④ 「私も、楠葉さんが好きです」


 瞳が揺れた。


 雫が溢れて、頬を伝う。


 顔が歪む寸前に、橘は取り出したハンカチで顔を覆った。


「おい、大丈夫か……?」


「へ、平気です……ただ……だって……!」


 幸い、周囲の視線はなかった。


 みんな目の前のことに夢中で、こっちなんて見てやしない。


 そりゃそうだ。俺だって、今目の前の橘のことを考えるだけで、精一杯なんだから。


「……違いますよね?」


「えっ?」


「……今度は、友達として、とか、人間として、とか、そういうことじゃないですよね……?」


 言われて、俺は橘との数多くのやり取りを思い出していた。


 ……あぁ、焼き肉の時か。


「……違うよ。ちゃんと、橘理華っていう女の子が、好きなんだ」


「……そう、ですか……」


「……ああ」


 その後も、橘はしばらくの間ぐずぐずと泣き続けた。

 さすがにいたたまれなくなってきて、橘の頭をゆっくりと撫でる。


 少しそうしていると、橘は何度か深く息をして、やっと落ち着いたようだった。

 ハンカチがどけられて、目を腫らした、それでも冗談みたいに綺麗な顔が、こちらを向いた。


「……泣いてしまいました」


「……まぁ、その、なんだ? いいんじゃないか、今くらい」


「よくありません……。ちゃんと、返事をしたかったのに……」


 返事。


 その言葉で、俺は心臓を締め付けられるような苦しみを感じた。


 告白には、当然ながら、返事がある。

 余裕がなさ過ぎて、そんなことすらすっかり忘れていた。


「い、いや、待ってくれ。まだ、心の準備が……」


「人に準備をさせなかったクセに、よく言いますね」


「それは……まあ、そうだけど……」


「では罰として、私のことが好きな、その理由を聞きましょう」


「なっ!? わ、わかってるだろ、それくらい!」


「わかりません。ちゃんと、説明してください。あなたの言葉で」


 くそっ……。


 いや、でも本当なら、それが正しいのかもしれない。


 わかるだろ?

 なんていうのは怠慢で、不誠実で、毒だから。


「……ちょっと、向こう向いといてくれよ」


「ダメです。あなたがどんな顔をするのか、それだって大切なんですから」


「……くそぅ」


 俺が咳払いすると、橘はスッと真剣な表情になった。

 潤んだ目が二つとも、まっすぐにこちらを見ていた。


「……好きなことをする時、俺は絶対、ひとりがいいんだよ。その方が、楽しいんだ。邪魔されないし、集中できるし、気楽だから」


「……そうですね」


「それ自体を楽しみたいなら、きっとひとりが一番いい。ずっとそうだった。ずっと、そう思ってたんだ」


「……はい」


「でも最近は、そうじゃないのかもしれないって、思うことがあって……。そんなの、おかしいだろ。いや、おかしいんだよ、今までの俺の人生では、そんなことなかったから……」


「はい」


「でも……俺は変わった。橘のおかげで、少しだけ変わった。きっと、それが原因なんだと思った」


「……」


「もし、ひとりよりも二人の方が楽しいって思ったとしたら。……うまいものを食う時、二人の方がうまいって思うんだとしたら。好きな映画を見る時、二人の方がおもしろいって思うんだとしたら」


 橘はまた泣いていた。

 たぶん、俺も少しだけ、泣いていたと思う。


「それは、目の前のものよりも、一緒にいる相手のことの方を、大切だと思ってるからなんだ。……その人のことの方を、好きだと思ってるからなんだ。その人とだからこそ、それをやりたいと思ってるからなんだ」


 なんだよ、橘。


 俺の顔を見るんじゃなかったのかよ。


 結局ハンカチで顔、隠してるじゃないか。


「ひとりでできることも、ひとりの方が楽しめるかもしれないことでも、俺は橘とやりたいんだ。橘が、好きだから」


「……」


「……」


 ぐずっと鼻をすする音がしてから、橘はハンカチを仕舞った。

 俺もそれまでの間に、自分の涙はしっかり拭いておいた。 


「……はい、よくわかりました」


「……そうですか」


「……」


「……それで、返事は」


「あ、そ、そうでした!」


「こら」


 どうやら本気で忘れていたらしい。

 橘は慌てたように姿勢を正し、深く深く息を吐いた。


「……それでは、もう一度楠葉さんから」


「なんでだよ!」


「やはり、こういうことには自然な流れが重要でしょう? それに、気づいていますか? あなたはまだ、私のことを好きだと、言っただけなんですよ?」


「えっ……」


 ……あっ、そうだった。


 たしかにこれじゃあ、橘のことをどう思っているのか、それを伝えただけ。


 正確には、これはまだ単なる告白であって、俺がしたかったことは……。


「……橘」


「……はい」


「……好きだ。恋人になって欲しい」


「……こういうときまで締まらないところが、楠葉さんらしいですよね」


「……しょうがないだろ。初めてなんだから」


「ふふっ……。それじゃあこれからも、初めてのことだらけで大変ですね」


「……ちゃんと言ってくれよ、そっちだって」


 冗談っぽく、橘を睨んでやる。

 橘はまたクスクス笑って、思い出したかのように流れた最後の涙を指で拭いながら、言った。


「楠葉さんは、とても優しい人です。もっと愛されて生きてほしい」


 橘は綺麗だった。


 出会ってから今までの中で、間違いなく、一番綺麗だった。


「けれど、それが叶わないなら、みんながそれに気づかないなら、わたしだけでも、愛していいですか?」


「……あぁ。ああ」


「私も、楠葉さんが好きです。恋人になりましょう」


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