③「いい心がけですね」
『夕飯の買い出しに行きます』
帰り道、また橘からのメッセージが届いた。
夕飯は一緒に、ということだったので、おそらく振る舞ってくれるのだろう。
『手伝うよ。今どこだ?』
『ありがとうございます。もうすぐいつものスーパーです』
『じゃあ、そこで』
そんなやりとりを終えてから、待ち合わせの場所に向かう。
自然と早足になっている自分を、我ながら単純だと思った。
橘は中には入らず、店の前に姿勢よく立っていた。
制服姿のまま、カバンを肩に掛けている。
俺に気がつくと、橘はぴくりと肩を跳ねさせて、凛々しい顔をわずかに綻ばせたように見えた。
「おう」
「すみません、わざわざ。ですが、帰りが遅いですね」
「修学旅行委員の集まりがあってな」
話しながら、俺たちは店に入って別々にカゴを取った。
夕飯用の食材は、ちょうどよく分けて買えばいいだろう。
「修学旅行委員だったんですか?」
「ああ。楽かと思って選んだんだが、どうやら失敗したらしい」
「まあ、挑戦するのはいいことですよ」
いつかのように優等生じみたことを言ってから、橘は卵のパックをカゴに入れた。
「今日はオムライスにしますね」
「おおっ、いいなぁ」
「家にケチャップはありますか」
「いや、ないです」
「だと思いました。仕方ありません、ケチャップも買いましょう」
「そっちだってないんじゃんか」
「私はちょうど切らしているだけです。一緒にしないでください」
不機嫌そうに言ってから、橘はプイッとそっぽを向いた。
少し膨らんだ頬が、見るからに柔らかそうだ。
いや、キモい観察は控えろ、俺よ。
「しかし、グアムですか、今年は」
「そういえば、橘はどこに投票したんだ?」
まあ、たぶん京都なんだろうけど。
と、思ったが、橘は質問には答えず、拗ねたような表情で黙っていた。
ジトっと細まった目が、不服そうにこっちを見ている。
「なんだ?」
「……呼び方。また、名字になってます」
「……あっ」
そうだった……。
「もうっ。廉さんはすぐ忘れるんですから」
「いや……すみません」
言い訳の余地もないので、素直に謝ることにした。
慣れないとか、恥ずかしいとか、そんなのはお互い様だ。
学校や人前以外では、下の名前で。
ふたりで決めたのだから、努力はしなければならない。
「……理華」
「はい、廉さん」
コクンと満足げに頷いて、理華はまた前を向いた。
「理華は、どこに投票したんだ?」
「京都です。食べ物が美味しそうだったので」
「だよな。まあ、グアムに負けたけど」
「それはそれで、またべつの楽しみがありますよ」
「……そうだな」
水着とか……。
「ですが、夏休み中に修学旅行というのは、なんだか珍しいですね」
「だな。まあその分、二年の夏は課題が少ないらしいけど」
「修学旅行のレポート、ちゃんと出してくださいね」
「めんどくせぇ……」
なんでこう、高校っていうのはレポートが好きなんだか。
「お友達が増えるといいですね、旅行を通して」
「増えるといい……かな」
「そこは疑問に思わないでください。『増えるかな?』ならまだしも」
「おい」
と言いつつ、強く否定できないのが悲しいところだ。
まあ、増えないだろうな、たぶん。
「私も人のことは言えませんが、廉さんも少しずつ、人間関係を広げていくべきですよ」
「気が向いたらな」
「はぁ。やれやれ」
ため息をつかれてしまった。
もちろん、理華の言う通りなのかもしれない。でも正直、俺は今の交友関係でも、充分すぎるくらい満足しているのだ。
買い物を終えて、俺たちは並んでマンションを目指した。
二つのエコバッグを、俺が両手に持つ。
夕飯を作ってもらう以上、これくらいのことはするべきだろう。
今日は理華が俺の部屋に来ることになった。
最近はこういうこともよくあるので、うちのキッチンの状態も、以前よりずいぶんマシになっている。
「そういえば、千歳も今日は修学旅行の会議があると言っていました」
「ああ。いたよ、須佐美も」
そのおかげで、想定よりも疲れたんだが。
「生徒会は大変ですね。夏休みが終わったら、今度は文化祭もありますし」
「物好きだよな」
俺の何倍ものエネルギーで、俺にはできないことをしている。
感心する部分もあるが、理解できない、というのが素直な感想だった。
まあ、本人たちは好きでやっているんだろうけれど。
「千歳は、今副会長をしている方に誘われて、生徒会に入ったそうですよ」
「……ふぅん」
つまり、あの
見る目がある、と言っていいのかは微妙なところだな。
「……あっ、あれは」
「ん?」
不意に立ち止まった理華の視線を、俺も少し遅れて追う。
すると、車道の向こうを見覚えのある、というか、理華と同じ制服を着た女子が歩いているのが見えた。
途端、俺の心臓がほんの少しだけ、鼓動を早めた。
俺たちはどちらからともなく、停まっていた車の陰に身を隠した。
窓を通してその女子の方を見る。
そいつはそのまま角を曲がり、すぐに視界から消えた。
「知り合いか?」
「いえ。ですが、廉さんと同じクラスの女の子ですよ。気づかなかったんですか」
「……あー。そういえばいたかもしれない。いなかったような気もする」
「いますよ。もう、相変わらずですね……」
そんなこと言われても、覚えてないものは仕方ない。
しかし、今日は記憶力を試されてばっかりだな。
「……隠れてしまいましたね」
居心地悪そうにそう言ってから、理華はまた歩道の真ん中に戻った。
俺もそれに続き、また横並びで歩く。
「周りに知られても気にしない、と思っているつもりでしたが、いざとなると恥ずかしいですね……」
「……だな。勝手に広まるならともかく、きっかけに直面するのはどうも……」
あとはまあ、この時間のこの場所で、買い物帰りを見られるということに抵抗があるというのもある。
普通のカップルにしても、かなり珍しい状況な気がするしな。
「けどよく考えたら、恭弥たち以外にはまだバレてないのか」
「冴月たちが誰にも話していなければ、、そうでしょうね。学校では依然、あまり関わりませんし」
「……いつバレるんだろうか」
「自然にしていれば、きっとそのうち気づかれるでしょう。それこそ、今みたいな偶然で」
「なんか……ソワソワするな」
「そうですね……。でも、身を任せるしかないと思います」
「……そうだな」
ふたりで頷き合ってから、俺たちはこころなしかぎこちない足取りで、またマンションを目指した。
恋人になった以上、こういうことも避けては通れないのだろう。
わかってはいるけれど、世のカップルはすごいな、と思わざるを得なかった。
「……廉さん?」
家までもうすぐ、すっかり住宅街に入った辺りで、理華が遠慮がちに声をかけてきた。
「どうした?」
「……荷物、やっぱり片方持ちます」
「え、いや、いいぞ。重くないし、もう着くだろ?」
「……むぅ」
小さく唸るようにそう言って、理華はなにやら不服そうに俺を睨んだ。
なんなんだ、いったい……。
「……理華?」
「……もうっ。いいから貸してくださいっ」
言って、理華は無理やり俺から自分のエコバッグを奪った。
荷物がひとつずつになり、理華の右手と俺の左手が、ふたりの間で退屈そうに揺れる。
それから、理華は伏し目がちに俺の顔を見ると、ほんのりと頬を染めてうっすらと笑った。
「なっ……!」
次の瞬間には、俺の左手は理華の華奢で滑らかな手に、緩く握られていた。
「……こうしないと、手が繋げないじゃないですか」
「お、お前……そんな、いきなり」
は、初めてなのに……!
正直、一緒に歩いていて何度か意識したことはあった。
けれど、まさか向こうから、こんなにあっさり握ってくるとは……。
「……いいじゃないですか。もう、ハグもしてしまったんですから」
「そ、それはまあ、なんというか……勢いというか」
「それじゃあ、これだって勢いです。……ふふっ」
理華は囁くように、そしてこぼれるように笑うと、俺の手を握る力を少しだけ強めた。
その手を通して、理華の体温はおろか、早まった心臓の音も、はしゃいでいる心も、何もかもが伝わってくるようだった。
そしてもしかしたら、俺の気持ちも伝わってしまっているのかもしれない。
もしそうなら、それは、すごくマズいな……。
「逃げられませんよ。家に着くまではこのままです」
「……逃げないよ、べつに」
「ふふ。いい心がけですね」
繋いだ手に引かれて、自然と歩幅が揃う。
これなら前を向いていたって、お互いのスピードがわかる。
手を繋ぐ、ということにどんな利点があるのか、以前は知らなかったけれど。
「あ、今日はテレビで、おもしろそうなドラマをやる日でした! 忘れていました!」
「そうなのか。何時から?」
「十九時ですよ! それまでに夕食を作ってしまわないと!」
言って、理華が駆け出す。
その手に引っ張られて、俺も一緒に走った。
こんなふうに、相手の歩幅や、気持ちがわかるなら。
これからも、理華と手を繋いでいければいい。
柄にもなく俺は、そんなことを思っていた。
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