現と夢

キジノメ

現と夢

     ◯


 彼が纏う香りは苦く、冷たかった。煙を辿った先の十香とつかは、いつも煙草を吸っている。

「吸ってみたいな」

 試しにそう呟いたことがある。十香がちょうど、細く息を吐いた時だ。白い煙が細く細く前へ伸びて、そして空気に溶けていく。となりに座っていたぼくにまで、その溶けた香りは届いた。顔をしかめそうになる苦さ、その奥でふわりと広がっている冷たさを伴った清涼な香り。きっとこの香りはメンソールだ。

 十香はぼくの言葉に虚を突かれたように口を閉じた。まじまじと見つめられる。黒縁眼鏡の奥の瞳はいつもぼんやりした色なのに、そのときだけは本当に世界を見つめているようだった。

 けれどすぐに瞳はくすみ、彼はぼくから目を逸らす。動かした手を追って見ていれば、制服のポケットから煙草の箱を取り出した。白と緑色のパッケージで、銀色で薄く「4」という数字が書かれている。彼が吸っている銘柄を見たのは、この時が初めてだった。

 その箱を差し出してくるから、くれるのだと思ってぼくは手を伸ばした。けれど直前で引っ込められる。思わず彼を見つめると、十香は快活な笑い声をあげた。

一成いっせいにはあげないよ」

「ケチだな」

 素直に手を伸ばした自分が恥ずかしくて、そっぽを向く。

「別に一本をケチるわけじゃあないさ」

 彼はまだくすくすと笑っている。お前なあ、と十香を見れば慈しむような笑顔を浮かべているもんだから、文句を言おうとしていた口が動かなくなった。

 どうして慈しむ瞳の奥に、諦めの色を読んでしまうのだろう。

「綺麗なものを、わざわざ汚す必要はないだろ」

 吸っていた煙草を携帯灰皿に押し込んで、彼はまた一本、白い煙草を取り出した。


     ◯


 退紅あらぞめ十香という高校生は僕らよりずっと大人びた雰囲気があって、教室の誰もが敬遠していた。男子にしては半端に伸びた黒髪から覗く耳にはピアスが付いていて、先生に怒られないのかと、ひやひやした記憶がある。しょっちゅう顔や腕や足に絆創膏やガーゼがついていて、時代錯誤に他校の不良と喧嘩でもしているのかと想像した。あらゆる授業を気ままに休んでいて、先生にすら呆れるように認められている彼は特権階級かな、とやっかんだこともあったっけ。

 同じクラスになったのは高校一年生の時で、かといって僕は彼に声をかけなかった。彼の姿を見て、必要最低限しか喋らない自己紹介心を聞いて「あの人にはあまり触れてはいけない」と思っていた。昔からそうだった。小学校で同じクラスだった、暗い雰囲気を纏った女子は見て見ぬふりをした。ほどなくしてその子を対象にいじめが始まったから、巻き込まれないですむと安心した。中学校の時はバカ騒ぎするひとりにほどほどに付き合って、ほどほどに離れた。そしてそいつは警察から連絡が来るような事件を起こしたから、ああ深く付き合わないでよかったと安心した。

 退紅から感じた雰囲気は、そういう「離れておかないと何か生じてしまうだろう」人と同じものだった。だから積極的に話しかけはせず、けれど同じ班になれば話すことで無視はしていないと言外に主張した。

 そんな自分が醜いなんて、誰に言われずとも分かっていた。高校の頃も、中学の頃だって分かっていた。小学生だった時ですら理解していた気がする。

 自分が、はじめから醜いと自覚しながら心が態度を操れなかった、そんな欠陥人間としか思えなかった。いじめを見ては顔を背けるか、ターゲットにならないように多少いじめた。「しょうがない、しょうがない」って心に言い聞かせていたのはどうしてだろう。なにがしょうがないのだろう。そんな生き方、「しょうがない」って言い訳が許されるレベルをとっくに超えている気がする。

 そう何年も思っていたはずなのに、話しかけたら危険だという雰囲気を嗅ぎ取れば、なにを思う間もなく行動を勝手に制御してしまう。だから本来、僕は退紅と仲良くなる未来なんてなかった。


     ◯


 けれど本当に偶々、彼と話す機会が生まれたのだ。

 ぼくはその日、弁当を持って学校をうろうろしていた。

 母親は気が向いた時だけぼくの弁当を作ってくれるけど、今日は偶々その「気が向いた」日だった。家を出ようとした時「お弁当作ったよ!」と無理やり弁当箱を渡された。正直学食の気分だったから嬉しいとは思えなかったけれど、まあ金が浮いてありがたい。お礼を言って家を出た。

 だから昼は教室で食べようと思ったけれど、五限の発表準備をしたいから出てけと言われた。できればネタバレなしで全員に見てほしいらしい。身勝手な、とも思ったけれど、昼練が活発なうちの学校は、そもそも教室内に残る人が少ない。圧力に負けて、食べかけの弁当を抱えてすごすごと外に出た。

 しかし昼休みが始まり、もう十五分が経とうとしている。中庭のベンチは全部埋まっていて、座れる場所がなかった。そういう時に限って仲の良いクラスメイトも見つけられず、途方に暮れてしまった。

 どうしようと天を仰ぎ、ちょうど屋上のフェンスが目に入った。

 そうだ、屋上に行こう。

 うちの学校の屋上は、一般的に開放されていない。いや、本当は出てもいいんだけれど、表立って許可が出されていないせいで、行っては駄目なんだろうという雰囲気がある。けれど実際には鍵は大体開いているし、怒られることもない。どうしてぼくがそんなことを知っているのかと言えば、友人に天文部の奴がいるからだ。天文部は空の観察のため、よく屋上に出る。屋上に行っても先生に怒られないんだ、と聞いたら内情を教えてくれた。それに今は冬だ。寒さを理由に外で食べる人が少ない上に屋上なら、流石にぼくひとり座る場所はある気がする。

 ひとりで食事というのもなんだかなと思うけれど、ぼくの友人のほとんどは学食ユーザーだから、弁当の日くらいしょうがないだろう。というわけで階段を上る。

 上る。

 上る。

 ……疲れた。

 屋上は五階だ。場所探しで右往左往した上での上昇運動は辛い。そもそも弁当をのんびり食べる時間もない気がする。母親の弁当は少し多い。食べきれるか不安になってくる。

 考えているうちにようやく五階に着いた。ふう、と息を吐いて周りを見渡す。ちょっとした踊り場のここは、奥に天文部の部室があって、左に屋上に出る扉がある。

 扉を開けると、火照った身体に心地良い冷気が流れてくる。誰もいなさそうだ。ぼくの位置から反対側で左右に広がる手すりを追って一面見渡すけれど、ひとりもいない。

 ようやくご飯が食べられる、とほっと溜め息をついて左に進み、ぼくは心底驚いた。身体も飛び跳ねたかもしれない。そこには退紅十香がいた。

 実は一面見渡すとき、屋上の出入り口である壁が邪魔になって出入り口側の端っこのほうは見ていない。でもそんなとこに誰も座ってないだろう、と無意識に思っていたから、見ていないにも関わらず誰もいないと判断してしまったのだ。

 十香は、目の下に絆創膏を貼っていた。けれどそれ以上にびっくりしたのは、煙草を吸っていたことだった。煙草の先が赤く光っていて、うっすらと煙が上がる。呆然と互いに見つめ合い、数秒。彼が息を吐く。真っ白い煙がぼわっと吐き出される。

「……誰にも言わないでくれる?」

 気まずく苦笑いする彼は、ただの高校生みたいだった。

「う、うん」

「……」

「……」

「……」

「……あの、隣、座ってもいいかな?」

「別に、」

 どうぞ、と言われて右側に座る。時間もないから食べ始めようと弁当を広げる。まだおかずを一口食べたくらいしか減っていなくて、おにぎりにいたっては大きいのが二つもある。食べ終わるだろうか。

 卵焼きを摘みながら隣を見ると、十香は未だに煙草を吸っていた。じりじりと先端が燃えていく。ぼくはそこでふと、食事はしたのか気になった。

「昼、もう食べた?」

「食べてない」

「そう」

 おにぎりを一つ差し出す。十香は驚いたのか、煙草の先端から灰がほろりと零れ落ちた。

「え、いや、そんなつもりで答えたんじゃない」

「次の授業まで時間ないだろ。食べきれないからやる」

「いらないって」

「空いてないっていうならいいけど、遠慮しなくていいから」

 なお差し出していると、少し困った顔をしながらも十香はおにぎりを受け取った。煙草を携帯の灰皿に落とし、おにぎりのラップを広げる。

「ありがと」

 こちらを向いた顔はにっこりした笑顔で、やっぱり彼は高校生なんだと思った。


 それ以降、ちょくちょく彼と話すようになった。

 彼は音楽、特にロック系の雑誌に載るようなアーティストが好きなようだった。ぼくはネットで流行っているような曲をよく聞くけれど、それをおすすめしたら代わりにCDを貸してくれた。彼が貸してくれるそれらはどれもかっこよくて、それ以上に孤高だった。聞いていると、自分だって目指す何者かになれそうな気分になった。

 ぼくと話すようになったところで、彼の授業をサボる癖は直らなかった。ちゃんと出なよ、と試しに言ったことがある。彼は苦笑いして「でもなぁ」と言う以上、言葉を重ねなかった。なにが「でもなぁ」なんだろうか。よく分からない。

 話す機会が増えるほど、なんで雰囲気で関わることを避けていたんだろうと思った。昔の自分がもったいない。彼と話していて怖いことなんて、なにひとつなかった。予想以上に高校生らしく快活に笑い、ファミレスにでも行けば大盛りのパスタを食べていた。しかし時には遠くを見つめて煙草を吸って、瞳に、ぼくには無理な慈愛の色を乗せていた。知らない世界を知っていた。ロックも、ライブも、煙草も酒も、それ以外もたくさんの、あらゆる知識を持っていた。


     ◯


 いつのまにか、退紅に憧れていたんだと思う。


 だからその会話が耳に入った時は、呆然としてしまった。

「退紅ってなんなの」

「あ、煙草吸ってるって聞いたことある」

「こわ、そういえばいつもケガしてるよね、不良?」

 どくりと心臓が跳ねた。クラスの女子の会話だった。なにも、退紅を爪弾きにするような口調ではなかった。淡々と、理解できない生物を見るように「なんなの」と言い、その性能を他の人が伝え、導き出されたのが「不良」だっただけ、というような言い方だった。

 それでも心臓は跳ねた。こういう、いじめ一歩手前のような雰囲気は、たくさん見てきた。それを思い出した。つられるように会話で愛想笑いする自分。攻撃が強くなっていく様子を見ている自分。疑われないように関与する自分。


 また、それをするの?


 心の底が嘲笑った。

「授業も全然出ないじゃん。なんでこんな進学校にいんだろ」

「退学すればいいのにね」


     ◯


 気が付けば勢いよく立ち上がっていた。衝撃に耐えきれず、椅子が背後で倒れる。がたんという剣呑な音が教室中に響いた。テスト前の一週間で部活が禁止なので、ほとんどの生徒が教室にいた。その全員が会話をやめていた。突然立ち上がったぼくを、驚いた顔で見ていた。

 その中に、十香はいない。

 耐え切れなくなって教室から走り出た。

 彼女らは事実を言っていただけだ。いや、仮にもいじめのひとつとしてあんな言葉を言っていたとしても、どうしてこんなに胸に刺さってしまうのだろう。だって、ぼくは今まで無視していた。あんな言葉、何回も聞き流して全てに反応しなかった。いじめられる方が悪いとすら思っていた。だって関係ないから。だってぼくに標的なんて来てほしくないから。だって、だって、だって、

 たくさんの言い訳が思い浮かぶのに、全てを恥じ入るように否定する。それじゃあ駄目だ。それじゃあ、それじゃあ駄目なんだ。また繰り返すっていうのか。

 気付けば屋上にいた。いつもの左隅に行けば、やっぱり十香がそこにいた。やあ、と顔をあげた十香が呆然とぼくを見る。口に咥えていた煙草が転げ落ちそうだった。

「どうしたの、泣いて」

 聞かれたらもう駄目だった。一瞬にして視界が歪んで、十香の顔も見えなくなる。膝から崩れ落ちて、地面に蹲るようにして泣いた。

「ちょっとちょっと、一成(いつせい)?」

 がさごそと多分煙草を消している音がして、背中に手が置かれる。涙の塩の匂いと、苦い苦いメンソールの香りが混ざる。この時ほど、煙草を苦いと感じたことはなかった。煙草なんてやめようよと叫びたくなるくらい、苦かった。

「大丈夫? なんかあった?」

 聞かれるままに、不明瞭に、嗚咽も我慢できぬまま、怒鳴るように教室で聞こえた会話を言った、と思う。本当に不明瞭だったろう。聞いていた十香は訳が分からなかったはずだ。

 それでも聞き終わった十香は、そうか、ってぼくの背を叩いた。

「しょうがないことだからなあ」

「しょう、しょうがないっ、てっ、ひっ」

「だって、事実じゃないか」

「そんなっ、違う」

 事実だからって言われていいのか。そうじゃないだろ。違う、言われたことが問題なのに。


 今まで、そんなこと思わなかったくせに


 違う、違うんだ。確かに今までは考えもしなかった。クラスメイトのあんな言葉聞いたらすぐに無視をしていたし、言われた対象の人とは関わりを絶っていた。そうして否定も肯定もせず、ただの「クラスメイトA」でいられるように動いていた。

 でも、違う、違うだろ。それは間違ってる。今、そういう言葉を教室で聞いていて、確かにぼくは嫌だと思ったんだ。そんなこと言わないでくれって、そうじゃないんだって、叫びたくなったんだ。だから教室を飛び出したんだ。

 確かに今まではこんなことしなかった。でも、だからって、これからしてはいけない理由にはならないじゃないか。いいじゃないか。今ここで、醜い自分を捨ててもいいじゃないか。なりたい自分になってもいいじゃないか。十香と仲良くしていたいって思いを信じて、教室での悪口なんか叩き切れるような人間になっても、いいじゃないか。

 変わってもいいだろ。

 なりたい自分になって、彼と仲良くしても、いいだろう! 

「俺は、そういうこと言われてもいいんだよ」

 けれど彼の返答はそんなものだから、強く首を振る。十香だからいいって、そんなわけない。酷い言葉を言われてもいい人なんていないんだ。いないのに。

「よくない」

「いいんだよ」

 あまりにきっぱりした断言で、十香を見上げた。膜を張った視界の中でも、彼がなんでも許すような表情をしているのは分かった。

 おかしい。言われているのは彼なのに。そんな表情をするのは、おかしい。おかしい、おかしいのに!

「どうしていつも自分を下げるような……!」

 どん、と彼の胸を叩いても、十香は困ったように笑うだけだった。


     ◯


 その日から、退紅は学校に来なくなった。

 教室にいないだけじゃなくて、屋上にも来なくなった。今までは二日に一度は学校に来てなにかしらの授業を受けていたのに、休んでもう一週間が経とうとしていた。彼の家が自分の家と近いらしいことは話していて知っていた。けれど、明確な場所までは知らなかったから行動できなかった。


     ◯


 だから、これだって偶々だったのだ。


     ◯


 夜の十時、眠気覚ましにコーヒーがほしくなった。家の冷蔵庫をぱかんと開けてみるも、コーヒーの類はひとつもなく。面倒だけれど、徒歩十分のコンビニまで行った。そこでボトル缶のコーヒーを二缶買った。明日もきっと欲しくなるだろうと思っての二缶だ。カウンター横にあるおでんにも惹かれたけれど、残念ながら「仕込み中」の看板が掛かっていて、中は空だった。

 帰りは少し遠回りして、河川敷を通ることにした。本当に理由はなかった。ただ、来た道を通るのはつまらないな、というくらいだった。

 冷たい風が頬を切るように撫でた。水辺の、草のにおいが漂ってくる。道の先を見ても誰もいない。話し声だってひとつもなく、する音といえば等間隔にある電灯の瞬く音と、小さく水が跳ねる音だけだ。ただ辺りを囲むように、草のにおいが巡っていた。青々しく、それが水に溶けたにおい。緑の腐ったような、


     ◯


 ――すっと香った、苦い苦いメンソール。

 彼の顔が脳裏にぱっと浮かんで、気が付けば河川敷を滑り落ちていた。スピードを抑えきれなくてスニーカーが、ズボンが、草に擦れたけれどどうでもよかった。前に進む足は止まらなかった。手からビニール袋がすっぽ抜けて、コーヒー缶が鈍い音を立てながらどこかへ転がっていく。

 無我夢中で駆け下れば、最後はほぼ落ちているようだった。痛む足を押さえながらも、赤い小さな灯火が目に入る。それが見えると、煙草の香りも強くなった気がした。

 体勢を立て直しているのがもったいなくて、転げるようにして川に近づいた。誰かいる。やっぱり誰かいる。岸辺から離れた川の中心に、誰かが立って煙草を吹かしている。

「十香!」

 息を吐き出しながらそう言えば、闇夜の中で白い煙が浮かんだ。

「なんで、一成がここに?」

 本当に不思議そうに言われた。きっとあの時のような呆然とした表情が顔に広がっているのだろう。けれどそれより、一歩も動こうとしない十香が気になった。この馬鹿みたいに寒い気温の中で川の中に居続ける十香が気になった。

「なにしてんの、十香」

「なんでもないよ。それより一成、早く帰った方がいいぜ。もう十時だ」

「そんなの、お前もだろ……!」

「俺はいいんだよ」

 また、気配で笑ったのが分かった。もう何度も言われた言葉だった。彼を慮る度に返される笑顔と言葉。決まってその時の表情は慈愛と諦観が混ざったもので、さらに言葉を続けようとすれば首を振られるのだ。

 何度も見てきた光景のせいで、もう想像だって出来るようになってしまった。

 躊躇なく川の中に入る。冷たさで全身が硬直したけれど、無視してどうにか動かす。

「おい、馬鹿」

 十香が焦っているけれど気にしない。ずんずんと進めば川底の大きい石に足が引っかかって、コケそうになった。なにやってんだ、と手を掴まれる。

「俺はいいって、なんだよ」

 その手を掴み返せば、驚いたのか彼は身じろぎした。

「いつもいつも、いつも」

 腕を、こちらに引っ張る。その動作に驚いたように、彼が煙草を川に落とした。じゅ、と一瞬明るくなり、煙草が沈んでいく。あんなに漂っていた煙草の香りが、水面に沈んでいく。

「俺はいいって、なんだよ」

 一歩、岸辺に戻る。腕を引っ張られたままの彼もこちらに近づく。陸地に片足かける。十香はそこで、躊躇するように力を込めた。

「一成、だから俺は」

「俺はいいってなんなんだよ!」

 言わせたくなどなかった。自分なんて自分なんてって、いつも自虐に浸る彼の慈愛と諦観に満ちたセリフなんて、もう一言も聞きたくなかった。

「よくないだろ! お前と他の人の何が違うっていうんだよ! よくないよ!お前も怒っていいんだよ! 泣いていいんだよ! なんで、俺はいいって拒否するんだよ! よくねえよ! なにひとつ、よくねえんだよ!」

「……い」

「十香!」

 言いかけた彼の言葉を遮り、名前を呼ぶ。ぼくの足は両足、陸に上がった。彼の足は、まだ片方だって陸地に上がっていなかった。それでも間近にある顔が、泣きそうになっているのがよく見えた。

 泣きそうな表情を見るのなんて初めてで少し驚いたけど、いや、彼がそんな表情をしても、なにもおかしくないんじゃないか。

 彼も、年相応の高校生だった。どんなに達観しているように見えても、その年で身に着けるなんてあり得ない慈愛と諦めを抱いていても、まるで大人の香りのような苦いメンソールを漂わせていても、彼は高校生だった。

 辛いことも悲しいこともあるはずなのに、俺はいいっていつも首を振る、優しい高校生なだけだった。不良と関わりなんてないのにいつも身体に青痣を作る、辛いことをたくさん抱えた高校生だった。

「苦しいこと沢山聞くから! 辛いことは一緒に泣くから! 怒りたいことはぼくが怒ってやる! だから、だから、俺はいいなんて言わないでくれよ!」

 ぐいっと腕を引っ張る。彼の片足が、陸地に乗る。暗いのに、十香の目から零れた涙ははっきりと見えた。


     ◯


 本当にそんなこと、するの?


     ◯


 出来るから。やるから。今まで出来なかったけど、醜く全てから目を背けていたけれど、これからはやるから。これで過去の行為が清算できるとは思わない。でも、これからは変えていくから。逃げることなんてせず、大切だと思った人の隣には、胸を張って立っていられるようにするから。頑張るから。

「ぼくがお前の味方でいるから!」

 くしゃりと十香の顔が歪む。口から嗚咽が漏れだす。勢いよく引っ張り上げれば転げるように十香は岸辺に上がり、そのまま肩を震わせ号泣しだした。






     ◯







 墓前には、みすぼらしい花束と煙草だけ置かれていた。

「全部夢ならよかった」

 泣く資格はない。僕は彼の墓前で泣いてはならない。

 何が出来た? 何をした?


 何も出来なかったね


 声を上げてはならない。思い出を振り返ってはいけない。懐かしんではいけない。大切な人だったなど、思う資格はない。

「それか全部、現実にできればよかった」

 こんなもしもを言うのも自己愛のそれとしか言えず、ただ許されるのは謝罪だけだろうと思った。

「……ごめんなさい」

 墓前に原稿用紙を置きかけ、手が震えた。

 置いてはいけない。書いてもいけなかった。なぜ書いた?


 君は結局、君だったね


 置いてはいけない。それは許されない。ただ僕が出来ることは、謝罪しかなかった。

「ごめんなさい」

 墓前にあったライターを取った。原稿用紙に火をつける。めらめらと燃えていく。それでも原稿から手を放しはしなかった。

 こんなもので墓前を汚すことは許されない。

 僕が出来ることは謝罪だけだった。

「ごめんなさい」

 炎が親指をなめた。熱いと思った。けれどそれで原稿用紙を手放すことは許されない。

 熱さがなんだ。痛みがなんだというのだ。

 ライターを、緑と白、そして銀で薄く「4」と書かれた煙草の隣に返す。

 僕が許されるのは、謝る行為それだけだった。

「ごめんなさい」


 本当にそんなことなんて、出来なかったね


 落ちそうになる涙を必死に止めた。泣くことは許されない。何も出来ず、何も始めず、何もしようとしなかった醜い僕が流す涙は、ヘドロそのものだろう。そんなもので墓前を汚すことは、許されない。

 謝ることしか許されない。

「ごめんなさい」

 もう香らない煙草が、墓前に鎮座している。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

現と夢 キジノメ @kizinome

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ