が規則正しく並んでいる。湾岸の埋め立て地域の南端に位置するせいか、ほのかに潮の匂いが香る。耳をすませば、心地よい潮騒が聞こえてくる。
「さあ、上がってください」
早蕨に促され、アクタとリクは敷地に足を踏み入れる。指紋認証で扉が開くや、津波のように押し寄せたのは人の――子供たちの黄色い声。
「リク兄! リク兄、帰ってきたっ!」
「お久しぶりです、リクさん!」
「ほんとぉだぁ、リク兄だぁ~」
「リク兄、背伸びたっ!」
「おかえりなさい、リク兄!」
「ねえ、リク兄、あたしもう五年生になったの!」
「リク兄、久しぶりに遊ぼうよーっ」
「ねえねえ、あたしとも遊んでぇ」
「久しぶりだね、皆。ちょっとリエナ、服引っ張らないで。ほらロウタも。うん、そうそう。ミサキも大きくなったね。うん、うんうん……」
リクは乱れ撃たれる歓声にあっという間に取り囲まれ、身動きが取れなくなっている。いつもは余裕に満ちている表情も、幼い気迫に圧倒されるばかりで困惑に揺れている。
リクが助けを乞うようにちらとアクタを見たが、状況に対する困惑が先立った。
「リク兄?」
「ええ。リクは私の経営する私設孤児院〈なぎさの家〉に住んでいたんです。中等教育課程が修了すると同時、〈マーキス〉の青少年自立支援方針を利用してここを出てしまいましたけれど。だから血縁関係はありませんが、私たちは家族として長い時間を過ごしていました」
アクタは合点がいって、ああなるほど、と頷く。そう言えば早蕨も久しぶりとかなんとか言っていたような気がする。一般人がおいそれと会えるはずもない〈CLASS5〉の織香早蕨と簡単にアポが取れたカラクリも、つまりはそういうことだ。
それに聞いたことがある。
大企業の社長や政治家みたいに富や権力を得やすい立場の人間には、本業とは別に慈善事業を行うことが推奨されるのだとか。自由意志が否定される共同体社会では、個人の成功は〈マーキス〉による繁栄の計画の一端に過ぎない。だから持つ者から持たざる者へと、不幸や苦渋を味わう者が出ないように、再分配が為されるのは当然の理なのだ。
騒ぐ子供たちと気圧されるリクを、早蕨は微笑ましく眺めている。
「リクはいつも読書ばかりをしていて、すぐ小さい子たちを邪険にするんです。でもなぜか、この孤児院に住むどの年長者よりも慕われていました」
「まぁ、何ていうか、分かる気がするな。リクは人を惹きつける魅力みてえのがある、気がする」
「私もそう思います」
早蕨は慎ましやかに微笑む。共同体社会の構成員として真っ当な、それでいて自然に溢れたような完璧な笑み。
それにしても意外だった。
アクタがリクの家庭環境など知る由もないのだが、〝自由〟なんて不吉な言葉をおくびもせずに使うようなリクが共同体で最も模範とされる人物に育てられたなんて、誰が想像できるだろうか。
それに、そもそも幸せが確約される社会にあって、孤児がいるということ自体にも驚きだ。
そんなアクタの内心を読み解いたように、早蕨が横で言葉を付け足す。
「人間の生殖行為というのは、〈マーキス〉の手が及ばない領域の一つでもあります。愛や欲求を根底に持つ活動には、合理的な計画性というものが浸透しづらいのです。ですが宿ってしまった命を摘み取ることは、人に直接的な危害を加えることのできない〈マーキス〉には不可能です。それにもしそんな判断を下すことができたとして、感情的な倫理を犯す〈マーキス〉を人々は許容しないでしょう」
アクタは頷く。必要がない、とそんな不確かな理由だけで新生児を選別するならばそれは紛れもなく圧政であり、とてつもなく独裁だ。
「そこで社会計画の都合上、生まれるべきではなかった子供たちのセーフティーネットとして私のような者が経営する孤児院がいくつか存在しているのです。何らかの事情があり、実親の元では幸福を得られないと判断された子供たちを社会計画のなかへと組みこみ、幸せにするために講じられた措置なのですよ」
だから安心してください、と早蕨は微笑む。少なくともリクに群がる子供たちの身なりや表情を見れば、彼彼女らがここで何一つ不自由なく幸せを謳歌していることは理解できた。
「ねえリク兄こっち来てよ」
「やーだー、リク兄はあたちと遊ぶのーっ」
「リク兄、俺たちとかくれんぼしたいって言ってるぞ」
「いやいや言ってないから。それにぼくは誰とも遊ばない。離れてってば」
リクの枯れ木のような痩身に、子供たちがよじ登っていく。
一〇歳になるまでの子供には〈パラサイト〉の装着が義務付けられていない。参照する行動履歴が少なすぎて〈パラサイト〉による行動制御が悪影響を及ぼしかねないし、何より〈マーキス〉自身がその個人のパーソナリティを見極めるために必要な時間として一〇年を設定している。
もちろん幼少期から女神様が見ていると言い聞かせられ、深層心理の奥の奥のほうにまで規範的に生きることの素晴らしさを擦り込まれるのだが、実質的な枷がない以上、子供が大人よりもいくらか自由であることに変わりはない。
だから子供は欲望の赴くままに行動する。他人の都合なんてお構いなしに。
今まさに、リクが圧し潰されようとしているように。
助けを求めるリクの眼差しに、アクタが苦笑いを浮かべたとき、救いの手は思わぬ方向から差し伸べられた。
「ちょぉっと、チビたちっ? なぁにやってるのさ! リクが困ってるじゃないっ!」
子供たちの黄色い声が水を打ったように止み、その視線が一点へと――声のしたほうへと集中する。二階の柵から身を乗り出していた少女が頬を膨らめていた。
すらりと伸びる、山岳を跳び回るカモシカのような健脚。目深に被ったサイズの大きなパーカーのフードから覗くのは烏の羽のような艶やかな黒髪と燃えるような褐色の頬。そのさらに奥で揺らめく、エメラルドのような緑と夜を固めたような紫のオッドアイズ。FEC3はかつて国家を異にしていた多様な人種が入り混じっていると言われているが、それを考慮したとしても異質な、奇妙な外見だった。
おかしな風体の少女は群れる子供たちに人差し指を向ける。
「ほら、リクを困らせる子はおやつ抜き! 人を困らせるような子は、ちゃーんと女神様が見てるんだからね!」
魔力を宿したような瞳と的確に効果を発揮する言葉に射貫かれ、子供たちは蜘蛛の子を散らすようにわいわいと騒ぎながら走って部屋の奥へと引っ込んでいった。
間もなく嵐が去ったように玄関は静かになる。少女は二色を宿す魔性の瞳を階下のアクタたちへと投げながら、にこりと微笑む。
「よっこらせ」
次の瞬間、少女の身体が柵を乗り越え、しなやかに宙を舞った。
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