③「理華」


 俺は再び乱された心を鎮めてから、改めてリビングに戻った。


 しかし、俺がコップをテーブルに置くと、理華がすぐにこっちに寄ってきて、両手で俺の左手を引っ張った。


「遅いですっ」


「わ……悪い」


 理華は俺の手を掴んだまま、さっきと同じ場所に座った。

 俺も釣られて、元の場所に腰を下ろす。

 するとすぐにまた二の腕を抱き締められて、逃げられない形になってしまった。


「……今日はホント、よくくっついてくるな」


「ほ、本当は嫌なのなら、そう言ってください。そうすれば、私だって……」


「嫌じゃないって……! ただ……」


 言いかけた言葉を、俺はそこで区切った。

 紅茶を飲んで、もう一度心を落ち着かせる。


 その間にも、理華はずっと俺の腕に抱きついていた。


 一般的に見れば、きっと仲よく見えるんだろう。

 俺だって、理華からの好意を強く感じられて、ドキドキもするし、幸せでもある。

 それは、たしかにそうなんだ。


「……」


「……」


 でも……この雰囲気はやっぱり、俺には少し窮屈だった。


 浮かれてしまいそうになる自分の心を、無理やりに押さえつけて、俺は言った。


「理華」


「……はい」


 俺の異変に気がついたのだろうか。

 理華はそれまでの甘い声音から、いつもの調子に戻っていた。



 驚いたような、それから少しだけ、不安そうな顔だった。


「……今、何考えてるんだ?」


「え……」


「いつもと様子、違うだろ。なにもないなんて、嘘だ」


 隣にいる理華は、目を見開いて俺を見た。


 それからだんだんと暗い顔になっていって、恥ずかしそうに俯いてしまう。


「いいんだ、俺も嬉しいから。会いたいと思ってくれるのも、くっつきたがってくれるのも」


「……」


「でも……今みたいに、理華がなに考えてるかわからないと、心配になるんだ。だから、ちゃんと話してほしい」


 普通のカップルは、こんなこと言わないのかもしれない。


 理華の気持ちを態度で察してやるっていうのが、正しいのかもしれない。


 けれど。


「俺は……理華のことが本当に好きだし、もっと触れ合いたいって思う。理華も同じように思ってくれてたらいいなって、そうも思う。でも、あんまり急だとちょっと……怖いというか、驚いちゃうんだよ。どうしていいか……理華がどうされたいのか、わからないから……」


 けれど俺たちには、こっちの方が合っている気がした。


 不器用で、ムードもロマンもないけれど、お互いの気持ちを伝えないで、それですれ違って気まずくなるより、ずっといいんじゃないかと思った。


「無粋なのかもしれないけど、こうやって関係を進めたいときとか、いつもより、その……い、イチャつきたいときは……ちゃんとそう言ってくれると、俺も安心だから……」


 言っているうちにどんどん恥ずかしくなってしまって、最後の方は消え入りそうな声になる。


 だけどそれが、俺の正直な気持ちだった。


 「こういうときはこうするべき」とか、「今はこういう雰囲気だから」とか、世のリア充たちは言うのかもしれない。


 でもそんなのは、俺にはわからない。


 たとえわかったって、もしかしたら理華には、そんなのが当てはまらないかもしれない。


 そういう不確実な、綱渡りみたいなのは、嫌だった。


「もし万が一でも、俺の思い込みや独りよがりで、理華を傷つけたくないんだ……。理華とすれ違って、お互いの気持ちがわからなくなるのが嫌なんだ……。だから……」


 それは、俺の言葉が終わるのと同時だった。


「うぇっ!?」


 隣にいた理華が膝立ちになって、前に伸ばしていた俺の両足を跨いだ。


 俺の太ももの上に座った理華は、しばらく潤んだ瞳で俺を見つめた後、突然勢いよく、そして力強く、抱きついてきたのだった。


「り、理華! こら……!」


「……」


「そ、そういうのが不安になるって言ってるんだぞぉ……!」


 俺は完全に不意を突かれて、見事に動転していた。


 心臓が好き勝手に暴れ出して、身体中が一気に熱くなった。


 抱き合ったことは今までにもある。

 けれど、こんなに密着度の高いハグは初めてだった。


「り、理華ぁ……」


 思わず、情けない声が出る。


「廉さん、好きです」


 しかし、俺の胸の中で話し始めた理華の声は、驚くほどはっきりしていた。


「……本当に好きです。大好きです。廉さんにもっと触れたいです。廉さんにもっと、触れて欲しいです」


「……理華」


「用がなくても会いたいです。もっと長い時間、一緒にいたいです。同じ部屋にいたら、ちょっとでも離れたくないんです」


 そこまで言って、理華はゆっくり顔を上げた。


 上目遣いに涙を滲ませて、頬を染めている。


 俺はいてもたってもいられなくて、目の前の女の子がどうしようもなく愛しくて、理華の頬を両手で包んだ。


「……ちょっと前から、そんなことばかり思ってしまうんです。だけど、廉さんがどう思っているのかわからなくて……。どうすればいいか、わからなくて……」


「……」


「今日だって……ずっとしばらく廉さんに会えていなくて……声も聞けていなくて……。寂しくて、我慢できなくて……」


「うん……うん」


「そ、それにっ、廉さんは修学旅行委員の集まりに行っていたみたいで……そこには女の子もたくさんいて、紗矢野さんもいて……。私はそれが悲しくて、怖くて……でも、引き止めることもしたくなくて……!」


 理華の声は、もうずっと震えていた。

 ときどきしゃくり上げるようにして、言葉に涙が混ざっていた。


「だから……こんな時間なのに来てしまって……廉さんがそばにいるのが嬉しくて……いつもより、全然ダメになってしまって……っ。でも、廉さんが嫌がらず、受け入れようとしてくれて……それも嬉しくて……。ごめんなさい、廉さん。私が、自分勝手でした……」


 それは、全部理華の言葉だった。


 理華が俺に言えずにいた、でも俺にわかってほしかった、理華の思いだった。


「……はしたない女の子だと思われるかもしれません。我慢のできない、だらしない人間だと思われるかもしれません。でも私は……もうそれほど廉さんが好きなんです。知らないうちに、そうなってしまったんです。あなたとの距離を……もっと縮めたいと思ってしまうんです。だから、廉さ――


「理華」


 気づけば、俺は理華の身体をかき抱くように引き寄せていた。


 右手を当てた頭に顎を乗せると、理華の嗚咽するような途切れた息が漏れた。


 理華が、抱きしめる力を強めるのを感じる。


 だんだんと、身体の震えが止まるのがわかる。


 愛しくて愛しくて、もう本当にどうにかなりそうだった。


 ある衝動が、俺の頭を埋め尽くしていく。


 けれど自分からあんなことを言った手前、なにも言わずに、というわけにはいかなかった。


「理華」


「……なんですか」


「……キスしよう」


 息を飲んで黙った理華は、それでもゆっくり頷いてくれた。


 また両手で理華の頬を包む。


 目をつぶって、覆いかぶさるようにくちびるを重ねる。


 理華の匂いがする。


 熱を帯びた息がかかる。


 五感の全てが、理華のものでいっぱいになる。




 距離が、ゼロになる。




 溺れそうなほど苦しくて、心臓が壊れそうなほどドキドキして、もう死んでもいいくらい、幸せだった。


 理華も、そう思ってくれていたら。


 もしそうなら、どれほどいいだろう。


 でも、もしそうじゃなかったとしても。


「理華」


 今日だけ。


 いや、今だけは。


 俺の勝手を、許して欲しかった。


「好きだ」


 離れたくちびるが、物足りなさそうに緩んでいる。


 うっとりした顔の理華は、信じられないくらいに可愛いかった。


「理華」


「……はい」


「こうやって……ときどき距離をなくしていこう。ずっとくっついていることはできなくても、こうしてたまには、限界まで近づいてみよう。離れてないとわからないことも、くっつかないと感じられないことも、どっちもあるはずだから……」


「……はいっ。はい」


 涙でボロボロになった理華に、もう一度キスをした。


 両手の指を絡ませて、お互いを引き寄せながら、さっきよりちょっとだけ長いキスをした。


「ふ、ふぁぁあっ……!」


「な、なんだよ……」


「だって……ほあぁ……」


「……」


 近すぎると、見えないから。


 でも離れすぎると、感じられないから。


「……キス、してしまいました」


「そっ! ……それは……理華が頷くから」


「でも、二回もされました……」


「い、いや……まあ……悪い」


「いっ、いいんです! でも……ふわぁ……」


 きっとこうやって、近づいたり離れたりしながら、俺たちは一緒に歩いていく。


「……もう一回」


「ええっ⁉︎ いや……今日は、もう……な?」


「ダメです。もう一回」


「お、おい! あ、こらっ! やめ」


「やめません」


 けれどやっぱり、ちゃんと考えないといけないらしい。


 この美少女と、距離を置く方法を。

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