② 「私を知ってるの?」


「――以上。質問はないか?」


 一般教室の二倍ほど広い、視聴覚室の最奥。

 ホワイトボードの前に立っていた男子が、淡々とした口調で言った。


 だが俺はもちろんのこと、他のクラスの修学旅行委員たちも手を挙げたりはせず、沈黙したままだ。


 質問するほど興味がない、というのもあるだろう。

 けれど正直、話がやたらとまとまっていたせいで、疑問が思い浮かばない、という方が正確なように思えた。


 俺も一応話を聞いてはいたが、「ん?」と思った部分にはすぐさま補足が入り、もはや不気味なくらいだった。

 それをあの無感情な口調で話されたせいか、なんだか不思議な体験をしたような気分だ。


 まあわかりやすいぶんには、話が早くて助かるけれど。


 そいつはザッと部屋中を見渡してから頷き、手元の資料をカンっと教卓で揃えた。


「じゃあ、今日はここまで。またなにかあれば、俺たち三人の誰かに直接聞くか、生徒会室まで来てくれ」


 その言葉を合図に、座っていた修学旅行委員たちがぞろぞろと部屋を出ていく。

 俺も連中にならうように、それから密かに急ぎ足で、出口へと向かった。


「楠葉くん」


 ドアをくぐる寸前。騒がしい中でもよく通る、それでいて耳触りのいい声が俺を呼び止めた。


 くそっ……逃げ切れなかったか。


 無視するわけにもいかず、一呼吸入れてからそちらへ振り返る。気は重いけれど。


「あなた、修学旅行委員だったのね」


「……まあな」


 声の主、須佐美千歳は柔らかく、それでいてなにやら含みのありそうな笑顔で俺を見た。


 いや、実際はただ微笑んでいるだけなのかもしれない。

 なにかありそうに見えるのは、俺のこいつへの苦手意識のせいだろうか。


 須佐美は相変わらず、自信と余裕を感じさせる佇まいだった。

 眼鏡の奥から覗く目に、高校生離れした落ち着きと凄みがある。

 かすかに揺れるポニーテールとスカートが、唯一可愛らしい部分だ。


「意外ね。楠葉くんはもっと、地味な委員会を選ぶと思ってたのに」


「去年は掲示委員だったよ。地味でも仕事量が妙に多くて、後悔した」


「ああ、それで今年は、方針を変えたのね」


「そういうことだ」


 まあ、こっちの方が楽だったかどうかは、すでに怪しくなってきてるような気もするけどな。


「修学旅行委員は生徒会と連携することが多いから、よろしくね。頼りにしてるわ」


「頼りにするなよ。俺に頼らなきゃならなくなったら、それはもう崩壊寸前だぞ」


「あら、そんなことないわよ。委員の中に知り合いがいてくれると、私もやりやすいわ」


「……さいですか」


 俺はやりにくくて仕方ないんだが。


「楠葉くん、なに話してんの!」


「うわっ」


 突然、俺の隣に勢いよく人影が飛び込んできた。

 見ると、先に帰ったと思っていた紗矢野が、物珍しそうな目で俺と須佐美を見比べている。


「ひどーい。うわっ、て言われた!」


「……急に入ってくるからだ」


「だって、なんか楽しそうに話してたし」


 あれが楽しそうに見えたとは。

 いや、たぶん須佐美のやつは楽しんでただろうから、あながち間違いでもないか。


「楠葉くんって、須佐美さんと仲いいの? なんか意外」


「あら、私を知ってるの?」


「そりゃねー。有名人だし」


 そう言った紗矢野は、どことなく警戒心のこもった目をしているように見えた。

 こいつのことは全然知らないが、初めて見るような目つきだ。


 もしかすると紗矢野も、須佐美の静かな迫力を感じ取っているのかもしれない。


 気を付けろ、油断すると食われるぞ、マジで。


「ごめんなさいね、えっと……」


「紗矢野ね。紗矢野美緒。修学旅行委員で、楠葉くんと同じクラス」


「そう。よろしくね、紗矢野さん」


 そんな挨拶を交わして、微笑み合うリア充ふたり。

 俺の場違い感がすごいので、そろそろ帰らせてほしい。


「千歳」


「ん、ああ、隠岐おきくん」


 と思っていたのに、あろうことかまた人間が増えた。


 しかもやって来たのは、さっきまで一番前で話していた、例の無感情な男子だ。


「まだ話すなら、先に戻るぞ」


「いいえ、私ももう行くわ」


 隠岐と呼ばれた男子は、こうして見ると思ったより背が高かった。

 目つきが鋭く、冷えた雰囲気はあるものの、かなりのイケメンだ。


 だが恭弥を見慣れているせいか、みっともない嫉妬心が湧いたりはしない。

 全然しない。ホントだぞ。


「あ、隠岐くんだー」


「むっ……さ、紗矢野か……。久しぶりだな」


 そう答えた隠岐は、ばつが悪そうな様子で顔をそらし、ぽりぽりと頬を掻いた。

 さっきまでの落ち着きが嘘のようだ。


 なんだ? いったい。


「あら、知り合いなの?」


「……去年クラスが同じだった」


「そうそう。楠葉くんと三人でね」


「うぇっ」


 思いもよらないセリフに、俺はわかりやすくマヌケな声を出してしまった。


 今、なんて言った?


「それがさー! 楠葉くん、私と同じクラスだって覚えてなかったんだよ! 私影薄っ!」


「ふむ……。見た感じ、俺も覚えられてなさそうだな」


 はい、覚えておりません。


「いや、でも俺、ほぼ全員忘れてるぞ。っていうかむしろ、そっちはよく俺のこと覚えてたな」


「当たり前でしょー。一年も一緒だったんだから」


「だがまあ、たしかに楠葉と話した記憶はないな」


 隠岐のセリフに、須佐美だけがクスクスと笑った。


 これはいよいよ、居心地の悪さが尋常じゃない。

 早く解放してくれないもんか……。


 そんな俺の嘆きも虚しく、連中は話を弾ませ始める。


「でもラッキーだよね! 修学旅行の行き先、グアムになってさ!」


「あら、紗矢野さんはグアム派だったのね」


「もちろん! やっぱ海外がよくない? 京都とかその気になれば行けそうだし、沖縄行くならもういっそグアムでしょ! って感じで」


 ちなみに、うちの学校の修学旅行先は、毎年生徒の投票で決めることになっている。

 今年は京都、沖縄、グアムが候補地で、結局グアムに決まったらしい。


 俺は京都に入れたが、あえなくグアムに負けた。

 まあ、べつにどこでもいいんだけども。


「でも修学旅行の時期、向こうは雨が多くなるから、気をつけなきゃね」


「えっ! そーなの!」


「投票のとき、補足に書いてあったわよ。屋外の予定にかち合わないといいけれど」


「そ、そんなぁ……! てるてる坊主作らなきゃ……」


 いや、てるてる坊主の効力、たぶん国内限定だろ。


 まあグアムの雨季はスコールらしいから、一日予定が潰れるなんてことにはならないだろうが。


「海は絶対入りたいもん! グアムの海! それに水着も着たいし!」


「ふふ、そうね。ね、楠葉くん?」


「俺に振るなよ……」


 どう見ても真逆の存在だろ……。

 俺は水にも日差しにも弱いんだぞ。


「千歳、そろそろ――


「グアムといえば!」


 言いかけた隠岐の言葉を遮って、やたらとテンションの高い声が飛んできた。

 同時に、ダンっと床を踏み鳴らして、ファイルの束を抱えた小柄な女子が現れる。


 おいおい、まだ増えるのか。

 そろそろ俺のキャパが限界なんだが……。


 見ると、隠岐も呆れたような表情で首を振っていた。


「あら陽茉梨ひまり。ごめんなさいね、片付け任せちゃって」


「苦しゅうないない!」


 意味不明な言葉を発しながら、陽茉梨と呼ばれた女子はニカッと眩しく笑った。


 顔が丸く見えるショートヘアに、パチっとした目。

 小ぶりな鼻と口、それから低い身長も手伝って、かなり幼く見える。


 ずっと須佐美と並んで前に立っていた、生徒会のもうひとりだ。


「陽茉梨~。やっほー」


「美緒ちゃーん! ちょっとぶりー!」


 陽茉梨という女子と紗矢野が、目の前にいるのに両手を振り合いながらはしゃぐ。

 どうやらこっちも知り合いらしい。

 リア充どものコミュニティは複雑怪奇だ。


 ちなみに、俺はすでに人の輪から若干離れて、壁に身体を預けている。


 こっそり帰ろうかとも思ったが、須佐美に視線で諫められてしまった。

 普通に怖かった。


「それで、グアムといえば?」


「あ、そうそう! グアムといえば、『恋人岬』だよ!」


「えっ、なにそれ!」


 なんだ、その頭の緩そうな名前の岬は。


「有名な観光名所! 恋愛のジンクスがいっぱいで、恋する乙女はマストチェックな場所なのだ!」


「えぇー! いいなぁ! 行きたい行きたい!」


「やっぱり修学旅行にはラヴが付きものだからね! くぅーっ! 楽しみー!」


 キャーキャーと騒がしい女子ふたり。

 須佐美はその横でニコニコし、隠岐は肩を竦めていた。


 わかるぞ、隠岐。もういい加減帰りたいよな。

 まあ理由は違うだろうけど。


 ……それにしても。


 リア充たちの喧騒を遠くに聞きながら、俺の頭のなかに、グアムの海の光景が浮かんでくる。


 ……水着、か。


「……」


 次に湧いたとあるイメージを、俺は小さく頭を振ってかき消した。


 いかんいかん。

 妄想禁止、煩悩退散だ。


 ……でも、雨は降らないといいな、うん。


 性懲りもなくそんなことを思いながら、俺は連中の話が終わるのを、ぼんやりと待っていた。

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