⑦ 「一つ、聞いてもいいですか」


「きゃー! クジラすごーーい!」


「イルカショーやるってさ! 行こうぜ!」


「見て見て! 熱帯魚可愛い!」


 俺の目的地は、何を隠そう水族館だ。

 数ある選択肢の中で、唯一行きたいと思ったのがここだった。


 同じ高校の生徒たちが賑やかに大水槽を眺めるなか、俺は壁際に設置された小さな水槽を順番に見ていく。


 俺は水族館が好きだ。

 正確には、水槽が好きだ。


 水の中を泳ぐ優雅な魚たちよりも、俺は水槽に置かれた擬岩や海草、砂を眺めるのが昔から好きだった。


 レイアウトはもちろん、リアルに再現された岩の質感や色、そこに生える藻。

 そういうものから感じる、本当の海底の雰囲気がたまらない。


 これ見よがしに泳ぐ派手な魚よりも、俺は岩陰や狭い隙間に潜んでる魚、風景の一部と化している魚を見ている方が楽しかった。


 もちろん、少数派だと思う。わかってもらおうとも思わない。

 けれど、だからこそ俺は、ここへはひとりで来たかったのだ。


「……うおぉ」


 一際奥まったところにあった一つの水槽に、俺は目を奪われた。

 その水槽は特に内装が作り込まれ、海の底の一部を本当に切り取ってきたかのようだった。


 だが、中にいる魚はどれも地味な見た目で、名前も知らないような連中ばかりだ。

 そのせいか、ほとんどの客はここでは足を止めず、チラッと見るだけで通り過ぎていった。


 しばらくここにいよう。


 俺はそう決めて少し屈み込み、水槽のガラスに顔を近づけた。

 ため息が出るような世界観だった。


 水槽の中は、狭い。

 もちろん、驚くほど大きな水槽もある。

 だがそれでも、海なんかと比べればそれは取るに足らないほどずっと小さい。


 この魚たちはこの先ずっと、この狭い世界で生きていく。けれど、不便なことはない。

 幸せに生きて、幸せに死んでいく。


 俺も、そんな人生が良い。

 広い海は怖いから。

 大きな世界を知ることは、小さな俺にとって、決して良いことばかりじゃないだろうから。


 それが矮小な俺に与えられた、幸せに生きる道のはずだ。

 最近少しだけ、図らずも世界が広がってしまっているような気が、しなくもないけれど。


「あれ、楠葉さん」


「……またこのパターンか」


 いつのまにか、隣に橘が立っていた。

 特に驚くこともなく、俺たちはそのまま並んで水槽を眺めた。


「お前も水族館かよ」


「私はここだけが目的です。水槽が見たくて」


「……魚じゃなくて?」


「ええ。私は、水槽が好きなんです。なんだか、海を詰め込んだみたいで、惹かれます」


「……そうか」


「はい。特にこの水槽は圧巻ですね」


「……だよなぁ」


「え?」


 俺はそれ以上何も言わなかった。

 それでも、橘には今の状況が伝わったらしい。


「……回るなら好きにしろよ。俺はまだここにいるから」


「私もいます。ここ、気に入ったので」


 ふぅっと小さく息を吐いて、橘は屈んでいた俺の横にゆっくりしゃがみ込んだ。


 薄暗い館内で見る橘は、心なしか普段よりも綺麗だった。

 水槽から漂う青い光が、橘の顔をぼんやりと照らす。


「楠葉さん」


「なんだよ」


「一つ、聞いてもいいですか」


 途端、不思議と周りの喧騒が、全て聞こえなくなる。


 なんだか、本当に海の底にいるみたいだった。


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