⑧ 「友達でいたいんです」


「……やだよ」


「なっ、なぜですか! まだ何も言っていません!」


「あー、わかったわかった。なんだよ」


「もう……」


 からかい甲斐のあるやつめ。


「……楠葉さんは、どうして友達ができないんでしょうか?」


 橘は今さら、またそんなことを聞いてきた。


「前も言ったろ。性格が悪いからだよ」


「はい。たしかにそう言っていました。自分は人付き合いに向かない性格だ、と」


「……覚えてるなら」


「では、その時に私が言った言葉は、覚えていますか?」


 橘はそこまで言ってから、ゆっくりこちらを見た。


 あれは、銭湯の帰りが一緒になった時のことだったはずだ。


 記憶を辿る。

 そして、すぐに正解に行き当たった。

 そうだ、あの時橘は。


「私は、そうは思わない、と言いました」


「……だな。それで?」


「やっぱり、今も気持ちは変わりません。楠葉さんは、優しい人です。私にはよくわかる。なのに、どうしてこうなってしまったのか……。私は、それが知りたい」


 橘は思いのほか、真剣な顔をしていた。


 なんでそんなこと、お前に言わなきゃいけないんだよ。


 相手が橘じゃなければ、きっと俺はそう返していただろう。


 けれど、どうやら俺は橘のことを、信頼してしまっているらしい。

 ここまで追求されても、俺には不愉快な気持ちがほとんど湧いてこなかった。


「……そんなこと、聞いてどうするんだ」


「……前に言いましたよね。私は、冴月と千歳が大好きだと」


「言ってたな」


「私は、あの二人と友達になれて、本当によかったと思っています。それから、楠葉さんとも」


「……そうか」


「はい。そして楠葉さんにも、そういう友達ができるはずです。あなたは、良い人ですから」


 橘はそこまで言って、また水槽の方を見た。

 その横顔から、緊張しているのがわかる。


 初めて見るような、思い詰めた表情だった。


「……いえ、違いますね。できるはず、なんていうのは上から目線で、そんな言い方がしたいわけじゃなくて……私が言いたいのは、つまり」


「……いいよ、そんなに言葉を選ばなくて」


 今さら、言い方ひとつで傷ついたりなんかしない。

 それよりも、俺は橘の思っていることが知りたかった。

 友達が俺に対して言いたいことを、ありのまま聞きたかった。


「……楠葉さんには、いい友達に恵まれて欲しいんです。きっとあなたは、もっと愛されるべき人だから」


「……なんだ、そりゃ」


 鼻の奥が、きゅっと熱くなるのがわかった。目が痛くなって、まつ毛が少しだけ濡れるのを感じた。


 橘はそんなことには気づかずに、水槽の中の海の、ただ一点をじっと睨んでいた。


「……中学の時も、こうしてたんだよ」


「えっ……」


 理由はわからない。

 けれど俺は橘に、自分の話をしてみたくなっていた。

 いや、その話を橘に、聞いて欲しいと思ってしまっていた。


「中学の修学旅行でも、俺はひとりで、こうやって水槽を見てたんだ」


「……はい」


「そしたら、その時友達だったやつ……まあ、比較的よく喋る仲だったやつに、言われたんだ。キモっ、て」


「……」


 橘はこちらを見ない。

 ただ少し俯き加減で、俺の話を聞いていた。


「バカな俺は、そいつに水槽の良さについて熱弁した。そしたらそいつは言ったよ、意味不明、ってさ」


 嫌悪感と侮蔑の入り混じった、あの顔。

 まるで裏切り者を見つけたかのような、あの邪悪に歪んだ口元。


 俺にとって友達ってのは、そういうやつらのことだった。


「お前がわからないだけで、なんでキモいことになるんだ。俺にだって、理解できないことはある。でもキモいなんて思わない。そんな考えのやつもいるんだなって、そう思うだけだ」


「……そうですね」


「そんなことは、一度や二度じゃなかった。俺がちゃんと友達を作るには、やりたいことをやってちゃ、言いたいことを言ってちゃダメなんだと思った。ならいらないよ、友達なんて。俺は俺が一番大事だ。俺よりも他人の目を大事にしないといけないなら、友達なんていらない」


「……」


「……だから俺は友達を作らないし、友達ができないんだよ。単純だろ。自業自得で、だけどしっかり自分の望んだ通りの、当然の結果なんだよ」


 橘が水槽に触れた。

 水滴が拭われて、結びついた雫が流れ落ちた。


 息を吸う微かな音がする。

 それから濡れたような声で、橘が言った。


「……けれど私は、そんな楠葉さんと、友達でいたいんです」


 視界が揺れる。

 水槽の中が見えなくなって、歯が震える。

 身体の奥から、何か熱いものが湧き出してくるようだった。


「あなたは、どうですか?」


 俺は泣いていた。

 水族館の隅で声を押し殺して、バカみたいにうずくまって泣いていた。


「く、楠葉さん? ど、どうしたんですか? え?」


「……いや、なんでもない。なんでもないから」


「なんでもないなんてこと……」


 橘は立ち上がり、俺のすぐ近くに来たようだった。

 ぽん、と俺の頭に柔らかいものが載せられて、ゆっくりと撫でてくる。


 その手が動くたび、涙はどんどん溢れてきた。

 服の袖でそれを拭いても、いつまでも止まらない。


 そんなことは、言われたことがなかった。

 俺に友達ができて欲しいなんて、俺と友達でいたいなんて、そんなのは。


「……そんなの、信じないぞ、俺は」


「……信じてもらえなくても、本当です」


「俺は……一人でいいんだ。どうせ離れてくなら、最初から、そんなのはいらないんだ」


「いつか離れていくかもしれなくても、私は今、あなたの友達です。ありのままのあなたを好きな、普通の友達です」


 俺は泣いた。

 女の子を困らせて、恥も外聞も気にせずに、肩を震わせてひたすらに泣いた。


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