CHAPTER1:Man is only creature who refuses to be what he is.(3)
「……って、改まって自己紹介する必要もないか」
〈COde Me〉を確認するアクタの視線に気づいていたはずなのに、リクはそう言って肩を竦める。アクタは彼の言葉の意味が分からず眉を顰める。
「自己紹介。昔はこんな風に名前や所属は開示されていなかった。だから僕らは口頭や、時には名前の書かれた紙を交換しあって、自分がどういう人間かを相手に伝える必要があったんだ。ほら、こんな風にね」
リクが流れるような手つきでワイシャツの胸ポケットから一枚の紙片を取り出す。差し出されたそれを、アクタはほぼ反射的に受け取る。紙片にはリクの名前と学校の名前とクラス、それとコミュニティ・アカウントのIDが印字されていた。それは確かに物質としてアクタの手にあるのに、情報量は頭の横の表示よりもずっと少なく、心許なく思えてしまう。
「これが名刺。昔の人は、特にサラリーマンは、これを〝頂戴します〟と言い合って自分自身を名乗ったんだ」
「でもこれ、〈CLASS〉も分からないぞ……」
「そうだね。昔はそこにある肩書で、ぼくら自身の説明は十分だったんだ。全てを明らかにする必要なんてない。自分という人間を表すのに、家族構成や収入目安、どれだけ熱心にボランティアやコミュセッションに参加しているかなんて知らせる意味はなかった。もちろん〈CLASS〉なんて区別も存在しなかった」
「へぇ……」
アクタはまじまじと掌よりも小さな紙片を見つめた。今日初めて、しかもほんの僅かに言葉を交わしただけ。しかしアクタは、リクの語る言葉に引き込まれていた。
だから歩み寄ったリクが差し出した手に、アクタは手を伸ばす。女子みたいに華奢で薄い手を握ると、意外にもぐいと力強く引き起こされる。立ち上がったアクタは貰った名刺を「ありがとう」と言ってリクに返す。
「いやいや。それは君に上げたんだ。そもそもね、名刺を返すなんてすごく失礼だよ。渡した相手の否定、強い決別を意味するくらいね。言ったろう? 本来は交換なんだって。まぁ、知らなかったんだから今回は特別許すけど」
「そ、そうなのか。悪い」
そう言われ、アクタは名刺をポケットに仕舞う。仕舞う前に、もう一度だけそこに印字された文字を興味深そうに眺めて。
リクは軽やかな足取りで屋上を縁のほうへ歩いていく。やがてその行く手をフェンスが遮った。
「ここは鳥籠みたいだ。いくら空を見上げ、太陽に手を伸ばしても、決して届かない」
「急に詩的になったな」
「詩はいつだって、現実を映しているよ」
リクが振り返る。そよいだ風がリクの髪を揺らす。陽光を横から受ける無表情はどこか憂いを湛えていながらも優しく、そして刃物のような鋭さを帯びる複雑な色をしていた。
「ぼくはね、この
「…………」
リクの声は穏やかだったが、その一方でフェンスに掛けられた手は強く握られ、堅固はそれが微かに軋む。アクタは静かに、まるで預言を授かるように、リクの言葉に耳を傾けていた。
「これは〈マーキス〉が……いや人が実現した幸福の一つのかたちだ。道行く人たちの胸に悩みはなく、憂いもなく、ただ前に広がる豊かな未来に確信だけを抱いている。これまで、どんな社会も実現できなかった幸福を、この共同体社会は実現したんだ」
「どういう意味?」
「そのままさ。この社会が、幸福を体現した唯一の社会であり、人類の到達点だって話」
リクが断言するように言ったので、アクタは知らず顔を歪める。そしてそれが正しい反応であるとでも言いたげに、リクが学者じみた動作でゆっくりと二度頷く。
「ぼくらは幸福だ。何も選ばず、ただ生きるだけ。でもそこにぼくらはいない」
「いないって?」
「
「こぎと、え…………?」
「コギト・エルゴスム。デカルトという哲学者の言葉だよ。考える、故に私は存在している。近代以降のあらゆる人間観は、この〝考えているわたしの存在の確かさ〟という思想の上に成り立っていると言っても過言ではないんだ」
リクは次々とアクタの知らない知識を披露していく。だがそこには教え諭すような雰囲気こそあれど、知識をひけらかすような嫌な感じはない。リクの口調は自らの知識を供物として、聴き入るアクタに膝をついて捧げているような感じさえある。
「ぼくという個人、あるいは君という個人。誰それという個人。その全てが確かに存在していると言えるのは、考え、思考しているからだと言える。つまり裏を返せば――」
「考えることを放棄したおれたちは存在していないのと一緒」
思わず口を突いて出たアクタの言葉に、リクは僅かな驚きを浮かべ、そして白い歯を溢す。
「ぼくらの生きるこの社会に、ぼくらはいない。それは共同体社会が、〈マーキス〉が与える幸福が抱える大きな矛盾だとは思わないかい?」
リクの言葉に頷きかけ、しかしアクタは躊躇った。
〈マーキス〉の統治によって、構成員は悩んだり考えたりする必要がなくなった。少なくともかつての人々がしていたほどに深い思考は不必要になった。全ては〈マーキス〉によって提示され、それに従うだけで個人の幸福と社会の繁栄が約束されているのだ。個人の矮小な思考など、深遠な計画性に対するノイズでしかない。意志や思考の自由など、世界紛争の末路が示している通りに人の手には余る代物なのだ。
「自由とは、よりよくなるための機会のことである」
アクタの逡巡を見抜いているかのように、あるいは決して届かぬと言った太陽と大空に向かって訴えるように、リクがぽつりと溢した。アクタはリクを真っ直ぐに見返し、続く言葉を待った。
だがリクが紡いだ言葉は、アクタの予想とはかけ離れた提案だった。
「ねえ、雛木芥くん。ぼくと自由研究をしよう」
「……自由、研究?」
「昔の小学生なんかはね、夏休みに自分で自由にテーマを設定し、それについて研究や調査をして学校に提出したんだ。それが自由研究。ぼくらの社会が、あるいはぼくら個人が、よりよくなるために、ぼくと一緒に自由研究をしよう」
「テーマは決まってるのか……?」
「決まっている。〈マーキス〉の意志を知る」
即答したリクの言葉が、重く大きな槌で打たれたように胸の奥に響く。
女神の御心を知る。それは一人の少年が抱くには、途方もない願望――いやもはや野望だ。
だが不思議とそれが不可能だとは思えなかった。リクと一緒ならば、このフェンスの外どころか、遥か彼方の太陽にだって手が届くかもしれないとさえ感じられる。その理由は分からなかったが、彼の眼差しが見据える景色が自分とも、他の誰とも違うことだけははっきりと分かった。
「ぼくはね、確かめたいんだよ。〈マーキス〉がどんな社会を目指しているのか。ぼくらの幸福について、どう考えているのか。なんとなく、当たり前だから、じゃなくって、自分の目で見て、肌で感じて納得したい。そして〈マーキス〉を受け容れることを他でもない自分の意志で選択したい」
再び歩み寄ってきていたリクが右手を差し出す。表情から、まとう空気から、リクが本気であることがビリビリと伝わる。アクタは緊張に汗ばむ掌を、制服のズボンを握り込んで拭う。
返事は考えるまでもなかった。
このまま鳥籠のなかに留まっているだけでは、きっとアクタは生きてはいけない。計画された人生に、与えられるだけの幸せに、その魂は耐えられない。
だからたとえ籠の外が嵐でも。もしどこにも辿り着けないとしても。
身を寄せ合い、リクとともに飛べるのならば、それは悪くないと心の底から思えた。
あるいは何処かに辿り着けるのかもしれない。
リクの手を取って、鳥籠から飛び出した先の景色を、その目に焼き付ける。
「……いいぜ、面白そうだ。自由研究」
「ああ。間違いなく面白いさ。今年の夏はきっと特別になる」
差し出された手を握るアクタが口角を吊り上げる。リクはアクタの手を握り返し、凛とした声音で断言する。
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