パーフェクトワールド

八田部壱乃介

パーフェクトワールド

「人間には優劣があります。遺伝子に残された才能の数々は、比較された結果、最も効率化され優れたもののみが残るべきなのです。皆さんは選ばれた人々です。素晴らしい能力や、市民に相応しいモラルや思想を持ち合わせています。私は──この国は、貴方達市民が必要です。今までも、これからも、皆様によって支えられていることを、感謝しています」

 親愛なる女王陛下マザーの言葉が街角のモニタから流れてくる。私は歩を止め、それを眺めた。幾つになっても若々しいままの姿だ。彼女は、人形サイボーグではないのに。

 私は掌を見つめる。指を動かして握りしめると、無機質な感触が伝わってくる。顔に手を触れると、やはり同じ硬い感覚。

 私は人形なのだ。

 ビルの窓には二十年前から変わらぬ姿の私が映り込んでいる。それは若いとは言わない。昔からずっとそうなるようにと造形デザインされた顔立ちに過ぎない。

 私は二十年前に人間を辞めた。そして、この街にやってきた。この街を、私たちは「完璧な社会パーフェクトワールド」と呼んでいる。なぜこう呼ばれているかというと、完璧な市民しかここには存在しないからだ。そもそもこの街に住めるのは、素晴らしい遺伝子を持った人間だけ。

 いわゆる、人間選別というやつの結果だ。

 遺伝子を解析して、才能のある者を集めた街。ここは、そういう意味で完璧な社会だった。街を見渡せば優秀者しか歩いていないことがわかる。その中に、私も含まれているのだ。

 私は、選ばれたのだ。

 女王陛下マザーの言葉が響く。

「貴方は選ばれたのです」

 その言葉を胸に、私は生き続けている。

「完成された社会には、完成された人間が必要です。そのひとりが、貴方なのです」

 家に帰ると、縦に伸びた水槽が私を待ち構えていた。いつ見ても奇妙な代物だ、と思う。見慣れることがないのだ。橙色の培養液の中にぷかぷかと"なにか"が浮かんでいる。グロテスクな見た目だ。まるで宇宙人のように醜いそれは、私の元の身体だった。

 私の"人間オリジナルだった頃"の姿だった。

 私は自分の肉体オリジナルを捨ててから、新たな身体レプリカ──人形の中に遺伝子を埋め込んだ。元の肉体の方は未だに保管されて、こうして部屋の中に置かれている。正直置いておくのは良い気がしないでもないが、"これ"がないと大変なことになる。

 例えば、人形になってから疲れることがなくなった。休むことなく一日中働けるようになったし、集中力も途切れないから、お陰で何日も没頭することになる。すると、身体の調子こそ良いが、今度は精神が──不調をきたすのだ。

 市民はみな人形の器を使って生きている。そのため、怪我した場合は部品を買って直せば良いが、精神の疲労はそうもいかなかった。そこで、医者から"引き継ぎメンテナンス"をしてもらうことになる。

 私たちは人間から意識を繋いで動いている。いわば、人間はサーバー元なのだ。医者はこう言っていた。

「あなたの素晴らしい遺伝子コードを人形に埋め込んではいますが、意識は刷り込んでいるわけではありません。どちらかといえば、人間の肉体と人形としての身体を繋げているのです」

 つまり、私は新たな"私"として生まれ変わったのだ。だからこそ、慣れないことも多かった。

 医者に聞く。

「私は私なのでしょうか。私は単なるコピーに過ぎませんよね。偽物だったとしたら、これは私じゃないのではないか、と不安になるんです」

 医者は微笑む。

「いいえ、コピーではありません。移住と考えてください。或いは、服を着替えるのと同じです。身体という器を入れ替えたのです。……いいですか、貴方の頭脳の作り出す意識は、水槽に浸かる人間と常に繋がっています。ですから、意識はコピーされて二つに増えたわけではありません。貴方は、貴方のままなんです」

「常に脳が繋がっているのだとしたら、人間の脳味噌はくたばらないのですか」

「それは大丈夫です。厳密には、水槽に溜まる培養液──いわゆる脳液と繋がっています。脳液は頭脳と同じ役割を果たすので、心配する必要はありませんよ」

 その答えは、しかし慰めにはならなかった。

 七月三日午前三時二十四分頃。

 私は仕事を一旦終えて、帰宅することにした。気がつけば七日間通していたらしい。作業というのはそれだけ時間の感覚を失わせるものだ。同僚に帰ることを告げると、彼は手を挙げて応じた。

 私は目を瞑り、部屋を想像した。ソファに座り込む自分自身の身体の中に入り込むように、頭の中から魂がすっぽりと収まる様を考える。

 目を開ける。

 そこはもう仕事場ではなくなっていた。我が家だ。私は家に帰ってきた。人形の身体を得てから、意識を繋げる身体を想像するだけで、動くことなく移動することができるようになっていた。といっても、電波の通じる範囲に限るが、気軽に転移できるのは喜ばしいことだった。

 私は何もない部屋のソファに座っていた。

 ふかふかな感触が身体を通じて確かなものとして伝わる。肉体を捨ててから、「感覚」というものが贅沢な技術であるということを、人間は遅れて気がついた。痛みがない以上実感が湧かず、必要がないと言われていたが、この機能を実装してみると、確かな良さが──例えばそこに物があると納得できる。手にとっても感触がないと霞を掴んでいるようなもので、慣れないと混乱してしまうのだが、この悩みがなくなった。また、感触機能が増えたことで、事故が減った。そういう意味での利益よさが──あったのだ。

 不可思議な話である。肉体の不自由さから逃れようとして、利益を追求して研究するたびに、肉体と同じにまで近づいていくのだから、人は慣れに安心を得ようとするのかもしれない。

 私は橙色の培養液──確か「脳液」と医者は言っていた──に、人間オリジナルがぷかぷかと浮かんでいる。遺伝子以前に、今の人形の身体とはどちらの方が性能は上だろうか。優劣をつけるならば、どちらが良いのだろうか。

 私は水槽に眠るそれの隣に目を移し、本棚に並べられた本たちを眺めた。そこから一冊の文庫本を手に取る。古い小説で、当時は現代ものとして通用したのだろうが、記述された道具ガジェットやキャラクターたちの常識というものが、今では通用しない。少なくとも、私にはわからなかった。

 手に取った小説のジャンルはファンタジーだった。

 何の理由もなく、人々が突如自殺しだす物語だ。いや、一応のこと理由付けはなされている。しかし私には彼らの理由を何ら理解できず、読んでいても何一つわからなかったが、昔のことを知る教科書として重宝していた。

 私は、昔のことを知りたかった。

 物語にある食事という行為がどんなものか、私は知らない。調べてみると、人間はもともと三大欲求なる性質を持ち合わせていたらしい。それがどんなものかはわからない。感触とはまた別物のようだ。精神的欲求は、身体に依らないと思っていたが、過去の人にあって私にはない以上、そうとも限らないらしい。

 私にもそんな過去があっただろうか。人間だった頃の過去が。私は思い出そうとして、思い出せなかった。

 人間だった頃の記憶が、どこにもなかった。



「生きた心地がしない?」同僚は驚いた表情で言った。「お前、引き継ぎメンテナンスした方が良いんじゃないか?」

「やっぱりそうなのかな」

「そうだろ。何があったのかわからないが、生きることに生きた心地も何もないだろう。感触機能だって最近になって実装されたんだぜ。あ、まさかお前、初めての感覚に驚いて精神が麻痺したな? その気持ちはわかる。あれは確かに──」

 長い話が始まりそうだったので、引き継ぎするからと言って、医療室へと向かった。目を瞑り、医療室の扉を想像する。三回ノックすると、扉の奥から返事が聞こえた。ノブに手を掛け、部屋に入る。その頃には、部屋の中にいるという実感に包まれていた。

 シックな色調とレコードから流れるクラシックが、私の心を幾ばくか落ち着かせた。扉に入るとすぐ目の前にソファが目に入った。小さな長テーブルを挟んで二つ置かれている。左を向くと、デスク前に医者が椅子に腰掛けていた。立ち上がると、恭しくソファに座るようにと勧める。

「かけたまえ」医者はずれた眼鏡を外すと、レンズを拭きながら、「今度は何があったのかい?」

「先生、私は違和感を感じるんです」

「違和感とは?」

「小説を見るに、昔の人間と今の私たちは全くの別物のようで──欲求なんてものが、私にはない。私は本当に生きているのでしょうか。それが不安なんです」

 医者は興味深そうに私を見た。

「君はなかなか面白いね。それは前時代に良く見られた不安症だが、ふむ。哲学の話がしたいのかい?」

 私は被りを振って否定した。

「違います。欲求を持たないものは、果たして人間と言えますか」

「君は人間なのかい?」

 私は絶句した。「違うのですか」

「いいや、違くないとも。でもね、君の悩みは少しばかりベクトルが違うように思う。君は人間が猿だった頃──いや、果たしてそんな過去があったものかは疑問だがね──を振り返って、今とは違うと不安になるのかい」

「いえそれは──」

 違う、と言いかけた私を遮って医者は続ける。

「君はね。自分の過去がないことに違和感を感じているんだ。君の深層意識である私が言うのだから間違いないよ」

 医者はそう言い切った。

「君のルーツである人間の肉体は、確かに実体として存在するね。でも、君は複数の身体を意識だけで行き来できる。そんなじゃあ、自分の身体に愛着なんて湧かないから心許ない気持ちになるのはわかる。それに、過去を思い出せないことに不安になるのもわかる。

 まあ、君の記憶がなくなったのは私も一枚噛んでいるから、その理由を説明しようか。というより、何度も説明したと思うのだがね」

 医者は私の顔を覗き込む。

「記憶喪失の原因は、引き継ぎメンテナンスによる副作用だよ。まず、引き継ぎの仕組みを君は説明できるかい」

 私は考えた。

「身体を行き来する際の、意識の表出を滞らないようにするための作業、でしょうか」

「あながち間違いでもないね」医者は微笑む。「そういう意味での『引き継ぎ』って名前でもあるし。でも、本質としてはちょっとだけ違う。意識の移動を円滑にするのではなく、新たな身体に意識を植え付ける作業のこと。つまり、上書きだね。トンネルの中を意識が通るのではなく、意識自体を増やすこと」

 私にはうまく理解出来なかった。

「どういうことです? 意識も多くなるってことですか」

「そう。簡単に言うなら、新しい身体に電池を取り付けることかな。そうして漸く動けるようになる。同じ身体で引き継ぎをすると、古くなった電池を入れ替えるんだ。君という意識は、この電池と同じだね。消耗品ということだ」

「なら私は何人もいる、ということですか」

「いや、君は一人だけだよ。ただ、身体が多いというだけでね。君の記憶喪失は、その身体が複数あることに問題があるんだ。記憶は意識に依らない。何故なら、身体の方に記憶版メモリーチップが埋め込まれているからね。だから、意識を上書きしたところで君の記憶がねじ曲がるはずはないのさ」

 寧ろねじ曲がるのは意識の方かな、と医者は笑った。

「いいかい。意識改革──或いは学習かな──なんてものは、全て経験によって起こるものだろう。友人に殴られたから距離を置こうだとか、あの時に失敗したから今度はやり方を変えよう、とかね。それら全ては記憶が保持されるから、学習に繋がるのさ」

「でも、記憶自体を引き継ぐわけではないんですよね?」

「そういうことさ。理解してきたようだね」

 医者は満足そうに頷いた。

「記憶が別々なのはわかりました。でも、それって不自由ではありませんか?」

「そうかい? 公私混同しなくて済むじゃないか。それに、君は赤ん坊の頃のことを覚えていて良いことがあるとでも? 覚えていたいものとそうでないものは、オフィスから自宅にメールで送るなり、日記をつけるなり、どうとでも出来ることだよ」

 確かにそうなのかもしれないが、どうにも納得できない。私は唸った。

「なら、私は過去の記憶をどこに置いてきてしまったのでしょうか」

 医者は目を丸くして、大袈裟に驚いた。

「それなら目の前でぷかぷかと浮いているじゃないか」



 人間オリジナルとしての肉体に戻る方法はあるのだろうか。私は本体それを見つめながら、物思いに耽っていた。目の前に過去の記憶が眠っているのだ。しかし、それを取り戻す方法がない。

「君は記憶を失うかもしれないことを納得済みで、新しい身体に、この街に移住してきた筈なんだがね」

 医者は苦笑していた。

 人間の肉体に戻ることはできるかと聞いたが、医者は首を横に振って、「できないことはない」と断言した。

「女王陛下の承認が必要なんだ。だが、彼女と連絡を取ることなんて難しいことだよ」

 自室に戻ってからと言うものの、私は女王陛下と会うコンタクト方法を考えていた。電話が鳴った。出勤の時間かと思い意識内予定表スケジュールを見たが、どうやらそうではなかった。或いは同僚からか、と番号を確認すると、そういう訳でもないらしい。誰からだろうと思いながら、受話器を取る。

「貴方は過去のことに興味がおありのようね」

 それは聞き慣れた声だった。外を出歩けば何時でも耳にする──。

「女王陛下」

 その人だった。

「ええ。そして貴方は善良なる市民。今から会いに行っても宜しい?」

「え、ええ」私は困惑した。「大丈夫です。何処で会いますか」

「では、貴方の深層意識にアクセスしますわ。そこに緑色の扉を作りますから、それを目印に来てくださいね」

「わかりました」

 受話器を置いて、私はソファに座った。目を瞑り、目蓋の裏を見つめる。真っ暗な世界に、緑色の扉を想像する。見えた。私は現れた扉の元へ向かう。開けようとして、私は手を止めた。

 ──本当に開けても良いのだろうか。

 私は一体何を迷っているのだろう。何故躊躇う必要があるのか。女王陛下が会いたいと言うのだ。了承した以上は会わなくてはならない。

 しかし、私はその先で何をされるのだろうか。どんな会話をするのだろうか。何故、会いたいと言われたのか……。

 邪念を振り払うように、意を決して扉を開けた。

 窓のない殺風景な部屋だった。

 一人掛けのソファが二つ向かい合うように置かれている。女王陛下は、私に背を向ける形で座っていた。回り込んで、空いたソファの前に立つ。

「こんにちは」彼女は子供のように微笑んだ。「突然呼び出したりしてごめんなさいね」

 女王陛下は私に座るよう手で示し、その通りにした。

「いえ……。どうして私を呼んだのですか」

「貴方が人間の肉体に戻りたそうだったから。……ごめんなさいね。勝手に覗くような真似をして」

 はしたないわ、と女王陛下は恥ずかしそうにはにかんだ。

「あの、駄目でしたか?」私は恐る恐る聞く。

「いいえ、そんなことはないのよ。ただね、ちょっと興味深いなって思って。ほら、人形の身体になってから便利になったでしょう。それなのにどうして帰りたいと思ったのか」

「貴方も人形なのですか」

「違いますわ。私は人間です」

 私は面食らった。

 人形でない身体を持つだなんて、想像できないことだった。

「肉体はどのような感覚なのですか?」

「面白い質問ですね。貴方は今の身体の感覚はどのようなものですか?」

 私には答えられない。

「そうですね、貴方とは同じではないにせよ、感覚としてはそう変わらない筈です」

「そうなんですか?」

「ええ、そうよ」女王陛下は子供を諭すように優しく言った。「貴方の悩みは肉体の違いのせいではありませんよ。そうですね、この街の理屈システムに問題があるのかもしれませんね」

「それは一体──」

「貴方が最初に違和感を覚えたのは何が理由ですか?」

 その理由を必死に思い出す。

「今貴方は記憶から答えを探していますね。思い出す、という行為は──人間ではなく人形は──どのような方法メカニズムで行なっていると思いますか?」

「埋め込まれた記憶版メモリーチップから、答えを読み込んで探している……のでしょうか」

 女王陛下は頷く。

「そうです。それを貴方は医者から聞いていましたね。違和感を覚えた理由は、小説を読んで今の身体との差異を知ったから。そして、肉体を持っていた頃の記憶がないことに気がついた。そうですね?」

 その通りだった。私は首を縦に振った。彼女は私のことを全て知っているらしい。女王陛下は私の理解がどこまで及んでいるのか、会話が行き違わないように確認しているのかもしれない。

「女王陛下、肉体に戻ることはできますか?」

 女王陛下は哀しそうに目を伏せた。「それはできません」

「どうしてです」

「貴方の帰りたいという肉体は、私自身だからです」

 女王陛下の言っている意味がわからなかった。

 私は自分がおかしくなったのかと思ったが、どうやら私は正気なままのようだった。

「それは、どういうことなのですか……? なら、部屋に置かれたあの人間は何なのですか」

 私の怯えは何処にも存在しないかのように、明瞭はっきりとした発音で口から言葉が出てきた。そう認めてから、心の荒んだ部分が少しだけ和らぐのを感じた。

 女王陛下が赤い唇を開く。

「あれはサムバディでもありません。単なる死体ノーバディに過ぎないのです」

「じゃあ、あれは何のためにあるのです」

「私が皆のことを忘れないためです」

「女王陛下が、皆を……?」

「そうです。彼らノーバディは元々、私の友人や家族でした」



「かつて、遺伝子選別がありました。優れた遺伝子を持つ人間だけを残して、完璧な社会を作る。そんな幼稚な計画が立てられ、想像だけに留まれば良かったものを、あろうことか実行されてしまったのです。何万人もの人が死にました。人間の選別は、比較している以上は限りがありませんでした。やがて、それが蠱毒にも似た状況を作り上げたのです。

 遺伝子を調べ、残す人間を選んだのは私たち人間です。AIなどではありません。私たちは、私たちの意思で、排除を繰り返してきました。それは闘争心故なのか、それとも多数派に所属したいと言う欲求から少数派を弾圧する性質からなのか。それはわかりません。ただ一人、私だけが残ったのです。この計画には、一定の人数を確保する旨が規定されていましたが、いつしか、"完璧な人間であれば交配する必要はない。故に、頂点に二人も必要ない"という常識が生まれ、選別は殺し合いへと変わったのです。

 いえ──そんなに物騒な話ではありませんでした。どちらかといえば、積極的に人を殺した訳ではありません。ただその時には人の死があまりにも普通だったから、自分の遺伝子が劣勢であると知った人が、自殺していくようになっていたのです。

 自ら消えていくのですよ。考えられるかしら? より良い社会のためであった筈が、遺伝子による比較で絶望してしまう。……生きる気力が失われてしまうのです。そうして、この社会には私一人だけ。でも、それを社会と呼べるかしら。

 社会と呼ぶには複数人必要だった。だから、人の身体を作った。それが、"人形あなたたち"です。そこに私の意識を植えつけて、それぞれの生活をさせたの。人は50%を遺伝子に支配されるけれど、残りは環境の因子によるもの。だから、私が幾らいても、それは別人と変わりないのね」



 女王陛下は部屋の中に水槽を作り出した。その中には人間──だったもの──が浮かべられている。それを見て、私は何の思いも心に浮かばなかった。

「何故、死体をそのままにしていると思いますか。それはね、私が思い出に浸るためでもあったんですよ。でも、私はまだ遺伝子に囚われていたのかもしれません」

「囚われていた?」私は先程から聞き返すことしかできない。

 女王陛下が口許を緩めた。

「人間の身体には、遺伝子が刻み込まれていますでしょう。それは、死体も同じ。わざわざ培養液に浸けて、保管していたのですよ。他人の遺伝子は貴重ですから。特に、私以外に誰も居なくなったこの社会にはね……」

 女王陛下は水槽の硝子を外した。培養液がどぼどぼと音を立てて流れ出る。私は困惑した。

「出してしまっていいんですか」

「もう、いいのよ。こんなことをしても無駄でしょう?」

「でも、何かできるかも──」

「できたところで、どうするのです?」

 女王陛下は微笑む。

 私は黙った。

「此処にはもう、そんな技術はありません。たった今、それが失われたのです。そもそも、完璧な人間も社会も、存在なんてしないのよ。偶像に過ぎません。社会である以上、人の手がある限りは、それを楽園とは言えない。完璧な人間は他人と交配すると思う? ……するのよ。愛着があれば、そこに理性は存在しない。そもそも、理性があるからこんな社会が出来上がってしまった。

 だから『死んだ社会パーフェクトワールド』と成り果ててしまったのですね。結果として人類は──絶滅した」

 女王陛下が力を無くしたように、膝から倒れた。

「女王陛下!」私は駆け寄った。

「私は」女王陛下は虚な目を天に向けて、「何年もここで生きました。でも、今日でそれも終わり」

 女王の手を握るも、私には何もできない。

「"死"が完璧なら、永遠なんてないのね。自然に勝る楽園なんて──」

 女王陛下は微笑み、呼吸を止めた。


 途端に部屋が遠ざかり、強制的に深層意識から出された。私は自室にいた。水槽を見ると、そこは空っぽだった。

 同僚からメールが届いた。

「女王陛下が亡くなったらしい!」

 私はメールを読んでから、すぐに返信した。

「知っているよ」

 最期に女王陛下が話したこの秘密をどうすべきだろうか、私は悩んでいた。誰かに話すべきだろうか。いや、信じられないだろう。仮令たとえ、信じられたとしてもこの社会が崩壊してしまうかもしれない。

 彼女はどうしてこのことを話してくれたのだろう。自らの死期を悟っていたのだろうか。

 私はこの日、自分のルーツを知った。そして同時にルーツを失った。

 だが、このことを誰も知る必要はないだろう。創世記のアダムとイブが人類の始祖であるように、女王陛下が人形達の始祖であった、というだけの話だ。

 なら、このままでも良いのかもしれない。

 何事もなく、オフィスに戻って仕事に励むのだ。作業中は時間の流れなど気にしなくて済む。

 それに、オフィスに残された身体には女王陛下との会話が記憶されていない。だから、日常に戻れることだろう。

 この秘密を知るのは内側プライベートの私だけだ。

 きっとそれでいいのだろう。

 目を瞑り、女王陛下マザーのことを考えた。

 暗い目蓋の裏に、彼女の微笑みが見えた。

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