③ 「相手が楠葉さんなら」
「焚いてきたぞ、バルサン」
結局、橘は俺の部屋に一時避難することになった。
もちろん、見られてはいけないものは、あらかじめ隠してある。
ついでに、部屋の中も少し掃除しておいた。
なにせ、普段はかなり散らかっているからな。
友達が来たりもしない以上、自分さえ快適に暮らせればいいわけだし。
「ありがとうございます」
「あとは二時間待つ。その頃にはもう、やつらは全滅してるよ」
「いい気味ですね」
「おい、怖い顔になってるぞ」
正しくは、悪い顔、だろうか。
ちなみに、橘の部屋には特に、ヤバそうなものは何もなかった。
洗濯者が干されていたりとか、服が脱ぎ捨てられていたりなんてこともない。
清潔、という言葉がよく似合っていた。
まあ当然だろう。
でなければ、俺を部屋に入れたりはしない。
「ほら、スマホ。いるだろ?」
「はい。何から何まで、すみません」
「いいよ、別に」
スマホはベッドの上に転がっていた。
回収するときに、布団からちょっとだけいい匂いがした気がする。
が、あれは不可抗力だ、俺は悪くない。
「スマホ、ケースつけてないんだな。まあ、俺もだけど」
「はい。落としさえしなければ、これが一番扱いやすいです」
「……そうだな」
またしても驚くことに、それは俺の考えと全く同じだった。
相変わらず、橘と俺は妙に価値観が重なっている。
いい加減呆れるぞ、さすがに。
「それにしても、やはりけっこうな長丁場ですね……」
橘はクッションの上に正座したまま、申し訳なさそうにこちらを見た。
「すみません、楠葉さん。私はおとなしくしているので、どうぞお構いなく」
「あ、ああ。それはまあ、いいんだが……」
俺はそう言いながら、橘が座っている辺りを横目で眺めた。
「……」
俺の部屋の中に、恋人でもなんでもない女子がいる。
それだけでも充分異様なのに、相手がこんな美少女で、しかも二人きりときたもんだ。
あまり考えないようにしていたが、こうして見るとやっぱり罪悪感というか、背徳感がある。
「……聞きたいんだが」
「なんですか」
「……男の部屋に入るのに、抵抗があったりはしないのか」
あえて触れないでおこう、とも思った。
だが、このまま確かめずに二時間も過ごせるほど、俺は図太くない。
橘は特に表情を変えず、少しだけ顎に手を当ててから答えた。
「一般的に男性の、ということならありますが、相手が楠葉さんなら、特には」
「な……どういう意味だよ、それ」
俺は一般的な男じゃないってか。
まあ、自信を持って反論するほどの材料もないが。
「リスクが大き過ぎますから。それがわからない人がバカなことをします。そして、楠葉さんはそうではないでしょう?」
「……ま、まあ」
なんだか、煮えきらない気分だった。
褒められたのか?
まあ、とりあえずは信用されている、と捉えておこう。
「とは言っても、それだけ美人なら多少過剰に警戒してもいいと思うけどな」
っと、思わず本音が漏れてしまった……。
だが、嫌悪感を向けられることを予測したのに、橘は特に気にしていない様子だった。
ひょっとすると、この手の賛辞は聞き慣れているのかもしれない。
「ちゃんと、その場に応じてそれなりの防衛体勢は取ります。今はその時ではない、それだけです」
「……なるほど」
実にシンプルな返答。
さすがに16年この容姿と付き合っているだけあって、俺が想像するようなことは折り込み済みらしい。
「けれどそれを言うなら、楠葉さんにだってリスクがあります。異性を部屋に上げたという事実が、相手に悪用されないとも言い切れませんからね」
「それは……まあ、確かにな」
「もちろん、私にそんな気はありません。だけど確かに、お互いリスクがある。この状況を安全だと思えるくらいには、私は楠葉さんのことを知っているつもりです」
「……そうか」
橘の淀みない言葉に、俺はただただ頷くしかなかった。
こいつは相変わらず理性的というか、合理的というか。
だがお陰で、肩の荷が下りたような気分だった。
まあ、もちろん美少女が部屋にいる、ということ自体が気にならなくなったわけではないけれど。
「ですから改めて、ありがとうございます、楠葉さん」
「いや、いいよ。それにバルサンなんて使わないしな、俺」
「そうなんですか? ではなぜ持っていたんです?」
「ひとり暮らしの餞別で、親父がくれた」
もっと他になかったのだろうか。
良い布団とか、良い椅子とか。
親父のセンスの無さに悪態をつきながらも、俺はあることに気がついた。
気づくのが遅れたのは、それが俺にとって、当たり前のことだったからだろう。
「楠葉さんも、ひとり暮らしなんですね」
「も、ってことは、やっぱりそっちもか」
高校生のひとり暮らしなんて、それほど多くはないはずだ。
これはまた、妙なところが一致したもんだな。
「今日のお礼は、また近いうちにさせていただきます」
「いらん……って言っても、引き下がらないよなぁ」
「はい。例によって」
「わかったよ。俺も自分から首突っ込んだわけだし」
口論したって無駄なのは、前回の弁当の一件でわかりきってる。
さっさとお返しされてしまった方が無難だろう。
「……楠葉さんは」
「ん?」
言いながら、橘は顔をそらした。
俺の部屋をぼーっと見渡しながら、なんということもなさそうに、言葉を続ける。
「やっぱり、良い人だと思いますよ」
「……そりゃどうも」
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