③「でも、もう終わりにする」


 結局、メシを食べてダベって、適当に労いの言葉を言い合って、『修学旅行お疲れ様会』は幕を閉じた。


 すぐに帰るのになんとなく気が引けた俺は、生徒会の連中に交ざって、ゴミやテーブルの後始末を手伝った。

 そうして、先に帰ったやつらより十五分ほど遅れて下駄箱を出た頃には、辺りは完全に暗くなっていた。


 もう部活組も引き上げたようで、校門までの道は静かだった。

 須佐美たちは責任者の教師に挨拶をしに行ったので、ここからはやっと、俺ひとりだ。


 疲れた。だが思いのほか、気分は悪くない。

 あとは無事、家に着きさえすれば――


「あ、楠葉くん来た」


「……」


 なかなか、思うようにいかないもんだな……。


「遅かったねー。なにしてたの?」


「……片付けの手伝い」


「あっ! そこまで気がつかなかった……失敗したなぁ」


 言いながら、紗矢野はススっと、俺の横に並んだ。


 もはや聞くまでもないのかもしれないが、だからといって聞かないのもおかしな話だった。


「なんだよ」


「一緒に帰ろ」


「……待ってたのか」


「うん」


 俺は、紗矢野と時間をズラすために、生徒会を手伝ってたのに……。


 だが、こうなったらもう、逃れようがない。

 俺は観念して、いつもより少しだけ早足で歩いた。


「楽しかったね。お疲れ様会」


「まあ」


「楠葉くん、来ないって言ってたのにね」


「……気が変わったんだよ」


 紗矢野の声は自然で、軽かった。


 気まずさと、罪悪感。

 それが、俺が紗矢野を避けた理由だ。

 もっと言えば、この集まりに来たくなかったのだって、紗矢野がいるだろう、と思ったからで。


 ただこうしてみると、向こうはそこまで、気にしていないのかもしれない。

 俺の考えすぎ……なのだろうか。


「終わったねー、修学旅行。これで、私たちの仕事もおしまいかぁ」


「だな。やっぱり、後が楽でいい」


「あはは。楠葉くんはそれ、気にしてたもんねー」


 普通だ。

 まるで、告白なんてされていないかのように。


 リア充の人間関係とは、こういうものなのか?

 でもたしかに、恭弥ならフった相手にもこんな感じで、変わらず接していそうではある。


 ……だが、それなら紗矢野は、どうしてわざわざ俺を待って……。


「楠葉くんさぁ」


「……ん?」


「彼女さんとはどうなの?」


「……」


 その質問に、俺は思わず固まってしまった。

 見ると、紗矢野は顔をこちらに向けて、薄らと笑っていた。


 結局、こういう展開になるのか……。


「なに? べつにいいじゃん聞いたって。友達なんだし」


「い、いや……まあ、そうだけどさ」


 友達……か。

 こっちから否定しようとは思わないが、紗矢野の方でそう思ってくれているというのは、なんというか……。


「あーあ、いいなぁ橘さん、楠葉くんと付き合えて」


「……」


 額に変な汗が滲む。


 紗矢野の口調はあくまで明るいが、話している内容が怖過ぎた。


 返答に困るってレベルじゃないぞ……。


「まあでも、可愛いもんねー橘さん。私もけっこうイケてると思うけど、さすがにあの子には負けるもん」


「……」


「ねぇ」


「なっ……なんでしょう」


「もし橘さんとうまくいかなくなったら、すぐに私に言ってね? 次、予約しとくから」


「えぇ……」


 なんなんだ、予約って……。

 俺が知らないだけで、リア充の世界にはそんな制度があるのだろうか……。

 それとも、冗談か……?


「私はべつに橘さんと付き合ったまま、二番目の女にしてくれてもいいんだけどね。たぶん、それは橘さんが怒るだろうし」


「ば、バカなこと言うなよ……」


「バカじゃないもん。恋愛にちゃんとしたルールなんてないんだし、まだ好きなんだからしょうがないじゃん」


 紗矢野は、今度は俺の方を見ないで言った。


 俺はいたたまれなさと、そもそもの恋愛経験値が低すぎるせいで、なにも言えなかった。


 正解がわからない。

 わかるやつがいるのかさえ疑わしい。

 恭弥や須佐美なら、こんな場面でもあっさり乗り越えてしまうのだろうか……。


 それから、紗矢野はしばらく黙っていた。

 話題を振ることも、隣を見ることもできず、俺はひたすら、紗矢野と道が別れる交差点を目指していた。


「……ねぇ、楠葉くん」


 あとひとつ信号を越えれば、というところで、再び紗矢野が口を開いた。


「……どうして人は、フラれてもその人のこと、好きじゃなくならないんだろうね」


 けれど、今度の紗矢野の言葉には、それまでと違ってどこか神妙で、悲しげな色があるように思えた。


 馬鹿で鈍い俺は、その質問にもなにも、答えることはできない。


「好きじゃなくなれば……。いっそ嫌いにでもなれたら、悲しくないかもしれないのに」


「……」


「フラれてもまだ好きで、諦めきれなくて、振り向いて欲しくてもさ。振り向かせるために頑張ったら、横取りだとか、卑怯だとか言われちゃうんだよ? だからこうして、バレないところでこっそり、ちょっとだけ頑張ることしかできないんだよ? その人が、完全に誰かのものになったわけでもないのに。ただ今の間だけ、偶然誰かと両想いになってるって、それだけなのに」


 紗矢野の声は震えていた。


 俺はそれに気づかないようにして、目の前を通り過ぎる車をぼんやり眺めながら、信号が青になるのを待っていた。


 車の走行音に隠れて、ずずっという音が聞こえたような気がした。

 俺はそれでも、前を向いたままだった。


 恋愛の、ルール。


 法律はおろか、教科書やネットにも、どこにも明確に書かれていない、その曖昧なルール。

 なのに、なぜだか異様なほど強制力が高くて、ある意味理不尽なルール。


 俺みたいなやつでも、いつのまにかなんとなく了解している、そのおかしな決まりごと。


 紗矢野の気持ちが、俺にはわからない。

 でも、言ってることはきっと、間違っていないんじゃないかと思った。


「……あーあ。もう、最悪。私らしくないね、ウジウジしちゃって」


 信号が変わるのと同時に、紗矢野が言った。

 声音は明るかったけれど、少しだけ投げやりで、自虐的な響きがあった。


「ごめんね楠葉くん。結局私、こうして楠葉くんに構ってもらおうとしてるだけだからさ。……ホント、卑怯だし、ダサいし、嫌な女だ」


「……紗矢野」


「でも、もう終わりにする。もちろん楠葉くんのこと、嫌いになれるわけじゃないけど……もう変なことも、ウザいことも言わない」


 紗矢野は、ふぅっと深く息を吐いた。

 いつのまにか、例の分かれ道に着いていた。


 ピョンっと俺から逃げるように跳ねて、それから身体をこちらに向けて、紗矢野はニコリと笑う。


 そして、両手で自分の頬をペチペチと叩き、「はい、切り替え!」と言って首を振った。


「ごめんね、待ち伏せしてて。それから、送ってくれてありがと。また二学期からも……友達でいてね」


 踊るようにひらっと背を向けて、紗矢野は歩き出す。


 だがゆっくり離れていくその背中に、俺はなぜだか、声をかけてしまっていた。


「紗矢野っ」


「……なに?」


「……紗矢野は、すごいと思う」


 俺は、頭の中を必死に整理していった。


 思っていることを、不足なく伝えたくて。

 出来るだけ正確に、俺の考えが伝わって欲しくて。


「俺は理華が好きだから、告白されても、予約されても、きっと紗矢野の気持ちには答えられない。でも紗矢野のこと、いいやつだと思うし、本当にすごいやつだとも思う。もし紗矢野の好きな相手が俺じゃなくて、今こうして、失恋したお前が目の前にいたとしたら。もしそうだったら……俺は紗矢野に言ってやりたい」


 紗矢野はこちらを向かない。


 ただ服の裾を緩く握って、相槌も打たず、黙って立っている。


「きっと、紗矢野を選ばなかったそいつはすごく後悔する。それからいつか、きっとお前のよさをわかってくれる、見る目のあるやつが現れる。……それは俺じゃないけど、でも、お前は絶対に、いい恋をすると思う」


 そこまで言って、俺は見られてもいないのに、紗矢野の背中から顔を背けた。


 頭の中が熱くて、まるでのぼせているみたいだった。


 紗矢野をフッた俺には、こんなことを言う資格はないのかもしれない。


 失礼で不誠実だと、思わせぶりだと言われるのかもしれない。


 だけど、それでもなんとかして伝えたかった。


 紗矢野みたいに強くて、そしてまっすぐなやつなら、きっとこれからなんとでもなる。


 俺なんかよりもっとまともで、もっとめんどくさくないやつと一緒に、幸せになれるはずだ。


「……あーあ」


「えっ……」


 紗矢野が、くるりとこちらを向いた。

 瞳が揺れて、キラリと鈍く光ったように見えた。


「なにそれ? せっかくこのまま、ちょっとはマシな顔と気持ちで、帰れると思ったのにさ」


「……」


「台無しじゃん、ホント。そんなこと言う楠葉くんも、それで喜んでる私も、バカみたい。嫌いになりたいって言ってるのに、たぶんますます引きずるよ、私」


 そう言った紗矢野の顔は、言葉とは裏腹に、どこかすっきりしているように見えた。


 少しだけ潤んだ瞳が細まって、初めて俺に話しかけてきたときと同じ、リア充っぽい笑顔を作っていた。


「しかも、ちょっとのろけ入ってたしさー。そんなの、もう諦めるしかないじゃん。あーあ」


「いや、まあ……それは、なんというか」


「いいよいいよ。もう、諦めるから。正直ますます楠葉くんが惜しくなっちゃったけど、でも、ちゃんと諦める」


 紗矢野はサイドポニーの髪を揺らして、またこちらに背を向けた。


 それから肩をガクンと落とすように、ひとつ息を吐く。


「諦めるけど、好きじゃなくなったわけじゃないんだから、あんまり優しくしないでよね。いい? でも、私が話しかけたらちゃんと喋って」


「……おう」


「あと、今は諦めても、橘さんと別れたときは、またアプローチするから。それはいいでしょ? 当然の権利だもんっ」


「……ああ。わかったよ」


「……ふんっ。じゃあ、バイバイ。またね」


「おう。また、学校でな」


「……うん」


 そうして、紗矢野は帰っていった。


 紗矢野の姿が見えなくなってから、俺は長い長い息を吐いて、近くの電柱に寄りかかった。


 今日は、本当に疲れた。

 ただ、もしかすると。


「……はぁ」


 そんなに、悪い日じゃなかったのかもしれないな。

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