騙り部さんとふじみちゃん

 二年六組の教室に戻ってくると友人の新保しんぼが黒板に落書きしていた。どうやら相合傘のマークを書いているようだ。子どもっぽいことをしているなぁと苦笑する。

 だが傘の下に僕の名前があることを見つけて急に慌てる。まさかもみじの木の下にいるところを見られたか。

「なにしてんの?」

 僕は落書きを完成させまいと声をかける。新保は首だけこちらに向けて答える。

「よう。意外と早いお帰りだな。どうだった?」

「……部活に行かなくていいの?」

 今日の授業は全て終わって今はもう放課後。帰宅部の僕はともかく、新保は新聞部に所属している。文化系クラブの中でも毎日精力的に活動している部活動のはずだ。

「話をそらすなよ。幸福のもみじの下にいるお前を見てるんだ。告白されたんだろ?」

 バレた。

 勘が鋭い男はライトノベルの主人公になれないぞと言ってやりたい。

「どうしても桜の花が見たくなって中庭に行ったんだよ」

 本当のことを話せないから咄嗟に嘘をついてしまった。ああ、気分が悪い。

秋功学園しゅうこうがくえんに桜は咲かない。桜の木が一本もないんだからな。校内にあるのはもみじの木だけだ」

 またバレた。

 新保が追い討ちをかけるように話を続ける。

「うちの生徒が中庭に行く用事なんて一つだろう。秋功学園七不思議の一つ【幸福のもみじ】。真っ赤に染まったもみじの木の下で愛を誓い合った二人は、一生幸せに暮らすことができるという逸話がある場所だぞ。それにしてもまだ春なのに、気の早い奴がいたもんだな」

 愛の告白ならどんなに良かったか。

大きなため息をついてからそれを否定する。

「気が早いというよりは死に急いでいるという感じかな」

 それを聞いた新保は意味がわからないと言いたげな顔を見せた。

 けれど僕から説明することはなにもない。同級生の女の子から殺してほしいと頼まれたなんて言えるわけがない。

「ところで、西島さんについて何か知っていることはない?」

「へぇ。古津正語ふるつしょうごに告白した物好きは同じクラスの西島にしじまふじみだったか」

「え……ちょっと待った。新保はもみじの木の下にいる僕と西島さんを見たんじゃないの?」

「ああ、見たぞ。でも校舎の窓から見えたのはお前だけで、相手の姿までは見えなかったんだ」

 ニヤニヤと意地悪そうに笑う新保。だが、その言葉に嘘はなかった。

「チクショウ。騙された……」

「あはは。お前は昔から嘘が下手だなぁ」

「うるさいなぁ。それで、なにか知らない? なんでもいいんだよ」

「あのな、なんでもいいと言われてそう簡単にポンポン出てくるかよ」

「新聞部なら全校生徒の個人情報を把握しているんじゃないの?」

「アホか。お前は新聞部をなんだと思っているんだ」

 彼は言葉を濁して目をそらした後、真剣な表情になってから話し始める。

「春休みに入る前、西島は事故にあって入院してただろ?」

「うん……両親と車に乗って出かけている時、信号無視したトラックが突っ込んできて……」

 そのことはクラス全員、いや全校生徒が知っているだろう。終業式で校長が話していたから。その事故でトラック運転手と西島ふじみの両親は死亡。彼女だけが生き残ったことを告げた。担任教師は、きっとまた同じ教室で勉強できる、と話していた。しかし、誰もが無理だと思っていただろう。それどころか、普通に生活することさえ難しいと思っている人もいたはず。

 テレビのニュース番組で報道された事故現場を見た僕はゾッとした。ぐしゃぐしゃに潰れた乗用車が真っ先に目に映る。衝突した大型トラックも原形を留めず、どちらの車も真っ黒に焦げており、巻き込まれた人たちが燃え盛る炎に包まれたことは明らかだった。

 あまりにも悲惨な光景を見た僕は膝から崩れ落ちた。西島ふじみが意識不明の重体で病院に運ばれたという報を聞いた時は涙まで流れた。もう助からないのではないかとさえ思った。

 それでも西島ふじみは戻ってきた。

 回復は絶望的と言われながら驚異的な治癒力を見せて。

「西島の奴、あれだけの大事故でよく生きていたよな」

 新保の言葉に黙ってうなずく。あの時のことを思い出すとまだ涙が出そうになる。

「普通の人間なら死んでいる」

 その言葉を聞いた瞬間、涙が引いた。それから距離を詰めて問いただす。

「なにが言いたいの?」

 彼はなにも答えようとしない。ただ、じっとこちらの目を見ているだけだ。それから小さなため息をつき、ようやく口を開いた。

「西島ふじみが陰でなんて呼ばれているか知っているか?」

 知っている。だが答える気にはならなかった。

「化物。怪物。あいつは不死身なんじゃないかって言う奴もいる」

 新保は、お前ならもう知っているだろ、と言いたげな目をしている。

 それでも僕は答えない。

「この前の始業式であいつの姿を見た時は驚いたよ。戻ってきたこともそうだけど、顔にも体にも傷一つない姿で自分の足でしっかり立っているんだからな。車椅子も松葉杖もなしだぞ?」

 声の調子はとても軽いのに、ひどく重い表情をしている。

 そこで僕はようやく口を開く。

「春休み中に完治したんだろ。思っていたより軽傷でよかったじゃないか」 

「あれだけの大事故に巻き込まれて軽傷で済むかよ。全身に傷や火傷やけど、脳に障害が残ってもおかしくないぞ。正語なら意識不明の重体という報道が嘘じゃないことに気づいているだろ?」

 もちろん知っている。それらが全て事実だということも。

「なら、きっと運がよかったんだ。大事故から奇跡の生還。昔からよくある話だろう」

「奇跡、よくある話、か。なら、意識不明の患者がたった一週間で完治したのも奇跡か?」

「優秀な外科医が手術を担当していたら……」

「医者は神様じゃない。ただの人間だ。奇跡なんて起こせるわけないだろ」

 新保の真剣な話しぶりを聞いて、それ以上なにも言うことができなかった。

「俺が知っていることはそれくらいだな」

 大事故から生還し、意識不明の重体にもかかわらず、障害も傷痕も残すことなく、わずか一週間で完治させた。これが事実だとしたら神様も医者も驚く奇跡だ。

 新保の話は新聞部ではなく個人で調査した結果だろう。それでも彼の情報は正確だ。嘘は一つもない。

 もみじの木の下で西島ふじみが自身の手を刺したことを思い出す。あの時、確かに手にはカッターナイフの刃が刺さり、赤い血も流れていた。あれは決して魔術や奇術の類ではない。実際にあった出来事だ。手に傷痕が見られなかったのは驚異的な治癒能力のおかげか。

 西島ふじみ。【不死身のふじみ】。彼女は本当に不死身なのだろうか。

 真実と嘘の区別があいまいだ。どこからが真実でどこまでが嘘なのか。僕の目でも真実と嘘の境界線が見えにくい。しかし、残念なことに全て嘘偽りのない真実である。

「先に言っておくけど、俺は西島が不死身だなんて思っていないからな」

 目を大きく開いて新保を見た。正直、驚いている。これほど正確な情報を自分で集めておきながら、それらを全て否定するとは思わなかった。

「人間はいつか必ず死ぬ。俺もお前も西島も同じだ。不公平な世界でもそれだけは平等だ」

 新保は二カッと笑う。それを見て、僕もつられて笑う。

「まあ、不死身かどうかはともかく大事故に巻き込まれても生きていたんだろ? それなら、助かってよかった、生きていてくれてありがとう、と俺は言いたい」

 彼は言っている途中で恥ずかしくなったのか、こちらに背を向けて顔を隠してしまった。

 ああ、そうだよな。君ならそう言うと思っていたよ。ありがとう、親友。

「さすが医者の息子だ。言うことが違うね。カッコイイ」

 僕が茶化すと彼は照れ笑いした顔をこちらに向けて話す。

「やめてくれ。俺は医者になる気なんてない。誰がなんと言おうと記者になるんだ」

 知っている。だから目標の実現のため、新聞部で知識や経験を積んでいるのだろう。

「そういうお前はどうなんだよ」

「どうって何が?」

「お前んちの家業を継ぐのかって話だよ。えーと、確か……かた……だったか?」

 今度はこちらが顔を隠す番だった。背を向けて自分の机へ向かいながら答える。

「あれは家業じゃない。ただの屋号だよ。古津という家についたあだ名みたいなもの」

 机の脇にかかっているカバンを持つと、そのまま出入口へ向かう。

「そうなのか? ずっと昔から続く長い歴史のある家業だと聞いた気がするんだけどな」

 僕は教室の戸の前で振り返って正確な情報を伝える。

。簡単に信じたらダメだよ?」

 新保は、狐につままれたような表情で首をかしげていた


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「あっ」

 新保に黒板の落書きを消すよう伝え忘れた。そのことに気づいたのは帰宅してからだった。

 なぜそのことを思い出したかといえば、玄関に見慣れない靴が置かれていたせいだ。落書きについては彼がそのまま帰ることはないだろうと結論付けた。しかしこの靴は誰のものだろう。若い女の子、特に女子高生が履きそうなデザインだ。家には僕と両親の三人しか住んでいないから家族のものではない。もしかすると親戚の誰かが遊びにきているのかな。

 見知らぬ靴の隣に自分の靴をそろえてから家にあがる。廊下を歩いて奥へ進んでいくと楽しそうな話し声が聞こえてくる。

 一人は父親の声、もう一人は若い女の子の声だ。

 なんとなく、僕はその声の主を知っている気がした。つい最近聞いたばかりのような声だったから。

「ただいま」

 居間に入ると、長い黒髪が真っ先に目に入った。そして朱色のスカーフと黒いセーラー服という見慣れすぎた秋功学園の女子制服。それから綺麗な髪の持ち主の顔が目に映る。声、姿、髪、顔が脳内の記憶と照合されて僕の口に彼女の名前を呼ばせる。

「西島……さん?」

「こんばんは」

 もみじの木の下で愛の告白ではなく、殺害依頼をしてきた西島ふじみが自宅にいる。

 これは現実ではない。夢か幻であってほしいと願った。

 しかし、それは無駄なことだった。

「やっと帰ってきたか。ふじみちゃん紹介するね。俺の息子の正語しょうご

 おい親父。今すぐこの状況を説明してくれ。

「はい。知っています。一年生の時から同じクラスでお世話になっています」

 なぜ君がここにいる。殺害依頼を断られたからって自宅に押しかけてきたのか?

 母はいつものように台所で料理しているようだ。台所をのぞくと、普段の食卓では見られない豪勢な料理がたくさん用意されていた。

「正語。この子は西島ふじみちゃん。今日からいっしょに住むことになったからよろしく」

 いつもの嘘か冗談かと思った。

 しかし、父の言葉には嘘の匂いが感じられなかった。

「ふじみちゃんのご両親が亡くなったのはお前も知ってるだろ。最初は親戚の家に預けられる予定だったんだが、色々あってうちで預かることにした。西島夫妻とは古い付き合いだからな。昔、秋葉山あきはやまの古い家に住んでいた頃よく遊びに来ていたことは覚えているか? お前もふじみちゃんといっしょに遊んだことがあるだろ」

 覚えていない、と反論しようとしてやめた。西島ふじみの鋭い視線を感じたから。また、僕は嘘が嫌いだから。それよりも今すぐ確認しなければいけないことがある。

「あのさ、西島さんがこの家に住むという話を今日まで全く聞いてないんだけど?」

「正語には言ってなかったからな。かえでさんと二人で相談して決めたんだ」

「どうしてこんな大事なことを相談もしないで黙っていられるんだよ!」

「お前に話さなかったことは謝る。悪かった。だけど正語。考えてみてくれ」

「なんだよ」

「かわいい同級生の女の子が突然同じ屋根の下で暮らすことになる。それって男子高校生にとって最高のシチュエーションだと思わないか? いいか正語。選択肢は間違えるなよ?」

 なにを言ってるんだ親父。いや、エロ親父。

 それなんてエロゲとでも言わせたかったのか? 

「最初は嘘をついてごまかそうと思ったんだが、お前は人の嘘にすぐ気がつくからなぁ」

「どうして嘘をついてまで隠す必要があるんだよ。そんなの意味ないだろう」

 父親の言葉からは反省の念が一切感じられない。

 当然だ。罪悪感なんてないのだから。

「はあ……だから嘘は嫌いなんだ……。どうしてうちの先祖は騙り部なんて屋号をつけたんだよ……」

「あはは。騙り部の家に生まれた人間が嘘嫌いか。おもしろい嘘をつくようになったな」

「嘘じゃない! 本当に嫌いなんだよ! いつもテキトーなことばっか言いやがって!」

「騙り部にも正直になるときはあるぞ? まずは惚れた相手といっしょにいる時。愛する人に嘘をついて悲しませることは絶対にダメだ。それからうまいものを食べている時。うまいものはまずいと言えるわけがない。それから眠い時。忙しくても睡眠はしっかりとるべきだ」

 性欲、食欲、睡眠欲。ただの人間の三大欲求じゃないか。大真面目になに言ってんだ。

「愛する人に嘘をつかない……。真実の愛みたいですね。素敵です」

 急に西島が的外れなことを言って話の輪に加わってきた。

 それを見て、もう一度深いため息をつく。

「親父の話を簡単に信じるなよ。騙り部は嘘しか言わないから騙り部なんだ」

 そう忠告すると彼女はこちらを見て大きくうなずいた。その時、ほんの少しだけ微笑んだ気がする。しかし教室ではいつも無表情だから気のせいかもしれない。

 そこに、母の楓が料理を持って現れる。父はすぐに立ち上がって料理を運ぶのを手伝い、僕は箸や皿を食卓に用意する。西島にそれらを渡したとき、小声で感謝の言葉を返された。

「あの、私もお手伝いします」

 そのまま座っているように告げるが、料理の数があまりにも多いので結局手伝ってもらうことにした。全ての料理を運び終えた時、食卓の上には隙間ができないほどの皿が置かれていた。デザートにはケーキまであるらしい。口数の少ない母も西島のことを歓迎しているのかな。

「さあ、今日はかた部一門べいちもんに新たな仲間が加わる大切な日だ。盛大に祝おう!」

 父は本当に嬉しそうに笑っている。どうやらその言葉と表情は嘘ではなさそうだ。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 自室でパソコンのキーボードを打ち込んでいると、誰かが廊下を歩いてくる音が聞こえた。その足音はゆっくりとこちらに近づいてきている。構わず原稿の執筆を続けていると部屋の前で足を止めたのがわかった。パソコンのデジタル時計はゼロを三つ並べた時刻を表示している。こんな遅くになんの用だろう。

「あの、すみません。少しよろしいでしょうか」

 一番来てほしくない人の声が聞こえてきた。

「西島さん? どうかした?」

「はい。お話したいことがあるんです。入ってもいいですか?」

「僕にはない。おやすみ」

 そう言えたらどんなに楽か……。

 何度も深呼吸して気持ちを落ち着かせてから戸を開ける。そこには小柄で細身、黒髪を背中まで伸ばした女の子が立っていた。風呂から上がったばかりの髪はツヤツヤでとてもいい匂いがした。そして自分の家から持ってきたという寝間着を着ている。理解が追いついていないが、同級生が同じ屋根の下にいる。やはりこれは夢や幻なのかもしれない。


「騙り部さん。どうか私を殺してください」


 その言葉のおかげで妄想から引き戻された。

 これは夢や幻ではない。悲しい現実だ。

 両親に見られていないか廊下の様子を確認し、すぐに部屋の中へ招き入れる。

「その話ならする気はないよ。それから騙り部と呼ばないでくれ」

 僕は不快な表情を少しも隠さないまま、正直な気持ちといっしょに相手にぶつける。しかし彼女は話を聞く気がないらしく、部屋の中を見回している。本棚に目を止めて興味深そうな視線を送る。

「本が読みたいならいくらでも貸してあげる。だから、すぐに出て行ってくれる?」

「あの本は……ありませんね。よかったです」

「あの本?」

「いえ、なんでもありません。気にしないでください」

 そんなことを言われると逆に気になるが、西島はさっさと話題を変えてしまう。

「騙り部さんは私がなんと呼ばれているか知っていますよね?」

 すでにこちらが知っていることを前提で話をするつもりらしい。だが僕は返事しない。彼女がこちらの言うことを聞かないなら、僕があちらの聞くことに答える必要もないのだから。

 しばらくすると西島はおもむろに服を脱ぎ始めた。

「ちょ、ちょっと待った! なにしてんの!」

 すぐにかけ寄ってやめさせる。それでも彼女は僕の手を振りほどいて服を脱ごうとする。

 殺害を依頼してきたり服を脱ごうとしたり、なにがしたいのだ。

 同級生が突然同じ家に住むことになったと思ったら夜中に部屋に来て服を脱ぎ始める。それこそエロ親父の筋書き通りではないか。まさか裏であれこれ指図されてきたのか?  

「止めないでください。傷一つない私の体を見てください。そして知ってください。私が不死身の化物であることを。そして殺してください。騙り部のあなたにしか頼めないのです」

 西島の真剣な目を見た僕は少し考えてから押さえ込んでいた手を離した。

 目は口ほどに物を言う。今の彼女の目はまさしくそれだったから。

「傷痕を見せたいなら先にそう言ってよ。それなら腕や足を見せるだけでいいから」

 西島の目から読み取った情報から奇怪な行動の真意をくみ取って伝える。

「ごめんなさい。だけど、こうでもしないと話を聞いてくれないと思ったから……」

 彼女は耳を真っ赤にさせながら着ている服の袖をめくって腕を見せてくれた。色白で、とても綺麗な肌をしている。傷や火傷、手術の痕も一切見られない。つい最近大事故に巻き込まれ、意識不明の重体で生死の境をさまよったとは誰も思わないだろう。

「骨は……折れていなかったの?」

「折れました。足も腰も頭もほとんど全部の骨が折れました。でもすぐに治りました」

「……手術は受けたんだよね? 傷痕や火傷はともかく、手術痕もないんだ」

「はい。少しずつ回復していく途中で骨折や火傷といっしょに手術痕も消えたみたいです」

 おかしな会話なのにどこもおかしくない。なんともおかしな話だ。

 けれど少しも笑えない。

 許可を得てから髪を触らせてもらう。細い髪の毛の一本一本が柔らかくしなやかで、指の通りが良くてスッと入る。昔から伸ばしているという髪も艶やかさと長さを保っている。車は燃え盛る炎に包まれたのに、髪が痛んだり焦げたりしたようにも感じられない。髪も体の一部だから死なないということか。髪は女の命とはよく言ったものだ。

「なぜか髪は一番回復が遅いんです。心臓から一番遠い位置にあるからでしょうか」

 西島は淡々と事実を述べる。どうしてそんなに冷静でいられるのだろう。

「それなら、心臓が止まったり刺されたりしたら……」

 死ぬのか、と言いかけてやめた。さすがにこれは聞くべきではない。ましてや肉親を亡くしたばかりの人に。謝ってから別の質問をしようとするが、先に彼女が口を開いた。


 西島ふじみは表情一つ変えずに事実を告げる。

「……西島さんは騙り部のことをどれくらい知っているの?」

 嘘嫌いな僕が口にしたくない単語。それなのに今日は何度聞いたり話したりしたことか。

「お夕飯の時にお義父とうさんからいろいろ教えてもらいました。それから子どもの頃にも……」

 彼女は恥ずかしそうに小声で話す。

 突然見知らぬ中年男から『お父さん』と呼べと言われたら無理もない。そういえば母も『お母さん』と呼ぶように言っていたような。

「騙り部は殺し屋でも殺人鬼でもない。もちろん、泥棒でも詐欺師でもない。ただの人間だ。騙り部というのは屋号で、ご近所さんからのあだ名みたいなものだよ」

 詐欺師、自分で言っておきながら嫌な響きだ。子どもの頃にそういった悪口を言われたから余計にそう感じる。昔は山奥の家に住んでいたから「秋葉山あきはやまの嘘つき一家」とバカにされた。

「むかし、秋葉山で悪さをしていた化物を倒したあかしとして、当時の権力者から騙り部という役職を与えられたとお義父さんから聞きました。それは違うのですか?」

「間違いではないよ。倒したと言っても人を騙すという化物との騙し合いに勝っただけだ。それに、他にも色々な伝承があるからあまり信用できないんだよ」

 化物を倒したと思ったら全て夢の出来事だったとか化物を倒したら今度は自分がその化物になっていたとか。昔の人が暇つぶしに考えた作り話ばかりだから、どれも胡散くさい。

 今でこそ嘘が苦手な僕だが、かつては騙り部に憧れ、いずれは自分もそうなりたいと考え、嘘ばかりついていた時期がある。例えば、海を渡っていくと金銀財宝が眠る島があるとか山を越えた先には違う言葉を話す人がいるとか。自分で考えた作り話をノートに書きためたり友達に話して聞かせたりした。ただし、どんな嘘でもついていたわけではない。僕は父親から騙り部として絶対に守るべき規則を教えてもらっていた。それは、人を傷つけ悲しませる嘘をつかないこと。

 一説によると騙り部は、秋葉市あきはしを治めてきた秋葉一族に代々仕えてきた家系らしい。多忙な毎日を送っていた秋葉のご当主様の心労を和らげるため、おもしろおかしい話をするために雇われたのだという。

 しかし、これもまた化物退治同様に本当か嘘かわからない伝承の一つだ。それでも幼かった僕は、それらの伝承を信じて疑わなかった。そして騙り部の規則もしっかり守っていた、はずだった。

 それなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。あの時見たものは嘘ではなかった。そしてあの時二人で作った本は意味がなかったのか。

「どうしても私を殺すことはできませんか?」

 一人で後悔と自己嫌悪を繰り返している僕に西島が声をかけてきた。

「殺さないよ。誰がなんと言おうと君は人間だ。絶対に殺さない。もちろん自殺もさせない」

 それを聞いた彼女は虚ろな表情のまま話を続ける。

「人は自ら死ぬことができます。それは人間にだけ許された行為ですから。うらやましいです。しかし私は化物です。化物が自殺するなんて聞いたことありません。やはり化物は人間の手で殺されるべきだと思いませんか?」

「思わない」

「ほら。私の手はこんなに冷たいんですよ? これが人間の手だと思いますか?」

 彼女は右手を差し出してくる。触れ、ということか。

 僕は黙って触れたり握ったりする。たしかに少し冷たい。

 夏なら手をつないで歩いたら涼しそうだ、とのんきに思った。

「ただの冷え性じゃない?」

 また冗談で返してみる。すると今度は表情を大きく変化させて反論してきた。

「違います! 私が化物だからです!」

 幼い頃に出会い、高校で再会してからずっと感情表現が乏しいと心配だったけれど、目の前で大声をあげて怒る彼女を見てホッとした。

 化物を自称しているが、感情は死んでいない。その姿は初めて会った頃よりも人間らしくなっていると感じた。

「殺すことはできないけど、悩みがあるなら話を聞いてあげるくらいはできるよ」

 昔の幼なじみからのお願いをただ無視するのも悪いと思い、少しだけ優しい言葉をかける。それを聞いた途端、西島はキラキラと輝かせた目をこちらに向けてくる。

「本当ですか? あの、ぜひお願いしたいことがあるんです!」

 まさかこんなにも良い反応があるとは自分でも思っていなかった。しかし、吐いたつばは飲み込めない。約束したことを否定したら嘘をつくことになってしまう。こんな時に限って嘘嫌いであることが災いした。

「わかった。でも今日はもう遅いから、その話は明日聞くよ。それでいい?」

「はい。死が二人を分かつまでの短い間ですが、よろしくお願いします。騙り部さん」

 そう言い残してすぐに部屋から出て行った。

 死ねない女の子がそんな誓いをたてるのは、なんだか皮肉みたいだと思った。

 西島が出て行ったことを確認してからイスに腰かけた。

 その瞬間、疲れがどっと押し寄せてきた。執筆を再開しようとパソコンのキーボードに手を置くが、今日はもう何もする気が起きない。


「起こすよ、奇跡」


 また昔のことを思い出しながらぽつりとつぶやいた。

 たとえ神様でなくても、ただの人間でも、僕は奇跡を起こさなければいけないのだ。

 なぜならそれが――僕と彼女との約束だから。

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