第二章【さつき野めい子さん】

新しいお願い

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。

 二年六組の学級委員長をやっている友人、新保が号令をかけると皆が立ち上がって一礼する。本日最後の授業を終えた教師は、気をつけて帰るように、と告げてから教室を出ていった。

 それと同時に生徒たちが歓声にも似た声をあげた。

 ある者はすぐにカバンを持って出ていく。

 ある者はイスに座り直して黒板の板書を急いで書き写そうとしている。

 そしてある者は……。


「【さつき野めい子さん】をご存知ですか?」


 僕のところへ質問にやってきた。秋功学園の黒のセーラー服と朱色のスカーフがよく似合う女の子。そして最近同じ屋根の下でいっしょに暮らし始めた女の子。西島ふじみだった。

 彼女は僕の正面に立って真剣な眼差しでこちらを見つめている。

「【さつき野めい子さん】?」

 思わず聞き返すと、こくりと小さくうなずいた。

 何を考えているのかわかりづらい表情をしている。けれど真面目に聞いていることだけは目から伝わってくる。

 誰だろう。聞いたことがない。女の子らしい名前だと思ったが、同じクラスの生徒ではない。他のクラスの生徒か。それとも芸能人か。とても珍しいというか特徴的な名前だが、新聞部に所属する新保なら知っているかな。そう思って彼の姿を探すと、教室に残っていた同級生の視線を一身に受けていることに気づいた。

「西島がしゃべってる……」

「珍しい」

「なんで古津ふるつと? 仲良かったっけ?」

 皆それぞれ思ったことをそのまま口に出している。あれこれ好き勝手言ってくれているが、こちらの耳にはしっかり届いている。けれど、そう言いたくなるのも無理もない話だ。

 西島とは一年生の時から同じクラスだが、彼女は友達がいない。少ない、ではなく、いない。それは高校に入学してからずっと同級生との交流を一切してこなかったからだろう。自分から話しかけることはなく、話しかけられてもあいまいな返事しかしない。そのうち声をかける者は一人もいなくなっていた。そこに追い討ちをかけるように春休みの大事故からの生還。それを機に無視されるだけでなく、陰で化物や怪物呼ばわりされるようになってしまった。直接的な暴力や嫌がらせを受けていないのは、不幸中の幸いと言って良いものかどうか……。

 教室の中で一人だけ手を叩いて楽しそうに笑っている男を見つけた。新保だ。しかし、なにがおかしいのかわからない。彼に尋ねる気がなくなってしまったので正直に答える。

「ごめん。その人のことは知らない」

「そうですか。ありがとうございました」

 西島はそれだけ聞くと教室を出ていく。相変わらずなにを考えているのかわからないが、なんとなく嫌な予感がした。そしてそれはすぐに的中する。彼女が教室を出た直後、同級生から質問攻めにされてしまった。新保は相変わらず一人で笑っていた。

 同級生からの質問攻めから逃げられず、一人一人の質問に正直に答えていたらすっかり遅くなってしまった。今日はどこにも寄り道せず真っすぐ自宅へ帰ってきた。

「おかえりなさい騙り部さん。ご飯にしますか。お風呂にしますか。それとも……」

「ただいま、西島さん。先にご飯にしましょう。それから騙り部と呼ばないでください」

 エプロン姿の同級生が毎日のように玄関で出迎えてくれるのは正直うれしい。だが何度注意しても呼び方だけは変えてくれない。いっそのこと『ご主人様』と呼ぶように言ってみるか。

「ダメですか?」

「ダメです」

 西島は首を少し傾けながら聞いてくる。

「今日はセーラー服にエプロンを合わせてみました。それでもダメですか?」

 なにが、それでも、なのだろう。それとこれに何の関係があると言うのか。だが、確かに昨日までは私服にエプロンを付けた姿で待っていてくれた。家での西島は落ち着いた色のパーカやカーディガン、それに合わせてズボンをよく着用している。今までは制服姿しか知らなかったから新鮮に感じる。

 一度だけ秋功学園の体操服を着て、その上にエプロンを付けていた時もあった。だがその時は、家庭科の調理実習みたい、と落胆にも似た声をもらしてしまった。そう言ってしまったせいか、その姿はそれきり見ていない。今思うとあれはあれで良かった気もする。少しもったいないことをしてしまった。

 今日のような制服とエプロンという姿は今回が初めてだ。西島の私服姿も見慣れてきた今となっては、制服にエプロンという組み合わせは逆に新鮮に感じられる。なんというか、良い。とても良い。幼なじみが料理を作りに来てくれたようで心がはずむ。

「ダメです」

 それでも僕の答えは変わらない。着ている服を少し替えただけで僕の気が変わると思ったら大間違いである。それに、その格好には西島以外の思惑を感じずにはいられない。

「なあ正語。今ちょっと考えなかったか? 幼なじみが夕飯を作りに来てくれたシチュエーションのギャルゲーみたいだと思わなかったか? いや、思っただろ? なあ?」

 いつどこから出てきたのか、僕の背後に父親が立っていた。

「やっぱりあんたの差し金か! くたばれエロ親父!」

 本気で当てるつもりで裏(うら)拳(けん)を放つが、それは空(くう)を切ってしまう。いつも自宅に引きこもって執筆ばかりしている専業作家のくせになんて反射神経だ。思わず感心してしまった。

「ふじみちゃん。もう一押しだ。明日はメイド服を着て『ご主人様』と呼んでみよう。きっと正語にふじみちゃんの想いが届くはずだ」

 父は息子のことをよくわかっている。しかし、今はそれがとても悲しく感じる。

「はい、お義父さん」

 西島も西島だ。どうして親父のわけのわからない冗談に付き合っているのだ。

 その日の夕飯には焼き魚と肉じゃが、それから豆腐とネギのみそ汁が出てきた。その他に昨夜のおかずの残りも食卓に並べられる。肉じゃがは母と西島がいっしょに作ったと言っていた。一口二口と食べてみると、確かにいつもの味付けと少し違った。けれど素直においしいと思い、正直にそれを伝える。母は口元を少しだけほころばせ、西島は黙ってうなずいていた。しっかりと煮えていないものもあったが、よく噛んでから飲み込んだ。

 夕飯の片づけは僕が担当した。調理に使った鍋や皆が使った食器をしっかりと洗って水切りカゴに置いていく。そこに西島がやってきて布巾でふき始めた。僕がやるからいいと言うが、二人でやった方が早いと言って聞かない。最終的に僕が折れてお願いすることにした。彼女は何も言わなかったが、少し満足気な表情に見える。おかげで片づけはものの数分で終わった。

 僕は自室に戻ってパソコンの電源を入れる。パスワードを入力してログインし、すぐに一つのファイルを開く。書きかけの原稿がパソコン画面に映し出された。それからキーボードに両手を置いてタイピングを始める。自分の頭に浮かんだイメージを文章で描写していく。途中、表現を考えたり文章を削ったりしながら執筆を進める。今日は筆の進みが速くて調子が良い。

 そこに、僕の部屋のドアを叩く音がする。集中しすぎて人の気配に気がつかなかった。

「あの、入ってもいいですか?」

 戸の外から西島の声が聞こえる。今日は調子よく執筆を進められていると思っていた矢先のことだった。無意識のうちにため息が出た。正直、ここ最近はペースが落ちていたから調子が良い今日はできるだけページ数を増やしたかったのだが。

「ごめんなさい。もうお休みでしたよね」

 ドア越しでも憂うつな気持ちが伝わったかのような反応だった。けれど、それは僕も同じ。その声に元気がないことはすぐにわかった。僕の調子も執筆ペースもすでに狂わされている。

 今日の作業は諦めて、入っていいよ、と伝える。それからドアがゆっくり開き、そろそろと体を滑り込ませるように入室してきた。制服とエプロンはすでに脱いでおり、動きやすい服に着替えられていた。決して残念とは思っていない。本当だ。

「また本をお借りしてもいいですか?」

 西島の手には一冊の本が収まっている。それは僕がオススメした小説だった。彼女に貸してからまだ二日しか経っていないけれど、もう読み終わったのかと少し感心する。

「種類は少ないけど、そこの本棚にある本ならなんでも読んでいいよ」

 小説や漫画、絵本や図鑑など子どもの頃から読んできた本がそのまま全て収められている。本当はもっと持っていたのだが、以前住んでいた家からここに引っ越す時に人にあげたり古本屋に売ったりしてしまった。小説家の父親が仕事部屋としている書斎には、もっとたくさんの本がある。しかしあそこは足の踏み場がないどころか、戸も開けられないほど散らかっている。それに、西島には見せられないようなものも多いので言わないでおこう。

「ありがとうございます。この本、すごくおもしろかったです」

 頭を下げて本を手渡してくれた。そして本棚の前に立って新たに本を選び始める。

 この家でいっしょに住み始めてからたびたび僕の部屋を訪れている。最初は殺してほしいと言い出したり0番街へ行こうと誘ってきたり意図のわからない行動が多かった。だが最近は、こうして本を借りていくだけで非常に良好な関係を築けていると思っている。たまに執筆作業に集中しすぎてノックの音を聞き逃し、勝手に入室されてしまうこともあった。そんな時は慌ててパソコン画面を隠して対応するはめになる。すると彼女はこう言った。

「男の子ですものね。気づかなくてごめんなさい」

 その勘違いによる気遣いが痛い。しかもそれを真顔で言うから余計に辛い。

 本当のことを言えたらどんなに楽か。だがこれは家族にも友達にも秘密でずっと続けている。僕にとっての夢であり目標、小説家になるためだ。もしそれが叶ったら皆に話そうと思っている。いや、必ず実現してみせる。たとえ誤解や疑念を抱(いだ)かれても今は言えない。

「あの、騙り部さん?」

 ハッと気づくと何度も呼びかけられていたらしい。

「あ、ごめん。何か言った?」

「今日はすみませんでした」

 西島は頭を下げて謝罪する。だが、なんのことだろう。なにか謝られるようなことをされたかな。僕が首をかしげて怪訝(けげん)な表情を見せていると、彼女が頭を上げて口を開いた。

「人が多い教室で聞くようなことではなかったです」

 そう言われてようやく思い出す。そういえば教室で誰かの名前を聞かれた。確か……。

「さつき野めい子さん……だったっけ?」

 そう、確かそんな名前だったはず。

 その問いかけに対して西島は小さくうなずいた。

「さつき野駅はご存知ですよね?」

「それはもちろん。秋葉駅の隣にある駅のことでしょ?」

「はい。さつき野駅周辺には、以前から背の高い女性が現れるそうです。身長は2メートル近くあり、私と同じくらい長い髪をしているのが特徴だそうです。さつき野めい子さんと呼ばれているらしく、その姿を見た人をどこまでも追いかけてくるのだそうです」

 さつき野駅は秋功学園の生徒がよく利用する秋葉駅の一つ隣の小さな駅だ。周りは閑静な住宅街でスーパーやコンビニなどの商業施設は少ない。秋功学園に通う生徒も住んでいると思うが、一駅しか離れていないので自転車や徒歩で通学をする人の方が多いだろう。

 しかし、さつき野めい子さんについてはあまりピンとこなかった。というのも、友人の新保はさつき野駅近くに住んでいるが、彼の口からそんな名前を聞いたことは一度もない。駅周辺にそんな女性が現れると聞いた覚えもない。他の友達ならともかく、新聞部所属の新保なら校内新聞の記事で紹介してもおかしくないネタだ。ん、記事……?

「もしかして、さつき野めい子さんってオカルト雑誌の記事で知った?」

 なんとなく既視感を覚えた僕は西島に尋ねる。すると彼女は小さくうなずいた。

 その反応を見て納得する。いや、正確には落胆する。

 思えば0番街の怪人を探したいと言い出した時も西島が愛読しているという雑誌からだ。あの時は本当にどい目にあった。彼女は存在を奪われてしまうし、0番街の怪人を騙る化物に騙し合いを挑まれるし、危うく全てを奪われるところだった。

 なんとか脱出できたけれど、いつの間にか朝になっていたから深夜に外出していたことがバレた。僕と西島は並んで正座させられ、母親から何時間も説教された。嫁入り前の女の子を歓楽街に連れて行くな、と怒られた。西島が自分から誘ったと弁解すると、結婚の約束もしていない男と歓楽街に行くなと怒られていた。やはり母親を怒らせると面倒くさい、とか、良いところのお嬢様というのは本当らしい、とか説教中の僕は思った。しかし説教が長くなったのは、あんなことを言った父親のせいだと思っている。

「ゆうべは おたのしみでしたね」

 次の瞬間、僕と西島といっしょに父親が正座させられていた。場を和ませたかった、と意味不明な供述をしていたが、明らかに火に油を注いでいるのがわからないのか。

「西島さんはその人を見つけたいの?」

 なんとなくそうでないかと思ったことを聞いてみる。時と場所を選ばず教室で話しかけてきたのは、すぐにでも僕に相談したかったから。けれどそこでは詳しい話をできなかったから、今こうして部屋にやってきたのではないか。本を返しに来たのはきっと口実だろう。

「はい、会って話してみたいです」

 西島は、真面目な顔で正直な気持ちを答えてくれた。

「それで、あの、また私といっしょに探してもらえませんか?」

 彼女は不安そうな目をしてお願いしてくる。断られるのが怖いと訴えかけてくるような目だ。僕はそんな不安を晴らすためにすぐに返答してあげる。

「いいよ。いっしょに探そう」

 そう答えるとすぐに表情がパッと晴れて明るくなる。

「ありがとうございます、騙り部さん」

「……だからその呼び方はやめてくれって何度も言っているよね」

 このやりとりをもう何度繰り返したか覚えていない。それでも僕は頼み続ける。

 だが彼女の答えはいつも決まっている。

「私にとって騙り部はあなただけですから」

 今日もまた変わらない答えが返ってきた。最近では半ば諦めてしまっている。

 それでもこのやりとりは今後も続くだろう。

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