⑤ 「悪気はないのよ」
「……なんだよ、突然」
「友達が少なかった、とは聞いていたけれど、そっちはどうなのかと思って」
「……それ、興味あるか?」
「ふふっ、あるわよ?」
思わず、ため息が出た。
どうやってかわそうか。
そんなことを考える気力を無くさせるような不敵な目で、須佐美は俺を見ている。
「……なんの経験もないよ」
「人を好きになったこともないの?」
「いや……それはまあ、少しは」
「それじゃあ、経験あるじゃない」
「告白したり、されたり、付き合ったり、そういうことがあるわけじゃないぞ。経験ないのと同じだろ」
「あら、そんなことないと思うけど」
須佐美はなぜか、テーブルに頬杖を突いてこちらに顔を近づけてきた。
まるで相手をその場に縫い付けるような、それでいて敵意を感じさせない、妙な視線だった。
「人を好きになる気持ちを知ってるっていうのは、知らないのとは随分違うわよ」
「そうか?」
「そうよ。特に、今のあなたにとってはね」
その台詞で、俺には須佐美がなんの話をしようとしているのか、わかってしまった。
けれど、その話題はもっと嬉しくない。
それこそ特に、今の俺にとっては。
「この前、理華が一ノ瀬くんに告白された時、あなた、その場にいたそうね」
「……あぁ、まあ」
「それじゃあ、楠葉くんに質問だけれど、理華はどうして、断ったと思う?」
言われて、俺は自然とあの日のことを思い出した。
『私はあなたを好きではないから、です』
橘はそう言った。
それ以上でも以下でもない、単純な理由。
だが単純ゆえに、このセリフには様々な含みが想定されるはずだ。
だからこそ俺は、一ノ瀬があそこで引き下がったことがずっと不思議だった。
相手のことが好きではない、というのは、一見すると断り文句として正しい。
しかし実際には、それは相手との交際を拒否する理由にはならない。
「一ノ瀬くんを好きじゃなくても、彼と付き合わない理由としては不十分よね。好きじゃない相手とは付き合わない、なんていう前提が、そもそも存在しないのだから」
須佐美の言う通りだ。
人間は、好きでもない相手に交際を求められても、多くの場合は嬉しくなってしまう。
そして、相手のことをよく知らないのであれば尚更に、相手の見目が良いならばよりいっそう、自分も相手を好きになれるのではないかという期待を寄せるものだろう。
告白されたことがきっかけで相手を好きになる、なんてこともあるくらいだ。
「まあ、理華は真面目だから、そんな前提を自分で用意していそうではあるけれどね。だけど彼、一ノ瀬くんは私が見る限り、すごく良い人だと思うわ。告白されて、嬉しくない女の子はいないでしょう」
「……だろうな」
では、なぜか。
イケメンで、内面の印象も悪くない一ノ瀬を、橘が拒絶した理由は、なんなのか。
自分の思考がこれ以上進まないように、俺は意図的に無駄なセリフを吐いた。
「でも、橘らしいと思うぞ、俺は」
「ええ、そうね。本当に、理華らしい」
そう言った須佐美は、相手の致命的なミスを見つけた軍略家のような顔をしていた。
目尻に当てていた小指が少し曲がり、両眼が鋭く細まる。
身体が動かなくなった。
何かを言うこともできずに、俺はただ須佐美の次の言葉を聞いていた。
「真っ直ぐで、不器用で、可愛くて、わかりやすい。そう思わない? 楠葉くん」
思わない。
俺は何も思わない。
「告白されて、それを断るのは、相手が好みじゃない時以外では、どんな場合があるか。簡単よね」
こいつは、何がしたいんだろう。
それを俺に言って、どうしたいんだろう。
俺に何をさせたいんだろう。
「……もう、帰る」
無理やりに立ち上がって、自分でもわかるぎこちない足取りで、俺は部屋を出た。
このままここにいたら、全部暴かれる。
その覚悟も準備も、今の俺にはまだまだ足りなかった。
「楠葉くん」
呼び止められて、俺はなぜか、素直に足を止めてしまっていた。
そうなってしまうくらいには、俺は既に、追い詰められていたに違いない。
「ごめんね。でも、悪気はないのよ」
「……ホントかよ」
「ホント。だって、大切な友達なんだもの、理華も、それからあなたも」
ドアが閉じる間際に見えた須佐美は、不思議なほど穏やかな笑顔を浮かべていた。
橘があいつのことを、『意地悪』だって言った意味が、ちゃんと理解できたような気がした。
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