②「……私のこと、好きですか?」


「こ、こっちの方がテレビが見やすいですよ。……もたれることもできますし」


 言いながら、理華は自分の横のカーペットを、ぽすぽすと叩いた。


 もちろん、隣に座ることに抵抗があるわけじゃない。

 ただなんというか、改めてそうやって呼ばれると……。


「ま、まあ……いいよ、こっちで」


 理華の様子が変だということも手伝って、なんとなく気が引けてしまう。


 だが、理華は俺の返事を聞くと、かすかに口を尖らせた。

 大きな変化ではないが、不満そうなのが充分、わかる。


「えっと……」


「……いいじゃないですか、来てくれたって」


 そんな、拗ねるような声。


 途端、俺は胸をキュッと締め付けられるような、身体を内側からつままれるような感覚に襲われた。

 そしてこれと同じものを、俺は理華と付き合ってから何度も感じている。


 ……これはきっと、ときめきというやつだ。


「廉さんっ。ね、来てください」


「お、おい……」


 理華は中腰でこちらに寄ってきて、俺の服をクイクイと引っ張った。

 ねだるような目が、すぐ近くにある。


 そんな顔でそんなことを言われると、断るのは不可能だった。

 それに、そもそも拒む明確な理由だって、ありはしないのだ。


 俺は理華に引かれるまま、おとなしく隣に移動した。

 座って足を伸ばすと、俺と理華の裸足のつま先が、四つ並んだ。


「……どうしたんだよ」


「だって……遠くだと寂しいじゃないですか」


 遠く、と言うほど遠くなかっただろうに……。


 そう思いつつも、反論はしないでおいた。


 俺だって、なにも離れたいというわけじゃない。

 ただ、こういうやりとりにも、こんな理華にも慣れていないせいで、戸惑ってしまう。


 俺が情けない……のだろうか。


 それから、俺たちは一緒にテレビの方を向いていた。

 理華との間には、ほんの数センチ、距離がある。


 ただその隙間も、理華が身体をもぞもぞと動かして、すぐに埋めてしまった。


 ぴったりと、肩同士がくっつく。

 身体が触れたところから、優しく押されるような圧力と、理華の体温を感じる。

 腕だけじゃなく、全身に変な力が入って、俺は動けなくなっていた。


 心臓が早まる。

 それが肩伝いに理華にも知られてしまいそうで、けれどどうしようもなかった。


「……」


「……っ」


 突然、左腕に温かい感触がして、俺は身体が強張るのを感じた。

 腕が緩い力で引っ張られ、何かに包み込まれている。


 理華が、俺の二の腕を抱きしめていた。


「……」


「……」


 テレビの中では、探偵役が何か重要なことに気がついたらしかった。


 対して俺は、とっくにドラマの内容なんて頭に入ってきていない。

 いつもなら、大抵この辺で俺にも犯人がわかるのに。


「……廉さん?」


「……なんだよ」


「……嫌ですか?」


「いっ……! 嫌じゃ……ないけど」


 けど、なんなんだろうか。


 自分でもその続きがわからず、俺はただじっとしていることしかできなかった。


「……」


「……」


 息が詰まるような空気だった。


 緊張と、不安と、愛しさと。

 そんなものがごちゃ混ぜになって、俺の頭をいっぱいにしていた。


 知らないうちにカラカラになっていた喉を潤そうと、なんとか身体を起こして、グラスに手を伸ばす。

 その動きに合わせて、理華が俺の腕から手を放した。


 けれど飲み終わって元の位置に戻ると、また理華は俺の腕を抱きしめてくる。


 できるだけ離れていたくない、けれど、邪魔はしたくない。

 そんな気持ちが伝わってくるようだった。


 理華らしい気遣いと、でもやっぱり理華らしくない、甘えるような態度。


 正直俺はもう、可愛すぎて、ドキドキしすぎて、どうにかなりそうだった。


「……なにかあったのか?」


 できるだけ、いつも通りの声で聞いてみた。

 だが、理華はそれにも答えず、代わりにふるふると小さく首を振るだけだった。


「……廉さん」


「ん……」


「……私のこと、好きですか?」


「えっ……」


 言葉に詰まった。

 普段なら、恥ずかしくてもちゃんと、答えられるのに。


 いや、やっぱりそれもこの雰囲気と、今の俺の胸の高鳴りのせいなのだろう。


「……好きだよ、もちろん」


「……そうですか」


 理華は、はぁっと湿った息を吐いた。

 そして二の腕を抱きしめる力をギュッと強め、それから、俺の肩にコテンと、頭を預けてきた。


「私も、好きです。廉さん」


 理華と身体が触れている部分が、痺れるように熱くなった。


 心拍数が跳ね上がるのがわかる。

 胸がつかえるような苦しさと、痛みにも似た幸福感に襲われる。


 嬉しくて、恥ずかしくて、でもどうしようもなく愛おしかった。


 ドラマは、いつのまにかすっかり終わっていた。


「ホントに……どうしたんだよ、今日は」


「……だって、好きなんです。……くっつきたくなることだって、あります」


 理華の声を聞くたび、触れたところを意識するたび。

 俺は自分の理性が、ちょっとずつ失われていくような気持ちになっていた。


 そのことを言語化して理解したことで、若干頭が冷静になる。

 ただ、明らかにこのままでは、なにかとマズいような気がした。


「ち、ちょっと、悪いっ」


 意を決して、俺は逃げるように立ち上がった。

 カラになったグラスを持って、キッチンへ向かう。

 名残惜しそうに指先を掴んでくる理華の手もなんとかすり抜けて、ドアを閉めた。


 シンクにグラスを置くと、安堵なのか不安なのかわからないため息が、自然と漏れてきた。


 今度はなにか、すっきりするものが飲みたい。

 それからついでに、しばらく時間を置きたかった。


「……ふぅ」


 ケトルの湯が沸くのを待つ間、俺は胸に手を当てて、何度か深呼吸をした。


 頭がはっきりしてきて、鼓動がゆっくりになるのがわかる。

 理華への愛しさで支配されていた頭が、やっとまともになったようだった。 


「ヤバかったな……」


 口に出してみると、ますます思考がはっきりし始めた。

 いかに自分が酩酊状態だったか、よくわかる。


 ホントに、ヤバかった……。


「……可愛すぎるんだよ」


 もちろん、嫌なわけじゃない。

 それどころかさっきまでの俺は、この世で一番幸せなぼっちだったんじゃないかとすら思える。


 ハグや手を繋ぐのだって、ここまでドキドキしなかったのにな……。

 やっぱり、この雰囲気のせいなのか?


 ……ただ、理華のやつは本当に、どうしたんだろうか。


「……」


 思えば少し前から、理華は俺の身体に触れる頻度が上がったような気がする。

 それから、気がつくとこっちを見ていたり、名前を呼んでくる回数も増えたように思う。


 もしかすると、そういうことが今日の理華の異変にも、関係しているのだろうか。


 それとも、なにかまったくべつの理由や、きっかけがあるのだろうか……。


 …………。


「……いや、違うな」


 ぶんぶんと首を振って、俺は直前の思考を全部、頭から消し去った。


 ちょうど沸いた湯を、レモンティーの粉末の入ったマグカップに注ぐ。

 酸っぱい匂いが鼻腔をついて、意識がクリアになるのを感じた。


 俺が今やらないといけないのは、理華の気持ちやその原因を、推測することじゃない。


 ましてや、理華の可愛さにやられてる場合でもない。


 そうじゃないだろ、アホ。


 情けない自分を奮い立たせて、俺は深く息を吸った。


「……よしっ」


「廉さん?」


 だが、そのとき突然ドアが開いて、理華がひょこっと顔を出した。


「なっ……なんだよ」


「……なにしてるんですか?」


「い、いや……ちょっと、熱い紅茶を」


「……早く戻ってきてください。寂しいです」


 理華は拗ねたような口調でそう言うと、ゆっくりとリビングへ帰っていった。


「……はぁ」


 また、可愛いことを言いやがって……。

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