CHAPTER1:Man is only creature who refuses to be what he is.(2)

 自由というものは、つまるところだと教えられる。

 一度自由を手に入れてしまうと、人は多くの選択を間違えるのだと。

 それはあながち間違いではないのだろうと、アクタは思う。

 元来、人間の価値判断の構造は、今この瞬間に得られる一万円と一年後の今日に得られる二万円であれば、明らかに前者に傾くようにできている。これはもはや生物としての本能とも言うべき生得的な傾向で、不確かで遠い未来よりもより確定的な近い未来や現在を優先する。

 だからこそ、人は今この瞬間の選択が明日や明後日、あるいは一〇年後にどんな影響を及ぼすかなど想像もできない。選択や判断の正否となれば尚更で、曖昧なそれらは結果論でしか語り得ず、時代が移ろえばその結果さえ変容してしまう。

 そうした意思決定がもたらす不安定の最たるものが、一世紀前の世界紛争であり、多くの人が死に、国家が解体された。目先の利益や保身、あるいは直情的な嫌悪や憤怒が人類を破滅の一歩手前にまで導いてしまった。

 だから自由はろくでもない。幸福とは対極に位置するものであり、人の手には余りある力なのだと結論づけられた。

 そんなわけで、共同体社会において自由は明確に悪と結び付けられる。

 当然、自由を標榜するような輩も前時代的で蒙昧な野蛮人だと嫌悪される。

 それが〝フリーター〟と呼ばれる人たちである。

 彼らは〈マーキス〉による計画を拒否し、自らの意志に基づき行為を選択することを信条とする。あるいは人の意志を軽んじ、幸福と繁栄を押し付ける〈マーキス〉に抗おうとする。

 しかし自由を夢想するフリーターが手に入れるのは、結局のところ少しの自己満足と多くの不自由に他ならない。

 まず〈マーキス〉の恩恵を拒む彼らは定職に就けない。〈マーキス〉による推奨が無ければ就職や進学はもちろん、アルバイトに就くことはできない。職業だけではない。今どき結婚や恋愛だって〈マーキス〉のお墨付きがない相手を選ぶ物好きはいない。

 さらに拒絶というかたちで〈マーキス〉の描く社会を逸脱する彼らは〈CLASS〉の低下が起こりやすくなる。これは社会の公共性に対する貢献や信頼を表す五段階の指標であり、慈善活動ボランティア地域の集会コミュセッションに参加したりすることで保証される。逆に損なわれれば公共機関の利用や行動範囲が制限され、当人の社会生活に大きな影響を及ぼす。その極めつけが〈CLASS〉に基づいて行われる〈パラサイト〉による住み分けだろう。

 たとえば標準的な構成者である〈CLASS3〉のアクタの視界には〈CLASS1〉の人間はめったに現れない。もしすれ違っていたりしたとしても、出会う必要がない、あるいは出会うこと自体が幸福を損ないかねないとして、拡張現実によって事前に覆い隠される。

 もしかするとアクタがいつも壁だと思っているものは拡張現実上のホログラムで、実際はその奥に路地があり、まさにそこを〈CLASS1〉の構成者が歩いているのかもしれないが、アクタに事実を確かめる術はない。もちろん〈CLASS1〉の構成者から見た現実も同様で、彼らの世界は忽然と人が消えたように侘しく、狭いものであるに違いない。

 こうして望んでか望まずか社会を拒むフリーターや〈CLASS1〉たちは徹底的に社会から排除されていく。まるで最初からいなかったかのように、漂白されて無色透明になっていく。

 共同体社会は幸福である。ただ〈マーキス〉に従うだけで全てが保証され、豊かな生活を手に入れることができる。

 だがそれでもアクタは思う。

 従順も反逆も、全能の女神の前ではただ虚しいだけなのだ。

 チャイムが鳴る。

 緊張の糸がほつれ、徐々に騒がしくなっていく教室をアクタは出て行く。朝方にコンビニで買ってきたパンをぶら下げて歩いていると、廊下で取り巻きの一人とすれ違う。朝のことを根に持っているのか、やはりまた睨まれる。まともに取り合っても虚しくなるだけだと分かっているので、アクタは気づかないふりをして通り過ぎる。緩慢な動作で階段を上がりながら、ふいに踊り場に設置されている姿鏡に映る自分の姿に目が留まる。

 前髪にちょろりと入った金色のメッシュ。顔、というか表情はひどく疲れていて、元から悪い目つきがさらにきつく細められている。制服は教師たちに目をつけられない程度に着崩された校則違反ぎりぎり。ワイシャツから覗く胸元は生白くて貧相で、ひどく不恰好だった。

 何もかもが中途半端。そんなアクタの内面を現した、中途半端な外見だ。

〈マーキス〉による社会を鬱陶しいと思いながらも、そこから大きく外れることを選べはしない。かと言って受け入れることもできず、従順と幸福を選んだ人々を見上げながら見下している。飢えた狼を気取っていながら、その実は道に迷った子羊のように情けない。

 漠然と感じているこの息苦しさの、名前は一体何なんだろうか。

 アクタは溜息を吐き、首を横に振る。

 どういうわけか今日は疲れた。考えたところで答えが出るはずもないことばかりを考えてしまう。あらかた口うるさい〈マーキス〉の僕である学級委員のせいだろう。自分が何を信じ、何を受け容れようと勝手だが、それを他人にまで押し付けてくる奴は性質が悪いことこの上ない。

 アクタは解放された屋上に出る。安全のためか、屋上はドーム状のフェンスで覆われている。こうまでするなら立ち入り禁止にしてしまえばいいのにとは思うが、逃げ場がなくなって貴重な昼休みをあの教室で過ごさないといけなくなるのはあまり楽しい話ではないので胸に仕舞っておく。

 アクタは誰もいない屋上の中心に腰を下ろし、パンとバナナオレを広げる。〈パラサイト〉は一丁前に栄養の偏りを指摘してくるが、アクタは構わずそれらを口へ運ぶ。

 五分もしないで食べ終わり、寝そべったアクタは中断していた映画の続きを再生する。教室では小さなモニターでしか再生できないが、屋上ここならば誰の目を気にすることもなく公開設定ヴィシビリティの大きな画面で昔の映画を眺めることができる。

 独りの時間を嗜むアクタの、憩いの時間だ。

 こうした旧時代の映画や本などはデッドコンテンツと呼ばれている。言わずもがな、共同体社会とそれ以前の世界との間にはあらゆる意味においての断絶が存在する。歴史や文化はそのいい例であり、共同体社会以前の歴史はもちろん、映画や本などの娯楽コンテンツも〈マーキス〉による検閲によってほとんどが破棄されている。故に死んだ著作物デッドコンテンツと呼ばれる。

 だからこれらは全て、共同体社会以前に使われていたルーインネットワーク上に落ちているデータがどこかの懐古主義の物好きによってサルベージされ、違法すれすれにアップロードされたものだ。もちろんそれを閲覧するのもあまり褒められた行為ではないが、巧妙にプロテクトが掛けられたデータであれば〈マーキス〉の感知するところではないらしい。あるいはこれくらいの逸脱ならば許してくれる寛容さを、女神は備えているのかもしれない。

 モニターのなかでは男女が絵画を眺めていた。古い戦争の絵画らしく、鈍色の甲冑を着込んだ人々が入り乱れている。聞きなれない言葉を話す彼らの台詞が何を意味しているのか、アクタには分からなかったが彼らにとって何か重要な局面である雰囲気だけを感じ取る。


探してチェルカ見つけよトローヴァ


 モニターのなかで女優が発した台詞が、突如としてアクタの耳朶を打った声と重なる。アクタは思わず身体を起こし、周りを見回す。


「失礼したね。驚かせるつもりはなかったんだ」


 いつの間にか人がいた。あるいはアクタより先にこの屋上にいたのかもしれない。貯水タンクの上に腰かけて、放りだした脚を揺らしながら。その背には陽光が射し込み、表情や面立ちには深い影が落ちる。


「何だよ、あんた」


 アクタが言うと、貯水タンクに腰かける少年は小さく笑った。そして4、5メートルはあるだろうタンクの上からふわりと身を投げる。


「あっ!」


 アクタは叫び、届くはずもないのに手を伸ばす。少年は羽が落ちるように軽やかに着地し、ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、アクタのほうへと歩いてくる。一歩進むたび、彼を覆っていた影が陽光によって拭い去られていく。

 少し癖毛の黒い髪に、理知を湛える切れ長の瞳。面立ちは人工物のように整っていて、表情に乏しいせいもあってどこか現実離れしている。口に咥えられた棒付きのキャンディーだけが、彼に親しみを抱くことを許しているようで、アクタはそのキャンディーに見覚えがあった。

 クラスメイトだ。いつも教室の隅で、誰とも話さずに紙の本を読んでいる。何を読んでいるのかまでは興味がなかったが、だいたいのことが〈パラサイト〉で行える今の社会でわざわざ嵩張るものを持ち歩いていたので記憶に残っていた。たしか名前は――


「チェルカ・トローヴァ。探して、見つけよ。真実を求める者にのみ与えられるいい言葉だ。なかなか渋くていい映画の趣味をしているね、雛木芥くん」

「まあ……な」


 違法なアーカイブからかっこ良さげなタイトルを適当に選んでいたことも、内容なんてほとんど理解していないことも言えずに、アクタは歯切れ悪く答える。もちろんチェルカなんとかという言葉の意味も、そもそも耳慣れないそれがどこの言葉かも分からない。

 アクタは少年の頭の横に浮かんでいる〈COde Me〉を確認する。三科李久ミシナリク。それが少年の名前。話したことはなかったが、朧げな記憶通り同じクラスだ。


「申し遅れたね。ぼくは三科李久ミシナ リク。よろしくね、アクタ」


 少年――リクは言って、本当に微かにだが、アクタへ向けて笑みを咲かせた。

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