② 「お願いしてもいいですか」
「ゴキブリ?」
「ゴキブリ」
「……それで?」
「三匹いたんです」
「それはまた、大所帯だな」
「はい、数的不利です。退去せざるを得ませんでした」
「そんなことかよ」
俺が漏らすと、橘はムッとした顔になった。
「一匹いれば三十匹はいる、と考えられるのがゴギブリの恐ろしさですよ。あなたはそれを分かっていませんね」
「三十匹いても気持ち悪いだけで、恐ろしくはないけどな」
「とにかく、あんなところでは眠れません。もう見失ってしまったので、ここで対策を講じていたわけです」
なるほど、なんとなく経緯は想像できた。
ゴキブリは一度隠れてしまうと、もう退治するのは難しい。
かと言って、いるものはいる。無視はできない。
それで困っているというわけだろう。
「どうするんだ?」
「考え中です。幸い寒さは凌げそうですし」
いつの間にか、橘は俺のコートをちゃっかり着直していた。
サンダルから覗く足が、寒そうにもじもじと動いている。
「友達に連絡は?」
「この状況で助けを求められそうな友達は二人ですが、どちらも家がこの近くではありません。それから、スマホも家の中です」
二人、というと、前にうちの教室に来た時の、あの二人だろうか。
片方は恭弥の彼女、
もう片方は、橘と一緒に外で待っていた眼鏡のやつか。
「案外友達少ないのな」
「数は問題ではありません。大切なのは、信頼感と親密度です」
橘はキッパリと答えた。
まあ、それには俺も同意見だ。
友達と呼べそうな相手は恭弥しかいないけれど。
「うちに、バルサンがあるぞ?」
「ばるさん?」
「……バルサン知らないのか?」
「知りません」
おお、マジか。
バルサンとはなにを隠そう、害虫駆除用の秘密兵器だ。
「それがあれば、部屋中の害虫を一網打尽にできる」
「す、すごい……!」
「しかも俺が持ってるのはノンスモーク霧タイプ。火災報知器も反応しないし、マンションにはうってつけだ」
得意げな俺の解説に、橘は心底感心していた。
別に俺がすごいわけではないが、気分が良いのであえて言うまい。
「多少手間は掛かるが、二時間もあればできるぞ」
「に、二時間……ですか」
橘は顎に手を当てて、真剣な面持ちで思案しているようだった。
それも無理はない。
なにせ、俺が今考えただけでも、いろいろな問題が思いつく。
「まず、誰がバルサンを起動しに行くか、だな。それから起動中、どこで待つか」
「き、起動?」
「部屋の真ん中に置いて、スイッチを押すんだ。それに、テレビとかにはカバーを掛けなきゃならない。できるか?」
俺が尋ねると、橘はブンブンと首を振った。
顔が青ざめている。
どうやら、相当ゴキブリが嫌いらしい。
「ならゴキブリが平気なやつに頼むしかないな。俺のスマホで誰か呼ぶか?」
「いえ、さすがに友達の電話番号は覚えていません……。それに、やはりこの時間から呼びつけるのは気が引けます」
「なるほど。と、なると……」
「……」
俺たちはしばらくの間、黙って向かい合った。
たぶん、向こうも俺と同じことを考えている、と、思う。
すなわち、俺が行くという選択肢。
だが、言うまでもなく問題は山積みだ。
おもに、洗濯物とか。
さすがに、俺から提案するのはマズいな。
下手をすると、俺がこの状況を利用して橘の部屋に入ろうとしている、と思われかねない。
俺の身の潔白と名誉のためにも、ここは橘の判断に任せよう。
だが、俺が沈黙を決意してすぐ、橘はあっさりした口調で言った。
「楠葉さん、申し訳ないのですが、お願いしてもいいですか」
反射的に、俺は頷いていた。けれども……逆に、本当にいいのだろうか?
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