②「私もまだまだね」
いつのまにか、夜になっていました。
窓からは夕日が差し込んで、薄暗い室内を僅かに照らしています。
部屋には冴月の姿はなく、私ひとりでした。
私はベッドから起き出して、髪を整えて顔を洗いました。
「……はぁ」
幸いこの日はホテルではなく、各自で好きに夕食を摂ることになっていました。
この状態で、人前に出たくはありません。
それに、お腹も減っていませんでした。
もう少しここで、ひとりでじっとしていよう。
そう、思ったとき。
“ブブッ”
「……あっ」
テーブルに置いていたスマホが、短く震えました。
少し間を置いて、もう一度振動があります。
通信を切っておけばよかった。
そんなふうに思いながらも、私は画面を見ずにはいられませんでした。
もしかしたら彼かもしれない、という思いがあったからでしょう。
『大丈夫?』
メッセージは千歳からでした。
心配させてしまったようで、申し訳なさが募ります。
「えっ……」
『話があるから、部屋に来て』
珍しい文面でした。
提案ではなく、有無を言わせない指示のような。
千歳は、普段はこういう物言いをしません。
考える時間のあるメッセージなら、なおさらです。
なにか事情があるのだろう、と真っ先に思えたことに、私はホッと胸を撫で下ろしました。
どうやら、心はそれなりに落ち着いているようです。
……ですが。
『すみません。今はちょっと』
そう断りの返信をしてしまいました。
話というのがなにかはわかりませんが……いえ、わかっていたとしても、今それを聞く気力が、私にはないのでした。
『じゃあ、私がそっちへ行くわ』
「……」
本当に、珍しいです。
『いえ、そういうことではないんです』
『理華』
……。
『お願いよ』
メッセージは、それっきりでした。
私はカードキーを持って、部屋を出ました。
不安はありましたが、たしかに、少し気分転換をした方がいいのかもしれません。
ノックをすると、千歳はすぐにドアを開けてくれました。
同部屋の那智さんはおらず、私たちはふたつのベッドの間で、向き合うようにして座りました。
私が手前、千歳が奥です。
「ごめんなさいね、呼び出して」
千歳の第一声は、予想していたのよりもずっと、穏やかなものでした。
「どうしても話したくて。ちょっと、無理言っちゃった」
「い、いえ……」
困ったように眉を下げて、千歳は笑いました。
あまり、見覚えのないような笑顔でした。
「そ、それで……どうしたんですか」
「……うん。楠葉くんとは、会った?」
千歳は控えめな口調で、けれど核心的なことを聞いてきました。
こういうところは、やっぱり千歳らしいです。
「……いえ。あれから、一度も」
「そう。まあ、そうよね」
千歳は特に驚くふうでもなく、淡々とした声で言いました。
「会った方がいいわ」
キッパリとしたそのセリフが、私の気をずんと重くしました。
ですが、きっと千歳の言う通りなのでした。
「……そうですよね、やっぱり」
「ええ。会わずに事態が好転するってことは、あんまりないもの」
まっすぐに私を見つめて、千歳は諭すように言いました。
彼女の言うことは、私にも分かっているつもりでした。
ですが、どうしても勇気が出せずにいるのです。
あのとき、暴走してしまった自分のあまりの不甲斐なさと、廉さんや千歳たちへの申し訳なさ。
それらが私の足と喉を縛り付けて、心を押さえつけて、なにもできなくしてしまっているのです。
「気持ちはよくわかるわ。だけど、それでもちゃんと、会った方がいい。今はそのときよ」
「……」
千歳のそんな言葉にも、私はなにも答えることができませんでした。
私が俯いていると、ベッドに置いていた手に、ふっと千歳のそれが重なりました。
熱くて、優しい手でした。
「理華。実は私、あなたに謝らないといけないことがあるの」
「……えっ」
顔を上げると、千歳はまた、さっきと同じ困ったような笑顔をしていました。
「私、気づいてたのよ。紗矢野さんが楠葉くんのこと、好きなんじゃないかって」
驚きはありませんでした。
ですが代わりに、私の中にまた、悪い熱が渦巻くのがわかりました。
焦りのような怒りのような、悲しみのような。そういう黒いものが合わさって、まるでトゲの付いた鉛のように、私の心を圧迫していました。
これが、つまりは嫉妬というものなのだと、今の私にはもうわかっていました。
「委員会でふたりが一緒にいるところ、よく見てたから。確信したのも、夏休みに入る前よ」
「そう……だったんですか」
「ええ。だから、ごめんなさい。……もっと、できることがあったわ」
言って、千歳は小さく、そして弱々しく頭を下げました。
「そ、そんな……千歳が謝ることではありません……っ!」
「ううん。理華のためにできることをしなかったのは、私のミスよ」
「……千歳」
私は思わず、千歳の手をギュッと握りました。
彼女が悪いわけがない。
悪いのは、全部……。
「……紗矢野さんは、私と楠葉くんの関係を疑ってたんだと思う」
「え……」
「たしかに理華を抜きにしたら、楠葉くんは私とだけ、特別仲がいいように見えたかもしれないわ。会議の後とかでも、よく話してたから」
「……そうですか」
「うん。私か楠葉くんのどっちかの片思いか、両思いを疑ってたのかもね。それをうまく使って、楠葉くんから彼女を引き離したりしてたんだけど。ほら、一日目に楠葉くんが、飲み物買いに行ってくれたときね」
「あ、ああ……。そういえば、会ったと言っていましたね……」
たしか、廉さんが紗矢野さんと話していて、それで帰ってくるのが遅れた、と聞いていましたが。
そんなことがあったんですね……。
「悠長だったわ。こんなに早く、こんなことになるとは思ってなかった。紗矢野さんだけじゃなく、理華のことももっとよく見てれば、こうはならなかったかもしれないのに……」
「……違いますよ」
「違わないわ。それに、紗矢野さんが楠葉くんのこと好きかもって、理華に話しちゃえばよかった。人の恋心を言いふらすのは気が進まなかったけど、こうして理華が悲しむことになるなら、こだわらない方がよかった」
「……」
「だから、ごめんなさい、理華」
千歳は、本当に悔しそうにそう言いました。
たしかに千歳の立場からすれば、彼女の言っていることは正しいのかもしれません。
ですがそれでも、悪いのはやはり、私です。
ただ、今彼女の言葉を否定しても、千歳が納得しないであろうことも、私にはわかっていました。
「……はぁ。私もまだまだね」
「そんなこと……」
「長くなったわ、ごめんなさい。それじゃあ、本題に戻るけれど」
千歳のその言葉に、私はまた気分が落ち込むのを感じました。
ですがほんの少しだけ、さっきよりも心が軽いようにも思えます。
もしかすると、千歳はそのために、先に自分の話をしてくれたのかもしれません。
私はひとつ、深く息をしてから、意を決して口を開きました。
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