② 「これは、ひとりじゃできません」
「いただきます」
「いただきます」
「あ、お茶を忘れました」
「ああ。取ってくるよ」
「ありがとうございます」
橘理華と付き合い始めて、一週間が経った。
当然ながらこんな短期間では、大して恋人らしいことなどはなにも起こっていない。
強いて言うなら、今日こうして俺の部屋で橘の手料理を振る舞ってもらっているのが、最初のイベントだった。
「うーん、相変わらずうまいな」
「それはどうも。新作です、鮭のムニエル」
「またレパートリー増やしたのか」
「はい。楠葉さんが飽きないように」
「ありがたやありがたや」
付き合い始めた日はいろいろあったけれど、その後も俺たちの関係、というか、距離感はあまり変わらなかった。
ただ、お互いの気持ちがわかって、少しだけ仲良くなったというくらいで。
「今日、冴月にからかわれました。『同棲生活はどう?』って」
「同棲って……なんて返したんだ?」
正確には、お互いの家を行き来する頻度がずっと増えた、ってだけなんだが。
「『楽しいですよ』、と」
「お、おぉ……」
「口をあんぐり開けて、ぽかんとしていました。してやったりです」
「それが目的かよ……」
「まさか。楽しいのは本当ですよ。あなたは、違うんですか?」
言って、橘が箸を止めた。
まっすぐこちらを見つめてきて、ねだるような顔をする。
付き合ってからまた改めて実感したが、やっぱり橘の可愛さは異常だ。
特に、たまにするこういう顔の破壊力は半端ではない……。
「……楽しいよ、そりゃ」
「ふふっ。そうですか」
満足そうにうんうんと頷いて、橘は味噌汁を少しだけ飲んだ。
「そうですか。んふふ。楠葉さんは素直ないい子ですね」
「な、なんだよそれ……いいだろ、ホントのことなんだから」
「いいですよ。とってもいいことです」
ううむ、なんか納得がいかん……。
まあしかし、橘が嬉しそうだから、よしとしておこう。
「ところで、楠葉さん」
「はい、なんでしょう」
「今度、デートに行きましょう」
「でっ……デート?」
「そう、デートです」
「……マジかよ」
「マジです。恋人なんですから、当然でしょう」
「そりゃ、まあ、そうだけど……」
あらたまってそう言われると、正直普通に照れる。
橘は恥ずかしくないのだろうか……。
ただ、付き合ってからの様子を見るに、橘はどうやら、俺よりも浮かれているようだった。
なんだかかなり、意外だ。
「どこへ行きましょう? 私は美味しいものを食べて、綺麗なものを見て、楽しいことをしたいです」
「なんか、普通だな」
「普通がいいんですよ。それに私たちのような恋愛初心者は、まずオーソドックスなことから始めないと」
「まあ、それはたしかに」
「それに楠葉さん、言ったじゃないですか。ひとりでも楽しめることを、一緒にやりたいって」
「……言いました」
「ほら。そういうことです」
そういうこと、か。
それはまあ、橘の言う通りなのだろう。
橘はやけにテンションが高かった。
もしかすると、俺があの時言ったセリフが、思いのほか嬉しかったのかもしれない。
……そうだといいな。
「だけど、やっぱりお互いに、ひとりでしたいこともあるでしょうから、その時は要相談、ということにしましょう」
「そうだな。何でもかんでも二人で、ってなると、普通にストレスになりそうだ」
「はい。ひとりで見たい映画もあれば、ひとりで行きたい場所もありますし」
「ひとりになりたいときもあるしな」
「そうですね。私は、本屋さんはひとりで行きたいです」
「俺はたぶん、一日中誰かと一緒にいたら死ぬと思う」
「それは……私とも、ですか?」
「あ……いや、ううん……どうかな」
「……今度、試してみましょうか」
「……こ、今度な、今度」
「……」
「……」
なんだ、この空気は。
とはいえ、案外悪くない気分だった。
これが恋人同士の沈黙、ってやつなのだろうか……。
「……でも、世の中ひとりでできないことって、ほとんど無いよな。そして大抵は、ひとりの方が楽しい」
「たしかに私もそう思いますが、それは私たちが少数派なのだとも思いますよ。現にみなさん、誰かと一緒になにかをすることが多いですし」
「まあ、連中はなぁ。でも、ひとりでやる楽しさを知らないだけなんじゃないだろうか」
「どちらも良いことと悪いことがありますから、その時に合わせてうまく選び分けることが大切なんでしょう」
「うわ、優等生な答え」
「優等生ではありません。普通の答えです」
そこまで話した後は、俺たちはただ黙々と、橘の料理を食べた。
食事を終えて、二人で食器を台所に運ぶ。
面倒になる前に、さっさと洗ってしまおう。
「手伝います」
「いや、いいよ。作ってもらったから」
手間は分担されるべきだ。
後片付けくらいは俺がやるのが筋だろう。
「それでは、お願いします」
橘は素直に受け入れると、とことことリビングに戻っていった。
たぶん、テレビかスマホでも見て、のんびり待っていることだろう。
俺も、ゆっくり皿を洗うことにする。
「……楠葉さん」
「ん?」
と、思っていたのに、橘はすぐに台所に戻ってきた。
俺は手元の皿から目をそらさずに答える。
「なんだ。どうした?」
「……二人じゃないとできないこと、ひとつ見つけました」
「二人じゃないとできないこと? なんだそれ……うおっ!」
背中に、何かがぶつかる衝撃が来る。
その直後、俺の身体の前に橘の腕が回され、ギュッと抱きしめられた。
これは……!
「ハグです……。これは、ひとりじゃできません」
「ちょっ……お前急に……」
「ふふふ。水を使っていては、振り解けないでしょう」
「……濡れるぞ、バカ」
「ふふっ。そんなの怖くありませんよ」
「お前なぁ……こら、一回離れろ」
自分でも照れくさかったのか、橘は意外と素直に手を放した。
水を止め、手を拭いて、俺も橘の方を向く。
橘は上目遣いで、不安そうにもじもじしながら俺を見ていた。
「……どうせなら、しっかりやろう」
言って、今度は俺が、正面から抱きしめた。
心臓が暴れる。
橘の華奢な身体が強張る。
それでも嫌がったりしないで、ぎゅっと抱きしめ返してくれる。
初めてのちゃんとしたハグ。
お互いに相手を求める、一方的じゃないハグ。
今腕の中にいる女の子が、自分のことを好きなんだと、自分はこの子が好きなんだと、実感できるハグ。
幸せだ。
これ以上ないくらい。
……でも。
「……終わり!」
「えっ! ダメです! もう少し!」
「終わりだって! 恥ずかしいだろ!」
「まだ足りませんー!」
「……あ、ゴキブリ」
「ふわぁぁっ!! ど、どこですか!?」
「嘘でした」
「なっ! ひどい!」
「はいはい、ごめんよ」
「むぅぅっ……もう知りません!」
橘は派手な足音を鳴らして、今度こそリビングに帰っていった。
やれやれ、なんとか誤魔化せたか……。
高鳴る心臓を押さえながら、俺は何度か深呼吸をした。
やっぱり、絶対あいつの方が浮かれてる。
いや、間違いない。
「……この先、どうなるんだ、これ」
不安だ。けれど、それ以上に幸せだった。
これから楽しくなるといい。
そして、橘もそう思ってくれているなら、もっといい。
いろいろあったけれど、橘に会えてよかった。
橘は、どうだろうか。
あいつにとって、俺に出会ったのは、いいことだったのだろうか。
まだ、俺たちの関係は始まったばかりだ。
いつか終わるかもしれないし、ずっと続くのかもしれないけれど。
今はとにかく、この関係がひたすらに、心地よかった。
人と深く関わるのも、悪いことばかりじゃないらしい。
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