⑤ 「ふ、不覚です……」


 俺たちの席は、スクリーンに向かって右の壁沿いにあった。

 前後を他のペアシートに挟まれ、若干だがスクリーンが見にくい位置だ。

 まあ、ギリギリにチケットを買った以上、それはこの際仕方ない。


 ただ、問題は……。


「これは……」


「思っていた以上に……」


 ペアシートは、俺の想像を遥かに超えて狭かった。

 ちょうど二人の人間がぴったり座れるくらいの幅しかない。


 いや、これ、密着するんじゃね?

 無理じゃね?


「ど、どうする……」


「……買ってしまったものは仕方ありません。いつまでも立っていては、他の方の迷惑になります」


「……マジかよ」


 橘が、奥の半分にすとんと座った。

 が、いつも冷静な橘もさすがに動きと表情が硬い。


 しかし、橘が覚悟して座った以上、俺が拒否するわけにはいかない。

 それに、目的は映画をもう一度しっかり見て、作品の理解を深めることだ。

 余計なことを考えるのはよくない。

 よくないよな、うん。


「……あ、おい、橘」


「なんですか?」


「奥行くなよ、こっちこい。見にくいだろ」


「え、いいんですか?」


「いいよ。俺の方が背、高いし。奥でもよく見えるから」


「……ありがとうございます」


 俺の提案を、橘は素直に受け入れた。

 スッと手前に場所を移し、俺に奥の席を空ける。


 俺は心を無にして、橘の隣に腰掛けた。

 座ってみると案外、まあ座れなくはないくらいの狭さだった。

 肩が触れ合ってはいるが、窮屈ではない。


 ただ、やっぱりなにも感じないというわけにはいかない。

 俺は緊張と恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。


 でも、なんかあれだな。

 例の雷の日のお姫様抱っこに比べれば、これくらい大したことないかもなぁ。


 比較対象がおかしい気もするが、そうでも思わないとやってられない。

 上映前の他の作品の予告を見ながら、俺は心頭滅却に努めることにした。


 しばらくすると劇場が暗くなり、上映が始まった。

 どこかに実は重要なシーンが混ざっているのかもしれない。

 情報を見逃さないように、全てのシーンを慎重に見る。

 橘も一言も話さずに、前のめりになってスクリーンを見つめていた。


「ひっ!」


 そんな時、とあるシーンで橘が短い悲鳴を上げた。

 肩に力が入り、怯えたような表情で身体を強張らせている。


 この作品はミステリーだが、終始暗い、ホラーっぽい雰囲気で物語が進む。

 中にはびっくりするような演出もあり、一度目に見た時も時々観客から悲鳴が上がっていた。


 俺はホラーにはわりと耐性があるし、何より二回目なので特に怖くはないけれど。


「ひぁっ!」


 中盤のホラーシーンが続く場面になると、橘は頻繁に悲鳴を上げていた。

 両手で顔を隠しながら、指の隙間からスクリーンを覗いている。


 こいつ、よくもう一回見ようって言ったな……。

 この様子だと、一回目はもっと怖かったんじゃ……。


「おい、平気なのか?」


 見かねて小声で話しかけると、橘は俺のその声にも驚いて肩を震わせた。


「お、脅かさないでください。平気です」


「ホントかよ……」


「それより、ちゃんと見ていてください。隠された情報がどこかにあるかもしれません」


「わかってるよ」


 周りに声が聞こえないよう、ヒソヒソ声でそんな会話をする。

 ペアシートは背もたれと端の肘掛が高く作られていたので、その点は少しありがたかった。


「ひゃぁっ!!」


「うおっ!」


 大雨のシーン、劇中で鳴った雷の音で、橘はついに俺の腕にしがみついてきた。


 そういえばあったな、こんなシーン……。


「お、おいこら!」


「ふ、不覚です……。雷のこと、すっかり忘れていました……」


 橘は俺の二の腕に顔を埋め、ちらりと片目だけをスクリーンに向けていた。


 こいつ、怖いもの多いな。

 普段は毅然としてるのに。


 それにしても……くそっ、これじゃあまるで集中できないぞ……。


「お、おい、離れろよ……平気なんじゃないのか」


「そ、そんなこと言ったって……」


 橘はあっさり弱音を吐いていた。

 正直、橘が何を怖がろうと文句はないのだが、抱きしめてくるのはやめて欲しい。


 一度似たようなことがあったとは言え、やはり妙な気持ちにならずにはいられない。


 っていうか、こいつ自分の可愛さホントに自覚してるのかよ……。


 橘の柔らかい感触が腕から伝わってきて、集中力が著しく乱される。


 そもそも、こいつ自身は恥ずかしくないのか……?

 男友達の腕に抱きつくなんて、普通抵抗あるだろうに……。


「も、もうすぐダメなシーンも終わりますから、それまで、お願いします……」


「お前、一回目はどうやって耐えたんだよ……」


「その時はまだ平気だったんです……。おそらく隣の女性が、私よりも怯えていたからだと思います……」


 なるほど、自分よりもヤバい人を見ると少し余裕が出る法則か……。


 仕方ない、ここはあと少しだけ我慢を……。


 あ、待てよ?

 確かこの後のシーンって……


「ふゎぁぁあ!!」


 俺の記憶通り、今作一番のびっくりシーンが来た。

 橘はすっかり忘れていたらしく、泣き叫ぶように俺にしがみつき、震えながら身体を密着させてくる。


 いや、さすがにこれはよくない!


 もうペアシートの狭さとか関係なく、俺たちはほとんど抱き合う体勢になってしまっていた。


 もはや俺の意識は、スクリーンから完全にそれている。

 それでも橘は冷静さを失っているのか、いっこうに離れようとしない。


 くそっ、なんてアホな展開なんだ……。

 これじゃあ映画をちゃんと見直すどころか、ただバカップルがペアシートでいちゃついてるみたいになってるぞ……。


「ぐずっ……ひぁぁ……」


 だが、怖がる橘を無理やり引き剥がすわけにもいかない。

 俺は橘が落ち着くまで、心を無にしてただ橘の背中と頭を撫でていた。

 とにかく早く、橘を復活させなければならない。


 神様、許してください。下心があるわけじゃないんです。

 どうか公平な裁きをお願いします……。


 そんなことを頭の中で唱えながら、俺はもう、映画を見ることをすっかり諦めてしまっていた。


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