④「今度からは、ちゃんと話そう」


 決意が固まったのは、すっかり夜になった頃でした。


 廊下に出た私は、廉さんの部屋を目指して、階段を下りていきました。


 今はホテル内のホールで、自由参加のレクリエーションが行われています。

 そのせいか、辺りにはあまり人の気配がありませんでした。


 静かで、まるで真夜中に目が覚めたみたいでした。


「……」


 廉さんに、会いに行かないと。


 まだうまく、言葉で伝えられるかどうかはわからないけれど、それでも、会いに行かないと。


「……廉さん」


 ……いえ。


 要するに私は、廉さんに会いたくなっていたのでした。






 廉さんの部屋がある階に着くと、視界の先に長い廊下が伸びていました。


 あとは部屋まで行って、ドアをノックするだけ。


 そう、思っていたのに。


「……あ」


 その向こう。通路の反対側にある階段に、ふたり分の人影がありました。


 顔が見えなくても、それが廉さんと紗矢野さんであることが、私にはわかりました。


 ふたりはゆっくりと、階段を下っていきました。


 気がつくと、私は小走りになって、ふたりの後を追いかけていました。



   ◆ ◆ ◆



 よくないことをしているのは、わかっていました。


 けれど、私は後をつけるのをやめられませんでした。


 ふたりは一階に下り、ロビーを通り過ぎて、ホテルの外に出ました。


 側にあったホールのドアからは、賑やかな声が漏れています。


 私はホテルを出て、彼らの姿を探しました。

 外はすっかり暗くて、でも蒸し暑くて、なんだか息が詰まるようでした。


 ふたりは、ホテルの建物に回り込んだ庭で、向かい合って立っていました。


 手前に廉さんの背中があり、奥に紗矢野さんがいます。


 彼女の表情は読めず、当然、廉さんの顔も見えませんでした。


 私は物陰に隠れて、沈むようにその場に座り込みました。


 足も心も、なにもかもがすごく重くなって、身動きが取れませんでした。




「ごめんね、急に連れ出して」




 始まった、と思いました。


 それと同時に、刺すような痛みが、私の胸を襲いました。


「……いや」


 廉さんの声は落ち着いていました。

 それが嬉しいのか悲しいのか、怖いのかわからず、私はただ顔を伏せて、うずくまっていました。


「もう、気づいてるかもだけどね」


 止める権利は、私には、いいえ、誰にもありませんでした。




「私、楠葉くんが好き」




 不安と、焦りと、身勝手な苛立ち。


 ひょっとしてあのときの廉さんも、こんな気持ちだったのでしょうか。


 一ノ瀬さんという方の告白を、私は断った。


 その後に顔を合わせた廉さんは、今思えばひどく、そわそわしていたように見えましたから。




「だから楠葉くん、私と付き合って」




 嫌だ、と。ダメ、と。


 そんな自分勝手な気持ちで、頭の中がいっぱいになって。


 自分がどれだけ廉さんを縛りたがっているのか、彼に執着しているのか、それを思い知ることしかできなくて。


 彼が私の手から離れていかないことを、嘆くように、縋るように、祈ることしかできなくて。


 でも――




「……悪いけど、断るよ」




 でも、それでもいいのだと。


 そんな気持ちがあったって、それが恋なのだと。


「……そっか」


 だって私は、以前よりもずっと。


 今の方が、ずっと。


「俺には……好きなやつがいるから」


 滲んでくる涙がこぼれ落ちないように、私は何度もハンカチで目元を拭いました。


 廉さんと出会ってから、なんだか泣いてばかりいる気がします。


「それに……まあ、なんだ。もう、付き合ってるからさ……」


 きっと、もうバレてしまっているのに。


 彼らしい、不器用な断り方。


 でも、そう言ってくれることが、どうしようもなく嬉しくて。


「……あはは、やっぱり? わかった。ありがと」


「……悪い」


「どうして謝るの? 私が勝手に誤解して、油断して、モタモタしてたのがいけないのにさ」


「それは……そうかもしれないが」


「あーあ、ショック。すっごくショック。もう帰る」


「……」


「……引き留めてもくれないんだ。ホントに、チャンスなしって感じだね」


 廉さんがどんな顔をしているのか、目に浮かぶようでした。


 私は今のうちにできるだけ涙を拭いて、彼の前に出て行く準備をしました。

 このまま隠れているなんて、したくなかったから。


 物陰にいる私の横を、紗矢野さんが早足で通り過ぎました。


 そのとき、彼女はこちらを見ずに、けれど間違いなく私に向けて、言いました。


「負けちゃった」


 紗矢野さんは目尻に涙を溜めながら、それでも毅然とした表情を崩しませんでした。


 去っていく後ろ姿が凛々しくて、私はしばらくその背中を見つめてしまいました


「り、理華……⁉︎」


 私が姿を見せると、廉さんは焦ったようにオロオロして、バツが悪そうな顔でそっぽを向きました。


「み、見てたのか……」


「すみません……姿を見かけて、つい……」


「……まあ、お互い様か」


 そう言って、廉さんは諦めたような表情で頬を掻いていました。


「廉さん……っ」


 安心と、喜びと、愛しさと。


 そんなもので胸がいっぱいになって、私はいつのまにか、廉さんに思いっきり抱きついてしまっていました。


「り、理華! おいっ、こら!」


「嫌ですっ……。今は、離れたくありませんっ」


 私の馬鹿な言葉にも、廉さんはふぅっとひとつ息を吐いただけでした。


 それから控え目に、けれどとても優しく、私の頭を撫でてくれました。


「ごめんな……その、いろいろ」


「いいんですっ。廉さんは悪くない……。私が……私の方が……!」


 ああ、こんなつもりじゃなかったのに。


 もっと、ちゃんとお話しするつもりだったのに。


 緊張と不安の糸が切れて、私はすっかりダメになっていました。


「ごめんなさい……! 私、つらくて……! 廉さんが……廉さんが他の子と仲よくしているのが……嫌で……!」


「……うん」


「怒ってしまって……自分を、コントロールできなくて……! つい、あんなことを言ってしまって……」


「……いや、俺も悪かったよ。これからはもっと、自覚というか……鈍くても鈍いなりに、しっかり考えるようにする」


「……ぐすっ」


「だからさ……今度からは、ちゃんと話そう。やきもちも、拗ねるのも、怒るのも。全部、受け止めるから」


 言いながら、廉さんは私の背中と頭に手を当てて、ギュッと抱きしめてくれました。


 外なのに、誰かに見られているかもしれないのに。

 私たちは、なにをやっているんでしょう。


 でも私は、そんなことが気にならないほどに幸せで、夢中で、他のことなんてもう、どうでもよくなっていて。


「ちゃんと話して、ちゃんとぶつかって、ちゃんと喧嘩しよう。でないと、わからないままだから。理華とそんなふうになるのは、絶対に嫌だから」


「はい……はいっ」


 私たちはお互いに抱きしめ合ったまま、しばらくじっとしていました。


 忙しかった廉さんの鼓動が、だんだんとゆっくりになるのがわかります。


 それに釣られるようにして、私も少しずつ、落ち着きを取り戻すことができました。


「……廉さん」


「ん」


「私……きっとまた、妬いちゃいます」


「……うん」


「もっと愛されてほしい、なんて言ってたくせに……。本当は、独り占めしたいんです。それくらい、好きなんです」


「……そっか」


「……でも、ちゃんと我慢もします。だから……許してほしいんです。この気持ちは、なくならないから」


「……うん。わかったよ」


 全然、うまく言えなかったけれど。

 泣いてしまったけれど。


 それでも、伝えられました。

 謝ることができました。


 ひとまず今は、それだけで充分なんじゃないかと思います。






 その後、私たちはゆっくり身体を離して、それから手を繋いで、ホテルに戻りました。


 ロビーを歩いていると、ちょうどレクリエーションが終わって、参加していた人たちが出てくるところでした。


 私たちは、手を放しませんでした。


 たくさんの視線と、話し声が聞こえました。

 何度も名前を呼ばれて、ざわめきが増していくのがわかりました。


 想定していたのとは、ずいぶん違う広まり方でした。


 でも、これでいいんです。

 この方がきっと、いいんです。


「理華?」


「はい」


「……俺も、同じだから」


「……え?」


「俺も……理華を独り占めしたい。それくらい、大好きだよ」


「ほあっ」


 顔を見合わせて、お互いに下手くそな笑顔を作って、私たちはずっと手を繋いでいました。


 初めて手を繋いだ日、廉さんは言いました。


 『こうすると、お互いの歩幅がわかる』。


 たしかに、そうかもしれません。


 だってこうしていれば、きっとこの先も、ふたりで一緒に歩いていけると、そう思えてくるのですから。

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