③ 「おやすみ、橘」


「マジかよ……!」


 初めて見るキャミソール姿の橘は、壁に寄りかかるようにして項垂れ、ぐったりしている。

 俺は急いで靴を脱ぎ、橘に駆け寄った。

 目のやり場に困るが、今はそうも言ってられない。


「橘! おい! どうした!」


 あまり揺らさないように、身体を支えながら呼びかける。

 が、反応はない。


 額に手を当てると、明らかに高熱だった。

 首に汗をかいており、着ているパジャマも湿っている。


 どうして玄関に……。


 もしかすると、部屋を出ようとしたのかもしれない。

 そして鍵を開けてから、気を失った。

 そんな推測が立つが、今は経緯を気にしても仕方ない。


 気を失っているのに呼吸が荒い。

 表情も苦しそうだ。


 俺は以前のようにお姫様抱っこの要領で橘を抱えた。


 ゆっくりリビングへ進み、出来るだけ部屋の中を見ないように、橘をベッドに寝かせる。

 身体が熱いとはいえ、布団は着せるべきだろう。


「橘、平気か?」


「……楠葉、さん……?」


 初めて橘が声を出した。

 どうやら、なんとか無事らしい。


「ああ、俺だ。悪いな、勝手に入って」


 言いながら、薄暗かった部屋の電気をつける。

 橘の意識が戻ったことで、俺はかなり落ち着きを取り戻していた。


「どこかぶつけてないか? 痛いところは?」


「……いえ」


「そうか。ちょっと待ってろよ」


 キッチンにあったタオルを濡らして絞る。

 冷蔵庫から氷をいくつか出して、そのタオルにくるんだ。


「冷たいぞ」


 一言断ってから、橘のでこにタオルを乗せた。

 橘は目を瞑ったまま一瞬顔をしかめた後、ふっと緊張が解けたように表情を緩めた。


「どうだ?」


「……ありがとうございます」


 橘は薄く目を開けて俺を見上げた。頰が上気し、目が虚ろだ。

 38度後半くらいだろうか。


「……すみません」


「バカ、いいよ。ただ、体調悪いならあらかじめ言っとけ。そうしたら、もっと何かできたのに」


 橘は黙っていた。


 さて、どうしたもんか。

 このまま部屋に戻るのも心配だが、かといって、できることはそれほど多くない。


「風邪薬あるか?」


「……いえ」


「なにか、して欲しいことは?」


「……飲み物が」


「分かった」


 再び冷蔵庫を開け、コップにお茶を注ぐ。

 コップを渡すと、橘は半身を起こしてお茶を飲んだ。

 顔を歪めているところを見るに、喉が痛むのかもしれない。


「体調は? つらいか?」


 橘は無言で頷いた。

 髪が乱れ、また汗をかいている。


「しばらくここにいるぞ。いいか?」


 今度はしばらく黙った後、またゆっくり頷く。

 さすがにその方が、こいつも安心なんだろう。

 もう夜だし、とりあえず今は布団を着て寝ることだ。


「お前が寝つけるまではいてやるから」


 橘はまた頷いた。

 それから目を閉じ、深く息をする。


 俺はベッドの横に腰をおろし、須佐美にメッセージを送った。

 できることなら、橘も俺より須佐美に来て欲しいところだろうし。


『橘、ぶっ倒れてた。たぶん熱。しばらくここにいる』


 すぐに既読マークがつき、返事がきた。


『理華の様子は?』


『意識はあるし、たぶん平気だ。もし暇なら、明日看病に来てやれないか?』


『そのつもりよ。だけどお昼までは、楠葉くんよろしくね』


『俺はいいけど……モラル的に問題じゃないのか?』


『問題になるようなことしなければ、大丈夫よ』


『するか!』


『じゃあ、お願いね。理華も安心すると思うから』


 それっきり、須佐美は既読マークもつけなくなった。

 勝手なやつめ。

 しかしこうなっては、引き受けないわけにもいかない。


 まあ、橘にはデカい恩があるからな。

 これくらい、どうってことはない。


「眠れそうか?」


 ベッドの下から、横になっている橘に声をかけてみた。

 しばらく返事はなかったが、それでも小さな声で橘は答えた。


「……すみません、楠葉さん」


「またそれか。いいって。お前が嫌じゃないなら、俺のことは」


 言いながら、俺は数ヶ月前のことを思い出していた。


「去年の、あれは十月かな。俺も熱出したんだよ。でも、誰にも頼れなかった。平日で、親も仕事中だったからな」


 それでも連絡をすれば、もしかすると仕事を抜けて来てくれたのかもしれない。

 だけどそんなことをさせるには、もう俺だって子供じゃないのだ。


「ぶっ倒れて一人だと、とにかく不便でさ。気持ちも弱ってたし。メシ作るのもつらいし、家から物は無くなるしで、かなりきつかったんだよ」


 橘は黙っていた。

 もう眠っているのかもしれない。


「だから、頼れよ。せっかく近くに友達がいるんだから。そいつがどれだけポンコツでも、いないよりはずっとマシだろ。気持ちは分かるから。だから、気にすんなよ」


 返事はない。

 まあ、俺のつまらない話で眠れたのなら何よりだ。


 落ち着いたら、俺の方にも眠気がきてしまった。

 週末だし、朝もなぜか早起きだったから、疲れてたんだろう。

 慣れないこともしたしな。


「おやすみ、橘」


 一声かけてから、俺も思わず目を閉じた。

 襲い来る睡魔に身を委ねる。


 眠りに落ちる直前、俺は遠くで「ぐずっ」という泣き声を聞いた気がした。


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