彼女の名前

「ふじみ……?」

 今度は動いたところを見逃さず、しっかりと両目でとらえた。

「ふじみ。この女の子の名前はふじみだ!」

 僕は確信をもって告げる。彼女に関する記憶は戻らないままだが、間違いないだろう。

 先ほどよりも大きな声で告げたおかげか、女の子の反応も大きくなっていた。

「その子の苗字は?」

 怪人は無表情で聞いてきた。

「苗字?」

 僕もすぐに聞き返した。

「そう、苗字。その子の名前はふじみ。それは正解。でも、それだけでは帰してあげない」

 怪人の言葉と表情に嘘がなくなり、本気の殺意が伝わってきた。

 先ほどまで流れていたゆるい空気はすでになくなっている。また首元に冷たいものを感じることになった。

 そうだ。勝負の勝利条件は彼女の名前を呼んで起こすことにある。

 しかし、この国にどれだけの数の苗字があると思っている。こいつはそれを知っているのか。いや、知った上で聞いているのだろう。なんて悪趣味な奴だ。この勝負に勝ったら絶対にこいつの正体を暴いてやる。

 今度はそれらしい苗字をいくつか頭の中で思い浮かべた。無駄とわかっていてもなにもせずにはいられなかったから。だが、いくら考えても答えが見つかるわけがない。手がかりすら見つけられない。先ほどのように適当なことをつぶやいて彼女が反応することに期待してみるか。けれど、あんな幸運が二度も起こるとは思えない。それでもなにもしないよりはマシか。

 ため息をついて両手で頭を抱えた。その時、右手と左手の感覚が違うことに気づいた。両手を前に持ってくると左手にハンカチが巻かれていた。どうして今まで気づかなかったのだろう。だがここに来る時、ドアにぶつけて手を傷つけてしまったことは覚えている。その応急処置として巻いたのだ。

 けれど、この古いハンカチは誰の物だろう。僕はこんなハンカチを持ってきた覚えはない。

 左手の状態が気になってハンカチを取ることにした。爪が割れて血が出てしまっていたから痛むことを覚悟してゆっくり取る。傷口を見るのが怖いので目も閉じておく。しかし、不思議と痛みはない。それは指を包んでいたハンカチを取り払ってからも同じだった。恐る恐る目を開けて見ると、指の爪は割れていない。それどころか、傷一つ見つけられない。

 なぜ? どうして? 指を傷つけたのは記憶違いだった? それとも記憶を奪われたか?

 いやそんなことはない。確かに指の爪が割れるほど傷つけてしまったし、そのことに関する記憶はしっかり残っている。奪われたのはこの女の子に関する記憶だけだ。そして記憶がなくてもこれだけはわかる。おそらくこの傷を治してくれたのは彼女だ。

 それなのに、僕はこの子の名前が思い出せずにいる。思い出せたのはふじみという名前と傷の治りが速いことくらいだ。ああ、どうして本当に大事なことは思い出せないのだ。

「傷を治してくれてありがとう。ふじみさん」

 苗字はまだわからない。それでも感謝の言葉は自然と出ていた。

「ん」

 僕の呼びかけに反応してくれたのか、眠り続ける女の子が小さな声をあげた。

 いくら意識がないとはいえ、固い机に顔をつけたままなのは辛いだろう。そう思って額と机の間にハンカチを挟んであげることにした。そういえばこれは、彼女の持ち物なのかな。水色というよりも洗いすぎて青色があせてしまったような色だ。ハンカチを広げて僕の血がついていないか確認する。片側は問題ない。ひっくり返してもう片側を見てみる。するとそこには、僕が求めていた答えがあった。

「ああ……そうか……。そうだよ……そうだったんだ……」

 知らず知らずのうちにハンカチを固く握りしめてつぶやいていた。

 そしてすぐに怪人の方を向き直り、答えを忘れないうちに大きな声で告げる。

「この子の名前は西島ふじみ。聞こえたか? 西島ふじみだ。その目でしっかりと確かめろ!」

 僕は色あせたハンカチを怪人に見せつける。そこには彼女の名前がしっかりと記されている。何度も洗われて色あせてしまっているのに、なぜか名前だけはしっかりと残っていた。

「正解。あんたの勝ちだよ。さすが騙り部を名乗るだけのことはあるねぇ」

 怪人はニヤリと笑った。

 僕は笑わなかった。

 まだ彼女が起きていないから。それに、全く勝った気がしないから。

「あれ……騙り部さん……?」

 遅れて西島の意識が戻った。顔を上げて眠い目をこすりながらこちらに声をかけてきた。

「おはよう西島さん。大丈夫? どこか痛いところはない?」

「はい。大丈夫です。私は……眠っていたのですか?」

 彼女は、周りを見回しながら自分の置かれている状況を整理しようとしている。

 やはり意識を、名前を、存在を奪われている間の記憶はなくなっているらしい。いや、奪われていた?

「うん。店主さんのご厚意で休ませてもらっていたんだよ」

 心配をかけないためとはいえ、やはり嘘は嫌いだ。気分が悪いし心も痛む。

 怪人はその様子をニヤニヤと笑みを浮かべて見ていた。

「そうですか。ご迷惑をおかけしてすみませんでした。すぐに帰りましょう」

「まだ休んでいて大丈夫だよ。僕はこの人ともう少し話すことがあるから」

「でもそれは……」

 申し訳なさそうにしている西島に、怪人が声をかける。

「気にしなくていいよ。帰りは彼氏の背中に乗っけてもらえばいい」

 それから指をパチンと鳴らした。

 その瞬間、西島の頭がゆっくりと前後に揺れ動いて少しずつまぶたが落ちていく。

「すみません。それではお言葉に甘えて。もう少しだけ休ませていただきます」

「うん。店主さんには僕からお礼を言っておくから大丈夫。ゆっくりおやすみ」

「はい。ありがとうございます。あの、騙り部さん。一つだけ聞かせてください」

 なんだろう。意識を失っている間の記憶はないはずだが、なにか気づいたのだろうか。

「どうして泣いているのですか? なにか悲しいことがありましたか?」

 そう言われて顔に手を当てると涙の流れた痕があった。そして今も両目から涙が流れ続けている。手で何度ぬぐっても止まることを知らず、目からあふれ続ける。

「あれ、ごめん……。なんで……止まらないんだろ……。悲しくなんてないのに……」

 それは嘘ではない。奪われた西島の存在が戻ってきてくれてむしろ嬉しいはずなのに。

 それから僕は無茶苦茶に両目をこすり始めた。目に痛みを感じても涙を止められるならそれでいい。そこに誰かの両手が僕の両手を優しく包み込んで目をこするのをやめさせる。

 目の前には西島の顔があった。そしてゆっくりと口を開く。

「泣いてもいいですよ。私は騙り部さんの、その正直なところが好きですから」

 それだけ告げるとゆっくりバーカウンターに頭を置いて寝息をたて始めた。

「嘘しか言わない騙り部に正直者と言うなんて……この子もなかなかの嘘つきだねぇ」

 いや、彼女の言葉に嘘はなかった。つまりはそういう意味なわけで……。

「泣き止んだと思ったら今度は顔を真っ赤にさせて忙しい奴だねぇ、あんたは」

 怪人が呆れたような物言いでようやく気づいた。もう涙は止まっている。

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