⑥ 「……友達じゃなくなったら」
翌日。
昨日の漫画まとめ買いで金銭的な打撃を受けた俺は、昼間に古本屋で買った小説を読み漁っていた。
それにしても、300円三冊で八時間潰せた、というのはかなりの成果だ。
低価格で時間を充実させるには、ひょっとすると古本が最強かもしれない。
ところで、橘はどうなったんだろうか。
昨日の夜には須佐美も帰ったみたいだし、もう平気だといいんだけど。
そんなことを考えていると、不意にピンポーンと呼び鈴が鳴った。
この家のベルを鳴らすのは、最近ではもう一人しかいない。
「よう」
「……こんばんは」
橘はまたキャミソールを着て、上にパーカーを羽織っていた。
髪が少し湿っている。
どうやら風呂にも入ったらしい。
すっきりした表情だったが、少しだけ顔が赤いように見えた。
「熱は?」
「はい。もう下がりました」
「明日は学校、行けそうなのか?」
「そのつもりです」
「そうか、よかったな」
相変わらず真面目なやつだ。
俺ならたぶん、大事をとって、とかなんとか言って一日余分に休むだろうな。
「改めて、悪かったな。勝手に部屋入って」
「そ、そんな! ……いいんです。そのおかげで……私は」
橘の目が、少しだけ潤んで見えた。
なんとなく危険を感じた俺は、半ば無理やりに、その話を終わらせることにした。
「それで、何の用だ?」
「い、いえ……用と言うほどでは……ないのですが」
橘は言い淀んでいた。
いつも淡々としていて、静かだがはっきりと物を言うこいつには珍しい。
不自然に頬を染めて、服の袖を口元に当てて、目を逸らしている。
「なんだよ。言いにくいことか?」
「そ、そういう訳では……」
「……なんでもないなら、早く戻れ。今日は早めに寝ろよ」
「あっ! 楠葉さん!」
ドアを閉めようとした俺の手を、橘が掴んだ。
ぎゅっと握りしめられて、橘の手の温度が伝わってくる。
……熱いな。
こいつ、ホントにもう熱ないのか?
「あ、ありがとう、ございました……本当に……」
「お、おう。いや、いいよ。あんまり気にすんなよ」
何かと思えば、普通にお礼を言われた。
恩を感じてくれてるのは嬉しいけど、友達なんだから当然だ。
それに、看病したのはほとんど須佐美だしな。
「……本当に、感謝しています。今回だけじゃない。楠葉さんには、何度も何度も助けられて……」
「助けられてるのは俺も同じだろ。それに、お前が言ったんだぞ。友達なら、助けられてもお返しされても、ありがとうでいいって」
「……そうですね」
そこで、橘は黙ってしまった。
それなのに、話を終わらせようとはしない。
俺と橘の間に、おかしな沈黙が続いた。
橘は頬を染めたまま、パジャマの裾を掴んでもじもじしている。
その様子を見ていると、なぜだか俺もいたたまれなくなって、頭を掻いて視線を明後日の方向に投げてしまった。
「それじゃあ……」
「……ん?」
「……友達じゃなくなったら、どうなってしまうんでしょう……?」
「そ、それは……」
どういう意味だ?
そう尋ね返すことも出来ず、俺はその場で黙り込んでいた。
友達じゃなくなる。
それは、他人に戻る、ということだろうか。
それとも、もっと別の意味なのだろうか。
なぜ俺は、それを橘に尋ねることができないんだろうか。
橘はそれ以上、なにも言わなかった。
ペコリと軽く頭を下げ、ゆっくりとした足取りで去っていく。
俺も今度こそドアを閉め、自分の部屋に戻った。
ドアの向こうから、橘が帰っていくらしい足音がかすかに聞こえて、遠ざかっていく。
ひどい脱力感に襲われて、俺はベッドに倒れ込んだ。
頭の中に、昨日の須佐美とのやりとりが、否が応でも思い出される。
人が告白を断る時、相手が原因じゃない場合、何が理由か。
須佐美は昨日、その答えを言わなかった。
だが言われなくても、俺にはその答えがわかっていた。
それくらいに単純で、明らかで、ほかに考えられなかったから。
橘が特殊なのかもしれない。
そうやって高を括ることだって、できなくはない。
けれど、きっとそうじゃない。あいつは素直で、わかりやすいから。
橘と俺は友達だ。
そうなったきっかけこそ妙だったけれど、気を許せる良い友達になれた。
それは嬉しい。
俺の考え方を変えてくれたことにだって、感謝してる。
「……はぁ」
でも、どうしてそれで終わらないのだろう。
満足しないのだろう。
贅沢なやつ。身の程知らずなやつ。馬鹿なやつ。
「……あぁ」
期待してしまう。
欲張ってしまう。
けれど、怖がってしまう。
そもそも、俺には女友達だって初めてなんだぞ。
うまくやれって言う方が無理なんだよ。
可愛いよ、橘は。
でもそれだけじゃなくて、いやそれ以上に、良いやつだよ。
ありのままの俺を受け入れてくれる、不思議なやつなんだよ。
『他に好きな相手がいるから。』
それ以外に、あいつが一ノ瀬を拒んだ理由があるだろうか。
恋愛に興味がないから?
好きじゃない相手と付き合うなんて不誠実だから?
こっそり覗いていたやつがいたから?
そうかもしれない。
でも、きっとそうじゃないんだ。
知らんぷりをしていた。
気づかないふりをしていた。
いや、それしかできなかった。
馬鹿な俺には、それが限界だった。
こんなに複雑なものをひとりで噛み砕くなんて、俺には無理だった。
「……あー、くそっ」
スマートフォンで、メッセージを送る。
あいつの言う通りになったみたいで、腹が立つ。
結局頼れる相手があいつしかいなくて、ムカつく。
でも、ほかに相手がいたとしても、俺はあいつを選ぶに違いなかった。
『不本意ながら、助けてくれ』
すぐに既読マークが付く。
そんなところも、なぜかムカついた。
『任せとけ!!』
「なにを?」って聞けよ、あほ恭弥め。
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