⑨ 「……ありがとな」
駅前のロータリーでバスを降ろされて、俺たちは一斉に解散になった。
辺りは既にすっかり暗く、寄り道をする生徒も多くはないらしい。
駅に向かうやつ、歩いて帰るやつ、それぞれが各々の帰路に着く。
恭弥たちと別れて、俺も歩き出した。
隣には、家が近い友達が一人。
もちろん、橘理華だ。
「……」
「……」
水族館を出てからの俺たちは、まだ一言も会話をしていなかった。
何を、どんな顔で話せばいいのか。
それがわからず、俺は今もずっと、口を噤んでいることしかできない。
俺は、予防線を張っていた。
いつか拒絶されるなら、最初から近づかない方がいい。
自分の自由を失うなら、友達なんて作らない方がいい。
そうやって、それでも友達でいてくれる相手を、探さない理由にしていた。
それで良いと思っていたし、恭弥以外にそんなやつはいないと思っていた。
もしいるとしても、わざわざ探したいとも思わなかった。
そこに、橘理華が現れた。
橘は言った。
俺と友達でいたいと。
友達を作って欲しいと。
あの時、俺は泣いた。
100パーセント、嬉しくて泣いた。
なんて単純なやつだろう。
結局俺は、そういう相手を求めていたんだ。
そういう言葉を、かけて欲しかったんだ。
このスタンスは変わらなくても、その上で俺を受け入れてくれる相手が現れたら、嬉しくてたまらないんだ。
何を言うよりも先に、俺は礼がしたかった。
泣いた俺のそばにいてくれたことにも、かけてくれた言葉にも、今横にいてくれることにも。
「……あのさ」「あの……」
声が重なる。
橘はチラリとこちらを見ると、どこか安心したような顔で首を振り、俺に続きを促した。
「……悪かったよ、今日は」
「何が悪かったんですか?」
「……まあ、なんだ。困らせたろ? 勝手に、その……泣いたりして」
「困りはしましたが、悪いと言われる覚えはありませんよ。泣いたあなたと一緒にいたのは、私の意志ですから」
「そ、そうは言ってもだなぁ……」
言葉に詰まる俺を、橘はクスッと笑いながら見ていた。
「……ありがとな、いろいろと」
「いろいろ、と言うと?」
「い、いろいろだよ。いいだろ、べつにそこは……」
「えー」
「えー、じゃない」
普段とは違う橘の子供っぽい反応に、俺も思わず笑ってしまう。
二人でクスクス言いながら、俺たちは夜の道を並んで歩いた。
知らないやつが見たら、さぞ不気味な光景に違いない。
「……決めたよ、俺」
「何を決めたんです?」
「もう、噂や悪目立ちは気にしない。本当にやりたいようにやって、それでももし寄ってくるやつがいたら、その時は拒絶しないで、付き合ってみる」
「……そうですか」
「たぶん、離れていくやつの方が多いだろうけど、でも、構わない。俺には恭弥と橘がいるし、二人が離れていったって、それが俺だ。だからもう、いいんだ」
「ふふっ。なんだか、前向きなのか後ろ向きなのか、わかりませんね」
橘は嬉しそうだった。
その反応で、俺もなんだか嬉しくなってしまう。
「でも、素敵だと思います。楠葉さんらしいというか、のびのびしていて」
「まあ、俺の気の持ちようが変わるだけで、大したことじゃないけどな」
「気の持ちようが一番大事だと思いますけどね、何事も」
「お前、お婆さんみたいなこと言うなあ」
「なっ、酷いですよ!」
「いや、良い意味でな? 良い意味で老婆」
「良い意味と言えばなんでも許されると思っているでしょう」
「良い意味だからな」
「……楠葉さんは悪い意味でずるいです」
拗ねたように歩幅が小さくなる橘。
軽く振り返るようにしながら、俺も歩くスピードを落とす。
「……お腹すきました」
「俺も」
「おいしいものが食べたいです」
「おいしいものと言えば……」
「……焼肉?」
「いや、橘の料理だな」
「ええっ。どうしてこんな日に……」
「雷の時の貸しは?」
「うっ……悪い意味でずるい」
「頼むよ、今日食いたいんだ」
「……わかりましたよ、もう」
もう一度横並びになって、俺たちはゆっくり歩いた。
不満そうだった橘も、すぐに柔らかい表情に戻ってくれる。
「買い出しは手伝ってくださいね」
「もちろん」
「メニューのリクエストは?」
「え。リクエストあり?」
「作れるものなら」
「マジか。ちょっと真剣に考えるわ」
「あんまり期待はしないでくださいよ」
「いや、するだろ期待。あんなにうまかったし」
「プレッシャーです」
「重圧は人を強くするんだぞ」
「重圧とは無縁そうなあなたに言われても」
「おいこら」
心が軽い。
気が楽だ。
こんな気持ちになれたのは、間違いなく橘のおかげだった。
「橘」
「なんですか?」
「……ありがとな、ホントに」
「またですか。お礼は、もう聞きましたよ」
「いいだろ、何回言ったって。それくらい感謝してるんだ」
「……そうですか」
「ああ。だから、ありがとう」
「……いえ、友達ですから」
「さすが友達」
「すぐ調子に乗る」
橘がジト目でこちらを見る。
その視線から逃れるように、ニヤけた顔を見られないように、俺は歩く速度をまた上げた。
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