④ 「今日は気分じゃありません」


 それをきっかけに、俺は思わず立ち上がった。

 音を立てないように体勢を変えて、踊り場を覗き込む。


 橘は、一人の女子に顔を平手打ちされたらしかった。

 頬を赤く腫らした橘は、それでも相手から目をそらさず、背筋を伸ばしたままその女子を睨んでいた。


 俺は迷ってしまった。

 ここで止めなくても、橘はきっと大丈夫だ。

 それどころか、止めればまた第二、第三の報復が来るかもしれない。

 橘には勝てない、相手がそう思わない限り、この嫌がらせは繰り返されるんじゃないだろうか。


「……気が済みましたか」


「うっ……!」


「な、なんなのよ……こいつ」


「気が済んだのなら、私は帰ります。それでは」


 だが、橘は完全に被害者だ。

 なにも悪くない。

 これは単なる、理不尽な悪意だ。


 たとえ助けが必要なさそうでも、このまま見ているのが本当に正しいのか?


「ま、待ちなさいよ!」


「……まだ、なにか」


「あんたなんか、顔だけなんだから!! あんたに近づいてくる男子なんて、みんなあんたの外見にしか興味ないのよ!!」


「……そうですね」


 どこまでも幼稚な人格攻撃。

 しかしどういうわけか、橘の語気にはさっきまでの迫力がなかった。


 どうやら向こうもそれに気づいたらしい。

 二人の女子は調子を良くして、一緒になって橘のことを罵倒し始めた。


 これは、さすがに潮時か……。


「あんたみたいな女、みんなホントは嫌いなんだから!!」


「そうよ!! あんたなんて、その性格が知れたら男子だってみんな」


「武田先生! なんかこっちが騒がしいんですけどー!」


 階段の陰から、鼻を摘んだ声で叫んだ。

 俺の必殺、武田召喚魔法だ。


 今回も効果は絶大だったようで、女子二人はクモの子を散らすように階段を駆け下りていった。

 橘だけがその場に立ったまま、階段の上にいる俺の方を見る。


 どうやら、正体はバレているらしい。


「……また覗きですか」


「また偶然、な」


「武田先生……は、いないんですね、どうせ」


「召喚失敗だ」


「召喚?」


 橘は不思議そうな顔で首を傾げた。

 さっきぶたれたところが、痛々しく腫れている。


「大丈夫か」


「平気です。こんなの」


「ほっぺたもだけど、メンタルもな」


「それこそ、なんともないです。ただ、不愉快なだけで」


「それにしては、なんか、最後元気なかっただろ」


「っ……! べつに、そんなことは」


 あんな悪口ごときで、橘がショックを受けるとは思えない。

 けれど、たしかにさっきの橘は、酷く傷ついたような顔をしていた。

 だからこそ、俺は考えるのをやめて、こうして割って入ることにしたのだから。


「……なんでもありません。あなたの気のせいでしょう」


「……ならまあ、いいけど」


「いいんです。帰ります」


「あっ、なら一緒に」


「今日は気分じゃありません」


 ひとりじゃ、またあいつらに絡まれないとも限らないぞ。

 そう思っていたのに、橘はさっさと逃げるようにして階段を降りていってしまった。


 無理強いするのも悪い気がして、俺はゆっくりと、ひとりで帰路に着いた。


 追いかけるつもりはない。

 けれど、帰りにちょっとだけ、寄ってみたい場所ができた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る