⑥ 「楠葉さんは、アホですね」
「……」
「……」
映画が終わっても、俺たちは言葉を交わさなかった。
無言のまま並んで映画館を出て、帰り道を一緒に歩く。
辺りはすっかり暗くなっていたが、夕飯も二人で食べよう、とはさすがに思わなかった。
後半の映画の内容は、ほとんど頭に入ってこなかった。
なにせ俺たちは、抱き合った体勢のままでラストシーンを迎えたのである。
当然本来の目的だった、もう一度結末の解釈を考え直す、なんてこともできるはずがなかった。
こうやって話すと、本当に理解不能でバカみたいな話かもしれないが、これには深い、いや浅い事情がある。
浅いと言うか、ただただシンプルと言った方が正しいかもしれない。
単純に、俺が橘を引き剥がそうとしても、がっちり俺の服を掴んだ橘が離れなかったのである。
加えてやはり、ペアシートの中は狭い。
一度落ち着いてしまった体勢を変えるのはなかなかに大変だった。
以上が、こうなってしまった理由の全てである。
実にわかりやすい。
「……」
「……」
だがいくら理由が単純とは言え、起こってしまったことは全然単純ではない。
要するに俺たちは、一時間以上も抱き合っていたのだ。
ただの友達が、そんなことをするのは普通じゃない。
ましてや俺は根暗モブで、相手はあの超絶美少女の橘理華だ。
実際、俺は胸がドキドキするのを抑えるので必死だったし、あの状況が全く1ミリも嬉しくなかったかと聞かれれば、否定せざるを得ない。
ただ、何よりも俺の心にあるのは、橘への後ろめたさと言うか、申し訳ない気持ちだった。
なにしろ、向こうは真剣に極限状態だったわけだ。
本人ではどうすることもできなかっただろう。
対して俺は、無理をすれば橘を引き剥がすこともできたかもしれないし、事実そうするべきだったのかもしれない。
いくら橘の方からくっついてきたとは言え、見方によってはこれは、環境を利用した卑怯なセクハラみたいなもんなんじゃないだろうか……。
とまあ、俺はそんなようなことを、黙ってここまで歩く間にずっと考えていたわけである。
橘が何も話さないのだって、きっと不快な思いをしたからだろう。
先に一人で帰ろうとしないのは、橘のせめてもの優しさか。
さて、どうやって謝ったもんだろうか……。
「……橘」「楠葉さん」
思いがけず声が重なって、俺たちは同時に立ち止まった。
気まずさに殺されそうな俺。
対して橘は、なぜだかしょんぼりしたような顔をしていた。
「……先に、いいですか?」
「お、おう」
答えると、橘は足を止めたまま、意外にもペコリと頭を下げてきた。
なんだ?
いったいなんで、そっちが頭なんて下げたりするんだ?
「……すみませんでした。せっかく映画を見ることになったのに、私のせいで台無しにしてしまって……」
「……えっ?」
「しかも、冷静さを失ってしがみついたりしてしまって……楠葉さんに嫌な思いをさせてしまいました……。本当に、ごめんなさい」
「……お、お前、そんなこと、律儀に気にしてたのか……?」
「……え」
橘は伏せていた顔を挙げると、不思議そうな表情できょとんとしていた。
自分の身体から、一気に力が抜けていくのがわかる。
なんだ、橘のやつ。
本気でそんなことを気にして、それで今まで黙ってたってのか?
だとしたら、こいつはけっこう、アホなんじゃないだろうか。
いや、もしかするとこれが、橘理華というやつなのかもしれない。
言われてみれば確かに、そういう見方もできなくはないしな。
ただ、俺にとってはそんなこと……。
「どうでもいいわ!」
「痛いっ!」
呆れと、少しの安心を込めた、軽いチョップを頭にお見舞いした。
橘は涙目になりながら両手で頭を押さえて、困惑したように俺の顔を見ている。
「それで落ち込んでただけかよ! 返せよ、俺の心配を!」
「だ、だって楠葉さん、劇場を出た頃から難しい顔をしていたじゃないですか! 怒っているんだとしたら、それは私のせいに決まっているでしょう!」
「決まってねぇよ! 俺なんかと一時間も密着してたのが嫌だったんじゃないのかよ!」
「……え?」
俺が嘆くように怒鳴っても、橘は全くピンと来ていない様子だった。
「……楠葉さんは、まさかそんなことを気にしていたんですか?」
「……気にするだろ」
「……はぁ」
ため息。
橘は心底呆れたという様子で、やれやれと首を振っていた。
なんかむかつく!
けれど、橘の言葉に安心している自分もいて、俺はもう、何がなんだかわからなくなってきていた。
「楠葉さんは、アホですね」
「あ! それ俺が言わないようにしてたやつだぞ! お前だってアホだ!」
「まあ、それが楠葉さんという人なのかもしれませんね。私の心配を返してください」
「おいこら!」
「たしかにそういう視点で見れば、楠葉さんのやったことは人の弱みにつけ込んだセクハラですね」
「みなまで言ってんじゃねぇ!」
何度叫ばせれば気が済むんだ、こいつは……。
しかし、橘は本当に気にしていないようだった。
要するに俺たちは、お互いに全然相手が気にしていないことに、申し訳なさを感じて黙っていたらしい。
つまり、二人ともアホだってことだ。
なんだそりゃ。
「あぁ、もういい。気にして損した」
「それはこっちのセリフですよ」
俺たちは恨めしさと気安さの混じった軽口を叩きながら、また歩き出した。
結局映画のことはわからなかったけれど、橘というやつのことは、より深く知れた気がする。
そう思えば、まあ今日の出来事も悪くはないか。
俺はそう結論づけることにして、さっきまでよりもずっと軽い足取りで、夜道を歩いた。
「……ですが」
少しだけ後ろを歩いていた橘が、小さな声で言った。
「……どうして、楠葉さんとくっついても、嫌じゃないんでしょうか?」
それは、俺への質問だったのだろうか。
それとも、自問だったのだろうか。
憶病な俺は何も答えず、ただ、聞こえないフリをしていた。
橘も、それ以上はもう、何も言わなかった。
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