第3話 美少女を覗く
① 「……言いたくありません」
「……寒っ」
震える両腕をさすりながら、俺は古本屋から帰宅した。
晩飯も外で済ませてきたため、既に辺りも暗くなっている。
もうすぐ夏だというのに、今日の夜はやけに冷える。
異常気象の影響か、これも。
階段を上がり、二階の自分の部屋を目指す。
さっさと風呂に入って、今日はゴロゴロしよう。
「ん?」
思わず、足を止めた。
今俺がいる階段からは、裏のB棟が見える。
それだけなら特に何もないのだが、今日はいつもとは違ったものが見えた。
「……橘?」
二階の一室の前に、薄い緑色のパジャマを着た人影が、ポツンと立っていた。
ここからでは柵に隠れて上半身の後ろ姿しか見えないが、ほぼ間違いなく、橘理華だろう。
なにせ、美少女はオーラが違う。
だが、なぜにパジャマ……?
くそっ、正面が見えないのがもどかしい。
橘は俺の存在に気付いた様子はなく、ただずっと、黙って直立していた。
状況が全く読み取れない。
しばらく様子を見てみても、橘は身動き一つしなかった。
何かを待っている?
それとも、立ち往生か?
閉め出された、なんてことはないだろうな。
オートロックのホテルじゃあるまいし。
「……」
気づけば、俺は階段を降りて、B棟を目指していた。
二階まで上がって、壁の陰からパジャマの少女を見る。
やっぱり、橘だ。
こんな夜に、知り合いが一人で部屋の前に立っていたら、誰だって気になるに決まっている。
だからこれは、当然の行動だ。
断じて、何か下心があるわけじゃない。
「おい」
「ひゃっ!」
声をかけると、橘はびくっと肩を弾ませてこちらを見た。
珍しく、取り乱した表情だ。
だが橘は俺を見ると、なんだかホッとしたような顔をしてから、ほのかに頬を赤らめたようだった。
なんだ、その反応は?
「楠葉さんでしたか。驚かせないでください」
「俺だって驚いたぞ。何やってんだ、そんなとこで」
「……言いたくありません。あなたには関係ないでしょう」
さすがは橘、拒絶の仕方がストレートだ。
しかしまあ、たしかに橘の言う通り。
気にはなるが、しつこく詮索するほどのエネルギーもない。
「そうか。じゃあな」
「はい」
あっさりと別れて、俺はA棟に戻った。
橘も子供じゃないんだし、何なりとうまくやるだろう。
階段を上りながらも、またチラッとB棟の方を見る。
橘はさっきまでと何も変わらず、ただ立っていた。
びゅうっと冷たい風が吹き、寒気が襲う。
階段を上がり切る寸前、橘が凍えたように自分の身体を抱くのが見えた。
……あぁ、くそっ。
たしか、クローゼットに薄手のコートがあったはずだ。
数ヶ月前に着たっきりの紺色のそれを引っ張り出して、俺は部屋を出た。
階段を駆け下りて、棟を移動し、また上る。
「ほら」
そして凍えたままの橘に、突き出すようにコートを渡した。
「なんですか、これは」
「着ろよ。気になって仕方ない」
「……けっこうです。いりません」
相変わらず、強情なやつだ。
説得は時間の無駄だろう。
俺はコートをポイッと橘に投げつけた。
思惑通り、反射的にそれを受け取ってしまう橘。
「俺もいらん。じゃ」
「ち、ちょっと!」
問答が始まらないうちに、さっさと走ってその場を去る。
またA棟の階段に戻ると、橘が恨めしそうな顔でこちらを見ていた。
当然、感謝されたかったわけじゃない。
だからべつに、その反応はどうでもよかった。
ただ、その手に持ったコートだけは、諦めてさっさと着てくれと思う。
自分の部屋に戻り、湯を沸かしてカップラーメンを食う。
食べ終わって一息ついた頃には、約30分が経過していた。
さすがに、橘はもう中に入っただろうか?
俺は部屋を出て、階段の中腹まで歩いた。
が、向かいのB棟にはもう、橘の姿はない。
……念のため確認しておくか。
今日だけで何度したかわからない、階段の上り下り。
生粋のインドア派である俺はもう、かなりキツくなってきていた。
階段を上り切って、さっきまで橘がいた通路を覗いてみる。
……いた。
橘はドアに背中を付けて、しゃがみ込んでいた。
どうやら、柵に隠れて見えなくなっていたらしい。
しかも、橘は俺の渡したコートをしっかり着込んでいる。
満足げなその横顔がおかしくて、思わず笑ってしまった。
「えっ? ……あっ!」
橘は俺に気づき、慌ててコートを脱ぎはじめた。
しかしサイズが合っていないのか、なかなか脱げずにあたふたしている。
「あはは! 何やってんだよお前」
あんなに毅然としていたのに、結局着ている。
素直なのか素直じゃないのか、わからないやつだ。
「こ、こっそり覗くなんて、卑怯ですよ!」
「そっちだってこそこそしてたろ。堂々と着てればいいのに」
「くっ……! き、今日は寒いんですから、仕方ないでしょう……!」
だからコートを貸してやったんだろ、とはあえて言わなかった。
これ以上いじめて、へそを曲げられても困るしな。
「もういい。聞くよ、事情。何があった?」
面倒な探り合いは、もうやめよう。
向こうも同じような心境だったのか、さっきよりも表情を柔らかくして、橘は答えた。
「……部屋に、出まして」
「何が?」
「……ゴキブリです」
そう言った橘の表情は、その内容に反して、真剣そのものだった。
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