△5四 老腕

「何を考えても推測の域を出ないなぁ」

「そりゃそうだよ。郷田さん、気にする必要ないぜ。後は警察の仕事だって言ってるのに、こいつ事件のことばっかり考えてるんだ。茂木さんの顔も知らないのに、よくそこまで入れ込めるもんだよ」

「そういうつもりは」


 言いかけて、その通りしれないと思いなおした。僕は被害者である茂木さんに会ったこともない。ただ目の前に投げかけられた状況を、謎だと見なして呻っているにすぎないのだ。


「いえ、そうかもしれません。顔も知らないのは確かですし」


 考えてみれば滑稽な話かもしれない。僕は自嘲気味に言った。


「顔といえば、茂木さんの写真を警察が欲しがってたな。直近のものがないから提供してくれないかって言われなかった?」

「ああ、俺もそれ言われた。対局した時の途中図とか詰みがある局面の写真ならあるけど、対局者の写真なんて撮らないって言ったら、刑事さんがっかりしてたよ」

「だよねぇ。別に肩を組んで集合写真を撮るでもなし、僕のスマホのフォルダも将棋盤しかないよ」

「実戦で詰将棋的な局面が出ると、撮るよな。映えるっていうか」

「意外な次の一手問題みたいになる時とかねぇ」


 高槻さんと郷田さんが笑い合う。これは将棋を指す人間全般に見られる傾向なので僕も同意するところだ。惜しむらくは、局面の写真映えは一部のマニアしか興奮しないので、世間の関心が薄い。


「あ、そうそう、さっき話に出た将棋仙人と茂木さんが指していた時の写真があってさ、それに茂木さんの腕が映ってたんだ。それを提供しましょうか、って言ったら断られちゃった」

「燃えちまってるからなぁ」

「映っていたのは腕だけですか」

「そう。腕だけ」


 顔写真ならともかく、焼け焦げてしまった腕の写真では警察も活用のしようがない。担当刑事の苦労が偲ばれる。けれど、僕にとっては被害者が現実に存在していた貴重な証拠に思えてならなかった。


「どんな写真ですか?」


 顔すら知らない被害者が生存していた頃の写真を見れば、一方的な後付けとは言え、生きた茂木さんのことを知ることが出来る。それは、事件に対する僕の野次馬的な推理を少しでも正当化する理由になるかもしれない。深層心理に、そういう打算がある気はしていた。それでも、僕は動機の醜さに目を瞑り、郷田さんにその写真をせがんだ。


「ちょっと待ってね、ええと、かなり前なんだ。このスマホを買ったばかりの頃でね。暇つぶしに公園に来たら、将棋仙人と茂木さんだけだったんだよ」

「いいなぁ。俺も現役の将棋仙人と指したかった」


 まだ言っている。心残りではあるらしい。


「将棋仙人がいた頃は今よりもっと、個人同士の繋がりだったからね。人が少なかったから、いつでも指せたんだけど」

「将棋仙人がいつもベンチで詰将棋してたんだろ。いいよなぁ、ゲームの固定シンボルキャラクタみたいでさ、話しかけたらバトルできるんだ」

「将来は、ARとか位置情報を使って棋力を自分の後ろに表示したりして、道端の人と野良試合ができる未来がくるかもしれないよ」

「最高じゃないか」


 そんな冗談に高槻さんが感動している間に、郷田さんは写真を見つけたらしく、あった、と言ってスマホを差し出してくれた。画面には、一局の将棋が映されている。真上から撮影したのだろう。盤を挟んで、上部にも下部にも、だらりと下がった老人の腕が入り込んでいた。どちらも微細な皺が刻まれ、骨に皮が張り付いたような腕だった。


 盤上は、銀冠が崩された時のような、独特の形をしている。玉将は三段目に逃げていたが、馬と龍に包囲されて逃げ場は少ない。ただ、攻めている側も持ち駒が少ないので、途切れたら強力なしっぺ返しを食らうだろう。詰むや詰まざるや。そんな状況だった。


「上の方に映っている腕が、茂木さんですか?」

「そうだよ。よく分かるね」

「将棋仙人の方が強いと聞いていたので」


 説明は省略したが、郷田さんは特に追求しなかった。

 通常の対局を中断してまで、第三者がいきなり真上から撮影するとは考えにくい。恐らく、感想戦か投了直後に撮られたものと推測できる。その上で、撮影にこの局面を選んだということは、この時点で詰んでいるか、あるいは、寄せの決定打があるのだろう。玉の一方は三枚穴熊で「Z」と呼ばれる、王手がかからない状況であることを踏まえれば、銀冠を崩されて不安定な王将の側が茂木さんだと分かった。


「私も見ていいですか?」

「ええ、どうぞ」


 黒木さんが興味を持ったらしく僕の隣に立つ。郷田さんが印籠のように掲げてくれたので、二人同時に見ることができた。


「普通の、お年寄りの腕だ」


 僕は呟いた。茂木さんの腕は枯れ枝のようで、節のように手首の骨が隆起して、手の甲から先は見切れている。幾つかシミがあり、体毛は薄い。


「ありがとうございました」


 僕が離れるのに合わせて、黒木さんも一歩引いた。


「もういいの?」

「はい。何というか、少しでも知れて良かったです」

「うん、そうだね、茂木さんもこのまま忘れられてしまったら悲しすぎる」


 郷田さんが言った。

 悲しい、のだろうか。殺されてしまった茂木さんが、どういう人物であったにせよ、もう悲しむことはできない。それができるのは残された僕たちだけだ。


「これからどうするんです? 指すんなら、俺とやりましょう」


 散歩をせがむ犬のようにストレートな誘いをする高槻さんだったが、郷田さんは微笑みを浮かべて首を振った。


「いや残念だけど、何となく見に来ただけだから。そろそろ仕事に戻るよ」

「そうですか。じゃあ、また次の機会に」

「ああ、楽しみにしてる」


 郷田さんがガードレールをまたぎ、運転手席に戻る。

 その姿を目で追っていると、郷田さんが扉を開け乗り込もうとしたその時、一筋の風が吹いた。開けっ放しだった助手席の窓と運転席の扉で空気の通り道ができたのだろう、運転手の扉から何かが軽いものが落ちた音がした。角度で見えなかったそれは風に吹かれて転がり、側溝にぶつかって止まった。


 ハンナさんがひょいとガードレールを飛び越えて、それを拾い上げる。

 紙屑だ。コピー用紙だろう。真っ白な、丸められた紙だった。


「捨てておきましょうか?」


 タクシーから逃げた紙屑を目で追っていた郷田さんに、ハンナさんが聞いた。


「いや、すまない。自分で処分するよ」

「そうですか」


 ハンナさんがタクシーに近付き、丸められた紙屑を手渡す。ガードレールの傍にいた僕からは、角度でよく見えない。


「私の母が、この会社のタクシーをよく使っています。もう少し頑張られては?」

「うーん、お客様の立場で言われてしまうと弱いな。検討しておくよ」


 ハンナさんと郷田さんとの短い会話が聞こえたが、意味がよく分からない。多分、あの紙屑を拾った時に、何か書かれていたのだろう。


 郷田さんは僕たちに手を振った後、すんなりと駅の方へ走り始め、やがて見えなくなった。


「将棋仙人は引退してるし、郷田さんとも指せないし、今日はついてないな」


 高槻さんがぼやく。両手の指を絡ませて上に伸ばしてから、僕たちの方を見た。


「仕方ない、お前らちょっと相手しろよ。遊んでやるから」

「いいですよ。今日の僕は絶好調です」

「私も、消化不良気味だから指したいです」


 事前に宣言していないものの、もしこれで一局でも勝てたらなし崩し的にバルトシュさんと喧嘩した真相を教えてもらえないだろうか。この時、うっすらとそんな邪な考えを抱いていなかったと言えば嘘になる。


 しかし、結論から言えば、そんな儚い希望は完膚なきまでに打ち砕かれた。


 僕と黒木さんとの二面指しで、五戦して全敗。二人合わせて十敗を記録してしまった。将棋素人のハンナさんにすら、圧倒的でしたね、と言わしめる程の実力差をみせつけられたのである。


 将棋が指せて機嫌が回復した高槻さんの高笑いを浴びながら、この日の僕たちは解散することとなった。

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