④ 「台所、借りますね」
橘の家にバルサンを焚いた次の日。
今日の昼休みは、恭弥も俺に絡んでくることはなく、静かだった。
カバンからコンビニのパンを取り出し、スマホをいじりながら頬張る。
休み時間にスマホを使って良いというのは、俺のような人間にとっては大変ありがたい。
それなりの進学校だけあってか、うちの高校は校則がゆるいのである。
誰に声をかけられることもなく、黙々と食事を進める。
教室の真ん中では、恭弥が数人の男子たちと楽しそうに騒いでいた。
チラッと廊下の方を見ると、大勢の生徒たちが話しながらどこかへ向かっていた。
おおかた、弁当を持っている連中は中庭だろう。
あんなリア充の巣窟に飛び込めるのは、それこそリア充だけ。
俺なんて、まだ一度も中庭に出たことがない。出たいとも思わないけれど。
「ん?」
ふと、見覚えのある人物が廊下を通りかかった。
遠目でもわかるこのオーラは、やっぱり橘理華だ。
おまけに恭弥の彼女の雛田冴月、それから例のもう一人、ポニーテール眼鏡の女子も一緒だ。
その三人の出現で、廊下の方が一気に華やかになったように見える。
これが美少女のちからか……。
「恭弥、行くわよ」
「あぁ、おっけー!」
窓から教室を覗き込んだ雛田に声をかけられ、恭弥が弁当を片手に教室を出る。
その様子をぼんやり眺めていると、近くに立っていた橘と、目が合った。
俺が目をそらす前に、橘はいつかと同じようにペコっと会釈する。
あれは間違いなく、俺を見ている。
迷った末、俺は小さく二回頷いて、一応の反応を返しておいた。
周りの目があるとは言え、さすがに無視は気が引ける。
それにしても、相変わらず律儀なやつだ。
橘一行はそれっきり教室の前を通り過ぎ、当然ながら戻ってくることはなかった。
◆ ◆ ◆
ピンポーン、という呼び鈴の音で目が覚めた。
なんだ?
新聞の勧誘ならお断りなんだけどな……。
寝ぼけ眼をこすりながら、インターホンを見る。
が、そこで一気に眠気が吹き飛んだ。
制服姿の橘理華が、ビニール袋のようなものを提げて姿勢良く立っている。
いったい、何の用だ?
殴り込みか?
玄関まで歩いてドアを開けると、橘はほっと肩を撫で下ろしたように見えた。
「こんばんは」
「……おはよう」
「もう少し早く伺うつもりだったのですが、お返しをどうするか決めていなかったので、遅くなってしまいました。すみません」
淀みなく話す橘の声で、だんだんと頭が冴えてくる。
そういえば、そんな話もあったっけか……。
「昨日は、本当にありがとうございました。部屋にはもう、ゴキブリの気配はありません」
「ああ、それはよかったな。次はちゃんと、ゴキブリホイホイ置いとけよ」
「はい。友人にもそう言われまして、既に設置済みです」
「そうか、聡明な友達だな」
「上がっても構いませんか」
「……なんでだよ」
「ん」
短くそんな声を出して、橘はビニールの中身を俺に見せた。
俺もよく利用する、スーパーの袋だ。
中にはニンジンやジャガイモ、玉ねぎ、青ネギ、それから鶏肉、カレーのルーなど、様々な食材が入っていた。
「昨日楠葉さんの部屋を見て、あなたの食生活は大体わかりました。お礼にするなら、栄養バランスの取れた食事が良いかと」
「おお」
素で感心してしまった。
実のところ、以前に食べた橘の弁当のうまさが、俺はまだ忘れられずにいたのである。
あんな料理をまた食べられるというのは、願ってもない話だ。
……が、しかし。
「……いや、それだとそっちの労力が大きすぎる。貸しと見返りが平等じゃない」
「またそれですか」
橘はジト目になり、呆れたように首を振った。
「私はこれでも足りないと思っているくらいです。私とあなたの価値観が違う以上、双方が納得する見返りなんてありません」
「た……たしかにそうだが」
「細かく考えすぎなんですよ。友達なんですから、助けられたらありがとう、お返しされてもありがとう。それでいいじゃないですか」
「……ん? と、友達?」
橘の意外な言葉に、俺はマヌケな声を上げてしまった。
「友達なのか……? 俺たち」
「少なくとも、私はそう思っています。楠葉さんがどうかまでは、わかりかねますが」
橘は堂々とした声音で言った。
打算も躊躇も感じない、まっすぐな口調だった。
友達。
俺と橘が、友達?
「べつに、それについて議論しようとは思いません。関係をはっきりさせることに、私は価値を感じないので」
俺からの反論を制するようにそう言いながら、橘は俺の横をすり抜けて部屋に上がり込んだ。
意外と強引なやつだ。
「……なんだか、昨日より散らかっているような」
「ギクッ」
「……まあいいです。台所、借りますね」
「はい」
橘は持参したらしいエプロンを着けて、テキパキと動いた。
たぶん、普段から料理をしているんだろう。
手つきが慣れているし、危なげない。
その間に、俺は部屋の物を片付けることにした。
漫画や服が散らばっていて、今のままではとても橘を座らせるスペースがない。
それにしても、あの橘が俺の家に来て、手料理を振る舞ってくれるとは。
なんだか、おかしな展開になったもんだ。
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