③「私が臆病じゃなければ……」


 パラセーリングが終わって、俺たちは一度休憩を挟んだ。

 ベンチに座って、アメリカサイズのミックスジュースを飲む。


 遊んでいる最中は感じなかったが、こうして一息つくと、疲れていたことがよくわかる。

 水泳の授業の後のような眠気に襲われながら、俺はぼんやりと、遠くの海の揺らぎを眺めていた。


「次で最後だっけ?」


 まだまだ元気そうな恭弥が、立ち上がってそう言った。

 雛田からカラになったジュースの容器を受け取って、自分のと一緒にゴミ箱に捨てる。


「たしか、シーウォーカーよね。理華がやりたがってた」


「はいっ。楽しみです!」


 珍しく興奮した様子で、理華がグッと拳を作る。


 シーウォーカーといえば、理華が前からやたらと期待していた、あれだ。

 酸素のあるヘルメットを被って海底を歩く、わりとのんびりしたアトラクション。

 髪が濡れないため、特に女性に人気らしい。


 まあ、理華が楽しみにしているのは、単に熱帯魚や珊瑚が近くで見られるからだろうけれど。


 ちなみに、俺は結局これには申し込んでいないので、ひとりで留守番だ。

 この頃にはもう疲れているだろうという、見事な読みが当たったと言える。


「そろそろ時間だし、早めに……」


 そのとき、不意に顔に冷たい感触があった。

 不思議に思って辺りを見回すと、すぐに合点がいく。


「あら、雨」


「やばっ! どっか入りましょ!」


 駆け出した雛田を追って、俺たちは屋根のある場所に逃げ込んだ。

 間髪入れずに土砂降りになり、ザーザーという雨音で聴覚が支配される。


「おぉー。スコールってやつか」


「でも、すぐ止むのよね?」


「まあ、普通はそうね」


 タオルで頭を拭きながら、須佐美が言う。

 その横で、理華は不安げに空を見上げていた。


「シーウォーカーは、どうなってしまうんでしょう……?」


「よっぽどの雨じゃなきゃ、中止にはならないらしいけどな」


「そ、そうですか……」


「止むまで待つ? それとも、行っといた方がいいの?」


「どうなんだろなー。どうせ水着だし、濡れるのは平気だけどさ」


 ふむ。雨でも決行というのは、つまり雨でも集合場所に来い、ということだ。

 遅刻するわけにもいかないし、屋根の下を選びながらでも、向かった方が無難だろう。


「じゃ、行くか」


「そうね。楠葉くんはどうするの? 申し込んでないなら、ここで待ってる?」


「ああ。ちょうど座れそうだし――


“ゴロゴロ……”


「ん?」


「ひっ……!」


 不意にかすかな地響きとともに、重苦しい音が鳴る。


 これは、まさか……。


“ドゴォォォォン!!”


「ひぁあああっ!!」


 ピカッと周囲が明滅し、直後に一際大きな轟音が襲った。雷だ。


 だが俺はその音よりも、隣から発せられた悲鳴の方に驚いてしまった。


「れれれ! 廉さぁあん……!」


 いつの間にか、理華は俺にぴったり身体をくっつけて、ガタガタと震えていた。


 普通に恥ずかしい。

 そしてなにより、腕に柔らかい感触がある。

 これは、大変マズい……。


「おお。橘さんって、マジで雷ダメなんだな」


「マジよマジ。去年の授業中なんて、うずくまって死にそうになってたもん」


「ふふっ。叫ばなかっただけ頑張ってたと思うけどね」


 なんて、呑気な会話をするリア充どもに反して、理華は極限状態だった。

 恭弥はともかく、雛田と須佐美は慣れてるのかもしれない。


 だが、本人がピンチなのは変わらない。

 大丈夫か、理華のやつ……。


「うぅ……廉さぁん……」


 ギュッと俺の二の腕を抱きしめて、理華はますますくっついてきた。

 どうやら、恥ずかしがってる余裕すらないらしい。


 もちろん俺はそんなことはないので、どんどんマズいことになっている。

 あっ、柔らか……。


「でも、どうするの? 理華、シーウォーカーできる?」


「あ、ホントね。海の中だと、雷も聞こえなさそうだけど」


 俺たちの視線が、一斉に理華に集まる。

 が、理華はブンブンと首を振り、真っ先に白旗を挙げた。


「でも、楽しみにしてたんじゃないの?」


「そっ……それは、そうですが……」


“ドゴォォォン‼︎”


「ふわぁぁあっ‼︎」


 ……ダメだな、こりゃ。


「行ってきていいぞ。理華は俺が見とくから」


「……そうね。かわいそうだけど、無理しちゃ危ないし」


「うーん。橘さん、脱落か。寂しいなぁ」


 須佐美に頭を撫でられて、理華は涙目になった。


 気の毒だが、こればっかりは仕方ない。

 それこそ、海の中でパニックになったらマジでヤバいからな。


「くれぐれも、理華をよろしくね、楠葉。弱ってるのにつけ込んで変なことでもしたら、わかってるわよね?」


「するかよ……」


 本気か冗談かわからない忠告に、ため息で返す。

 いや、雛田のことだから、本気なんだろうな。


 俺と理華は、雨の中を歩いていく三人を見送った。

 それから屋根の下のベンチに腰を下ろして、ふぅっと息を吐く。


「……すみません、廉さん」


「なんで謝るんだよ。もともと、俺は留守番だ。気にせず縮こまってな」


「……はい」


 素直にそう答えて、理華はまた俺の二の腕にしがみついた。

 頭にタオルをかぶっているせいで、表情はわからない。


 幸い、辺りに人影はなかった。

 みんな屋内に移動したか、気にせず海で遊んでいるんだろう。

 物陰のベンチだったおかげで、誰かに見られたりはしなさそうだ。


「……見たかったです、海の中」


「……残念だな」


「私が臆病じゃなければ……」


「まあ……こんなこともあるさ」


 理華は元気がなかった。

 雷への恐怖はもちろん、楽しみにしていたことができなくなって、落ち込んでいるんだろう。


 だが俺にできるのは、こうしてそばにいて、慰めてやることくらいだった。

 それがどうしようもなく、もどかしい。


「……はぁ」


「理華……」


 他人の悲しみで、自分までこんなにつらくなるとは……。


 そんなふうに感じられるのは、俺にとっては著しい進歩なのだろう。


 だが今は、そんなことより理華の気持ちを、どうにかしてやりたかった。

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