⑤「……好きだよ」


 掲示委員の仕事はシンプルだった。

 教室にある掲示物を、必要に応じて新しいものに貼り替える。

 ただ、それだけだ。


 そのわりに人数は四人もいて、人員の無駄なんじゃないかと思っていた。


 最初に話し合いがあった。

 誰がいつ、どういう分担で仕事をするか決めるためだ。

 もちろん、俺はほとんど黙っていた。

 特にこだわりも、話す気力もなかったからだ。


「放課後、その日暇なやつがやればいいんじゃね?」


 そう言ったのがどんなやつだったのかは、さすがに覚えていない。


 無責任なアイデアだな、と思った。

 だが、べつに反論もしなかった。


 いつのまにか、その案が採用されていた。

 そのときは気づかなかったが、メンバーは俺以外、みんな部活に入っていた。

 というか、帰宅部なんてごく少数派だから、考慮されてなかったのだろう。


 帰宅部がいるなら、他のやつらがわざわざ仕事をする必要はない。

 そう考えるのが自然だろうし、事実俺もそう思っていた。


 結果として、俺は掲示委員の仕事をほぼひとりでやっていた。

 今にして思えば、キツかったのはそのせいだ。

 なら今年も修学旅行委員なんてせず、仕事の分担の方を工夫すればよかった。

 今さら気づいても遅いけれど。


 ところで、掲示委員が四人なのは、どうやら無駄ではなかったようだった。

 なにをそんなに連絡することがあるのかは知らないが、掲示物の張り替えはやたらと多かった。


 むしろ、掲示係が四人いる前提で、貼り替え予定を立てているのかもしれない。

 まあ、どうでもいいことだ。


 面倒な仕事をひとりで続けて、二学期の半ばになった頃だった。


「ごめんっ! 私、ずっと忘れてて!」


 その日も貼り替えをしていた俺に、ひとりの女子がいきなり声をかけてきた。

 というか、謝ってきた。


 そいつが言うには、年度初めで部活が忙しい間、掲示委員のことがすっかり頭から抜けていたらしい。


「暇な人が、ってことになってたから、まあいっかって……。そしたら、やらないのが普通になっちゃってた……。ホントにごめん!」


 俺は怒ってないのに、そいつは何度も謝っていた。

 まあつまり、それが紗矢野だったらしい。


「いいよ、べつに。部活ないから、俺」


「よくない! そんなの不公平じゃん!」


「最初に決めただろ。放課後に、暇なやつが仕事をする。俺はそれに従ってるだけだよ」


「で、でも……!」


 見た目のわりに、真面目なやつなんだな、と思った。

 それから、たぶんいいやつなんだろうな、とも。


「ルールは全員で決めたんだ。俺もその案に賛同した以上、自分の責任だろ。だから、気にするなよ」


 実際、いい加減だと思いつつも、俺は代案を出さなかった。

 それに、ルールを決め直そうって言い出すこともしなかった。

 そうしたいとも思わなかったし、本当に文句もなかったからだ。


 だがそれでも、紗矢野はまだ納得していなさそうだった。


 そのときに自分がなにを考えたのか、なんのためにそれを言ったのかまでは、もう覚えていない。

 ただ、なにを言ったのかは、どうしてかあっさり思い出すことができた。


「こうして悪いと思って声をかけてくれただけで、充分だ。だから、わざわざ俺みたいに損するなよ」


「……えっ」


「僻みや嫌味で言ってるんじゃない。本当に、そんなに人のこと、気にしなくていいと思う。それでもやっぱりお前自身が満足できなくて、ルールを変えたいっていうなら、そのときは協力する。けど、お前がいいやつだってことは、ちゃんとわかったから」


 紗矢野は驚いたような表情で、ぽかんと口を開けていた。

 変なやつだと、そう思ったんだろう。

 でも当時の俺には、そんなこともどうでもよかった。


 大きな目を余計に見開いて、紗矢野は俺を見つめた。

 それから、勢いよく俺に背を向けて、髪を揺らしながら教室を出ていった。


 それ以降は、たぶん紗矢野と会話をしたことはないと思う。

 ただ、それまでよりも仕事が減ったような気がしていたのは、たまに紗矢野が、こっそり貼り替えをやっていたかららしかった。


 たしかに言われてみれば、そんなことがあった。

 けれど、やっぱり大した出来事ではなさそうだった。






「でねっ」


 話し終えてから、紗矢野はまたすぐに口を開いた。

 こころなしかさっきまでと比べて、表情が明るいような気がした。


「今年も楠葉くんと同じクラスになったから、また同じ委員になって、今度はちゃんと一緒に仕事するぞ! って思ってたの」


「お、おお。それは、律儀だな……」


「だって! 結局、去年はあんまり手伝えなかったんだもん。ホントは、もっとやりたかったんだけどさ……」


「いや、助かってたよ、たぶん」


「気づいてなかったくせにーっ!」


 ケラケラと笑って、紗矢野は俺の肩を叩いた。


「でも、だから部活休んでまで、会議に参加してたのか」


「えっ? う、うん……! せいかーい……あはは」


 なるほど。やっぱり律儀なやつだな、こいつは。


「あーっ、スッキリした。やっと言えた」


「べつに、すぐ言えばよかっただろ、これくらい」


「そんなに簡単じゃないのー!」


 らしい。紗矢野の性格なら、あっさり言いそうだけどな。


「……だって、楠葉くんがどう思ってるのか、わからなかったんだもん」


「え?」


「わかんないじゃん! 結局全然手伝わなかった、ダメなやつ、って思われてるのかもしれなかったし……。口では忘れたって言ってても、ホントは覚えてたのかもだったし……」


 紗矢野は珍しく、不安げな声でそう言った。


 俺にどう思われてたって、そんな気にすることでもないだろうに。


「まっ、もう言っちゃったから、いいんだけどね」


「そうか」


「うん」


 しばらく、沈黙があった。


 それでも、バーベキューに興じる声や、肉が焼ける音のせいで、静かではなかった。


「……でも、ホントに変わったよね、楠葉くん」


「またそれか……」


「えへへ。だって、変わったもん」


「……まあ、そうかもな」


「あ、認めた!」


 紗矢野は嬉しそうに言って、クスクスと笑った。


 なんとなく恥ずかしい。

 けれど、わざわざ否定することでもないだろうしな。


「いいじゃん。あのときより今の楠葉くんの方が……好きだよ、私」


「えっ……」


「……」


 そのセリフに、俺は思わずドキリとしてしまった。

 おまけに、紗矢野の顔が赤い気がする。


 なんだか、おかしな空気だ……。


「あー。もう、ダメだ私。変なテンションになってる」


「……だろうな」


「はぁ。でも、うん、そういうのも大事なのかも」


「……」


「……楠葉くん、私……私ね――


“わぁーーーー‼︎”


 そのとき、突然人混みの方から、大きな歓声が響いてきた。


 どうやら、なにか始まったらしい。

 そういえばしおりに、大学生のサークルが出し物を披露する、と書いてあった気がする。


「もうっ」


 紗矢野は何度か首を振り、ピョンっと立ち上がった。

 それから「じゃあ、またね」と言って、さっさと歩いていってしまった。


「……ふぅ」


 助かった、という言葉が、なぜだか頭に浮かんだ。


「……」


 勘違いじゃなければ。


 それから、俺の自惚れじゃなければ。


「……いや」


 俺は、それ以上考えるのをやめた。


 考えてもわからないだろうし、たとえわかったって、どうしようもないような気がしたからだ。

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