言泡

甕覗

言泡


斎藤 真咲という名前の人間は、ふつうの人間じゃない。


 残念ながら、それは私のことだけれど。

人には見えないものが見える。なんて言っても見えているものはオバケとかじゃない。それは私にも見えない。私に見えるのは、人が吐いた言葉の色。

人がしゃべった言葉についている感情が、色になって私には見える。身近な家族や友だちはもちろんのこと、すれ違ったすべての人までも、言葉の感情が私には見えてしまう。

喋った人の口からは魚の吐くような、泡が出る。その泡にはいろんな色が出る。怒りの赤、悲しみの青、喜びの黄色、といった具合に。私はその泡を「言泡」とひっそり名付けた。小さい頃はみんな、シャボン玉を吹いているんだと思っていた。でも、いつからかそれが、私にしか見えなくって、それぞれの色が感情に結び付いているんだ、と気がついた。そのことに気がついた私は誰にも言わなかった。たったひとりの例外、従姉の朝美ちゃんを除いて。5歳年上の朝美ちゃんはファンタジーな感じの作家をしていて、私の現実離れした本当の話も真面目に聞いてくれた上で、誰にも言わない方がいい。と助言をくれた。その助言の通りに、私は友達にも家族にも秘密にして生きてきた。この不思議な力のせいで困ったことはあった。数えきれないくらい。そんなときも朝美ちゃん以外には、バレないように隠していた。

そんな普通じゃない私は、あるとき印象的な同級生に出会った。彼女はとんでもない嘘つきだった。あの子を見つけた事が、思春期の私にとって大きな出来事になった。

私史上一番の嘘つきに出会ったのは、周りの大学受験への熱が強くなった、高校三年生の塾の夏期講習だった。母親に勧められてしぶしぶ受けにいった夏期講習で、遅れてきたのが彼女だった。あの子は開口一番に嘘の言い訳をして席に座った。ものすごく申し訳なさそうな挙動と、大人しそうな見た目なのに。嘘をついた人の泡は他とは違う。嘘をついたとき、口から出るのは泡というより、カプセルトイの空のカプセルだ。空虚で軽くてまさに嘘っぽい球体。その球体は、嘘をついた人の足元にカツンと軽い音をたてて落ちる。そうしてしばらく残って、嘘をついたことによって後悔したりなんかすると、球体の色がだんだん変わってふわふわと浮いていく。それが普通なのだ。みんな何かしらの罪悪感とか、反省をするのにあの子はそうじゃなかった。そもそも、初めて会った時から嘘の言泡が足元にたくさん転がっていた。嘘の言泡は嘘つきの足元にまとわりつくように、離れない。他の感情が生まれない限りは留まり続ける。

嘘つきのあの子の名前は池畑 佐和というらしい。いわゆる真面目なタイプの人たちと仲が良くて、毎日のテストの成績も上から数えたほうが早いくらい頭がいい。それでもぽろぽろと嘘がこぼれ続けている。どうしても気になってしまって、ついつい授業中も休み時間もあの子の言泡の行方を追ってしまう。でも残念ながら、と言うべきなのかわからないけど、あの子と私の席はまぁまぁ遠いから話している内容まではわからない。さすがに問題を回答するときは嘘じゃなかったけど、友達らしき人たちとの会話だと嘘の言泡がこぼれている。周囲の人間と話を合わせるために嘘をついているみたいだけど、その言葉の全部が嘘みたいに見える。

あんまり気になってしょうがないから、まだ初めて見てから三日なのに朝美ちゃんに相談しに行ってしまった。朝美ちゃんの家が塾から徒歩五分でよかったと心の底から思った。

「あんな噓つきな人見たことない。どう思う?朝美ちゃん」

「どうって…。なんていうか、大人ってそんなものだけどね」

朝美ちゃんからの答えに驚いた。てっきり、変わっている子だねとか、私の援護をしてくれるものだと思っていた。

「まぁ、真咲の周りの人がいい人ばっかりだ、ってわかって良かったね」

「そういうこと~?」

「そうだよ。この先そんな人なんていっぱいいるのよ」

朝美ちゃんは慰めるように私の頭をポンと叩いて、いつもみたいに夜ご飯に連れて行ってくれた。

 次の日からも噓つきのあの子、池畑サンは、足元に空っぽの球体をまとわせて塾に来ていた。初日以来遅刻はしていないものの、やっぱり口を開くたびに、ころりとプラスチックみたいな言泡が落ちていく。だんだんと増えていくあの子の足元の言泡を見ていたら、ひとつの疑問が私の中に浮かんできた。

 もし、あの子の嘘の言泡がずっと消えずに溜まり続けてしまったら?

言泡は言葉を発したその人から、半径三十センチメートルあたりまでで留まっている。だから、言泡が多ければ縦に増えていく。仮に嘘をつき続けていたら、どんどん溜まっていってしまったら。いつか噓つきのあの子が透明な言泡に埋もれてしまうんじゃないか。

埋もれてしまったらどうなってしまうんだろう。少なくとも、私からは見えなくなってしまうだろう。もしかしたら直接体に影響して、息苦しくもなるかもしれない。

そう考えてしまってから、前よりもあの子の事が気になって仕方がなかった。もちろんあの子は普通にしているし、嘘の言泡が溜まっているなんて知る由もないだろう。気になっているのは私だけ。気になっているからって何かアクションを起こせるわけじゃない。このことを直接あの子に言ったって信じてもらえないだろうし、むしろ変な奴だ、なんて言われてしまったら、私の高校生活の最後は悲しい結末を迎えるだろう。

なんてうだうだと悩んでいたら、いつの間にか二週間あった夏期講習は、今日と明日の残り二日になっていた。私の成績は可もなく不可もなく、といった感じであんまり成果は出なかった。もちろん原因は、あの子の言泡が気になりすぎたせいだ。きっと。決して帰ってから大好きなゲームをしていたせいじゃない。たぶん。

成績がパッとしないことを責められた時の、母親への言い訳を考えていたら、いつの間にか授業は終わっていた。あと残り一日。まだ終わってないのに謎の解放感を覚えながら帰り支度をしていた時、異変に気が付いた。むしろ、なぜ今まで気が付いていなかったんだろう。

 噓つきのあの子が来ていない。

そういえば今日は見かけなかった。休み時間も嘘の言泡が落ちる音はしなかった。単純に具合が悪かったのかもしれない。どんな噓つきでも人間だし、体調くらい崩すだろう。

 次の日、夏期講習は最後の日。やっぱりあの子は来なかった。クーラーのせいか夏風邪も流行っていたし、二日休んだってなんの不思議もない。結局、何にもわからなかったし、学校は違うから嘘の言泡がどうなるかもわからないままだな、なんてのんきに考えていると、突然ガラリと音がして一人の女子が教室に入ってきた。

 高校生とは思えない派手なメイクに髪色、制服のスカートもこれでもかと短くしている。完全にどこからどう見てもギャル。遅刻してるのに態度もふてぶてしい。

 だけど、なんか変だ。あの制服どこかで見たような気がする。

 ギャルは迷うことなく教室を一直線に歩いて、空いていた席に座った。その瞬間何人かの女子から疑問と驚きが混じりあった言泡が浮かんだ。反応した女子たちはギャルと同じ制服だった。

 そこで私も気が付いた。ギャルが座ったのは、あの噓つきの池畑サンの席だった。それを見た先生がギャルに退くように注意した。

「退く必要なんかない。だってこの席アタシのだもん。」

これには誰もが驚いた。噓つきだけど清楚っぽいあの子が、突然ギャルになったのだから。面食らった先生が確認してくると言って教室を出ていくと、ギャルなあの子は隣の席の友だちになんだか話しかけていた。私には全く聞こえなかったけど、代わりに私だけにはわかるもう一つのあの子の変化に気が付いてしまった。


あの子の足元には、何もなかった。


これが私の昔話。彼女に二度と会うことはなかったのに、今頃思いだすなんて。私も年をとったわね。

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