第一部 タンタロスの庭

CHAPTER1:Man is only creature who refuses to be what he is.(1)

 世界の窮極目的とは精神による自由の実現であり、つまるところ世界史というのはその諸過程の叙述に過ぎないのだ――とかつて言っていたのは、何と言う哲学者であっただろうか。

 三〇〇年以上も前のその賢人の予想と期待を裏切って、現実の人類社会は対極に位置するであろう到達点に辿り着いた。

 もちろんそれは、悪夢のような地獄的世界という意味ではない。

 むしろその逆――幸福に満ちたユートピアと謳われる社会だ。

 誰もが未来を保証され、安心と安全のなかを生きる社会。

 女神が与える託宣に耳を傾け、計画された線路の上を歩くことを至上とする社会。

 それが、美しくも虚しい、おれたちの生きる社会だ。


        †


「――ねえ、雛木くん」


 机の上を人差し指で二度叩かれて、雛木芥ヒナキアクタは伏せていた視線を上げる。視界のなかで展開される拡張現実層――〈Personalized SIGHTパラサイト〉上の古い映画のモニター越しに、黒髪を肩のあたりで生真面目に切り揃えた女子生徒が立っているのが見える。アクタの不機嫌そうな表情を見ても、学級委員である彼女の表情は模範的な構成者そのものだが、その後ろに立っている取り巻きたちはあからさまにムッとした。


「雛木くん。進路希望調査票、まだ出していないの貴方だけなんだけど」

「ああ。でも興味ないから」


 アクタが肩を竦めると、学級委員の彼女は小さく溜息を吐く。失礼に当たらないほど些細なものだが、そうやって模範的であればあるほどその振る舞いはアクタの目に違和感を持って映り込む。


「興味ないってどういうことよ」


 取り巻きの一人がずいと前に出る。学級委員をリスペクトするかのように同じ髪型。しかし器量が劣るせいで、どこかこけしのようだった。


「そのままの意味だよ。だってよ、おれらの進路なんて、全部〈マーキス〉が決めてくれるんだろう? なら今更希望を出したって、意味なんかないじゃねえの」


 取り巻きは何か言い返そうと息を吸い込んだが、その前に学級委員がそれを制したので不発に終わる。もっともアクタの方としても、面倒かつ不毛な言い争いは御免なのでありがたい。


「そういう問題ではないの。決められた規則に従うこと。それが計画性の養成に繋がるんだから」


 ――計画性。

 その言葉に、アクタは眉を知らず顰めてしまう。

 アクタたちの生きる社会は、しばしば「人類社会の到達点」とか「市民生活の完成形」とか呼ばれる。それはあながち間違いではなく、事実として病気と寿命以外で死ぬ人間はほぼいなくなり、昔に低所得層と呼ばれていた経済的に貧しい人々もいなくなった。

 半世紀くらい前に大規模な核戦争を経験した人類社会は一度崩壊した。というよりも国という長い歴史を有する人の集合体が瓦解した。そして機能を失った国連は形骸化し、古い国家ネイションは新たに台頭した共同体コミュニティによって取って代わられた。

 いわゆる〝共同体社会〟の到来である。

 共同体がどんな国家とも異なるのは、非政治化されているという点だ。昔と同じように政治家や官僚といった役職は存在しているものの、昔ほどの富と名誉を得ることはない。彼らはただ、既に立案され完成された社会の計画を遂行していくための手足に過ぎない。

 要は、共同体に住む人々は等しく皆、ただの市民なのだ。

 共同体の管理及び統治の全権は全て、〈MarkISマーキス〉と呼ばれる人工超知能を搭載した高度演算装置に委任されている。人の恣意が介在しない、完全な平等性の実現だ。

 共同体の構成者であるわたしたちがすべきことと言えば、その〈マーキス〉の囁きにお伺いを立てること、つまり推奨される選択を受け容れることだけ。

 何をすればいいのか。

 誰と共にいればいいのか。

 どんな仕事をすればいいのか。

 善き社会の維持のため、一体自分はどうあるべきなのか、と。

 この託宣に耳を傾けるという条件を満たせば、人は誰でも幸福であることが保証されるようになったのだ。構成員一人一人がかけがえのない社会的存在であり、公共の財産。言語やニュアンスは違えど、だいたいどこの共同体も似たような文句を掲げているらしい。

 全てが〈マーキス〉の構築する計画性に沿って進み、人は幸福を得た。人々はピエール・ブルデューが言った社会的地位や将来の不安定性から解放され、確固たる道筋を得た。


「計画性ねぇ」


 アクタは学級委員長に呟く。学級委員は無表情のまま、アクタのことを見下ろしている。


「それで共同体の計画を乱さないようにと、怠惰でかけがえのない構成員に注意を促しにきたと」

「理解が早くて助かるわ」

「つまりは〈CLASS〉の点数稼ぎってわけか」


 挑戦的な言葉にも、学級委員の表情は動かない。学級委員の顔の横で、評価点の四つ星がゆらゆらと揺れているだけだった。

〈COde Me〉。通称で〈コム〉と呼ばれる厚さ〇・〇四ミリの拡張現実〈パラサイト〉上で、頭の横に浮かぶ小さな窓が人一人のパーソナリティの全てを表している。星四つ――〈CLASS4〉は優良構成員であることを端的に示すステータスに他ならない。

 アクタはあからさまに大きな溜息を吐いてやる。もう一人の取り巻きが声を荒げようとした。不適切な振る舞いを咎めようとしたのだろう。しかし声を荒げることもまた適切ではない。無用な諍いを産む言動や激しく強い感情は、どんな些細なものであれ忌避される。それは平和という計画に、全くもってそぐわない。

 アクタは見慣れぬ白人の女優が目を見開いて何かを話しているシーンのまま停止した映画のモニターを指で弾いて消し、視界の右隅にあるダストボックスから〝進路希望調査票〟というデータを引っ張り出す。

 昔ならばくしゃくしゃに丸めた紙だったはずのそれは、今や網膜を覆う薄さ〇・〇四ミリのレンズに展開された拡張現実上の無味乾燥なデータだ。おまけに学校で配布される類のデータには破壊不能処理が為されていたりするので、ぽいと破壊してやることもできない。

 アクタは閉じた口をもごもごと動かして、まっさらな進路希望調査票に文字を入力する。〈パラサイト〉上にキーボードを呼び出して視線で文字を打ち込むこともできたが、アクタはこっちの方が慣れていた。

 連絡帳を参照し、作成したメールに進路希望調査票を添付してクラスのクラウドに送信。ピクセルの鳩がぱたぱたと飛び立っていく。

 アクタはもう一度溜息を吐く。取り巻きが今にも自分の喉を掻き毟り始めそうな表情を浮かべたが、学級委員が見事にそれを制する。さすが模範的な構成者。

 そして取り巻きの暴言の代わりに、学級委員の質問がアクタに降りかかる。


「何て書いたの?」

「は? 何が?」

「何がって、進路希望調査票に決まってるじゃない」

「あー……」


 何でそんなことを親しくもないお前に言わなきゃいけないのかと。アクタは言いかけて口を噤む。どうせろくな解答をしていないのだから、教えてやっても構わない。むしろ教えたときの反応を見るほうがいくらか面白いに違いない。

 アクタはうんうんと頷いて、それから意地悪げに口角を上げる。


「――フリーター」

「なっ……」

「聞こえなかったか? フリーターって言ったんだよ」


 取り巻きたちの顔があからさまに引き攣る。学級委員は辛うじて平静を保っていたが、眉根が不快さを隠しきれずにぴくりと動く。予想通りの反応に、アクタは笑みを深くする。学級委員は悔しさを拭うように咳払いを一つ挟み、毅然とした態度でアクタに憐れむような視線を向ける。


「……まぁいいわ。貴方が何を希望しようと、決めるのは〈マーキス〉。彼女は誰にだってこの社会で生きて幸せになるに足る役割を与えるのよ」

「へいへい、そうかよ。お節介も甚だしいぜ、全く」


 肩を竦めるアクタに、学級委員は溜息も漏らす。共同体社会の素晴らしさを理解できない者など虫けらも同然だと突き放すような、酷薄で冷たい吐息。

 押しつけがましい慈愛と同様に、この冷たさもまた共同体社会における構成員の典型的で模範的な態度だ。同じ共同体に属し、社会の繁栄という志を共にする同胞にはどこまでも優しく。その一方で理念を理解しない者、別の信条に生きる者には残酷なほどに非情になれる。


「言っていなさい。きっといつか、〈マーキス〉が正しいってことが分かるときが来るわ」


 学級委員は嫌悪を露わに吐き捨てるように言って踵を返す。途中、取り巻きの二人がアクタを振り返って睨みつける。アクタは悪びれもせず、小馬鹿にしたように舌を出して応戦。

 だが途轍もなく虚しくなって、彼女たちの姿が完全に見えなくなるころを見計らい、絞り出したような溜息を天井に向かって吐き出した。

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