▲6一 自室

 雀の鳴き声で目が覚めた。といっても朝ではなく昼の時間帯だ。


 昨日の道徳公園での運動が予想外に疲労を蓄積していたらしく身体が重かった。半日動き回っただけでこれとは、我ながら運動不足も甚だしい。ジョギングでも始めようかな、と布団を被りながら思った。ここ半年ぐらい同じことを思っている。このまま慣性によってどこまでも思い続いていく予感がある。いずれは信念と呼べるかもしれない。


 ベッドから身体を起こし、洗面所へ移動した。顔を洗いながら直前まで見ていた夢の内容を振り返ろうとしたものの、煙のように意識の網目から抜けてしまって何も思い出せなかった。黒くて粘り気のあるものが近くにあって、それを怖がっていた気がする。だが、もはやディティールはなく、朧げな輪郭だけが残っていた。


 夢というのは揮発性が高いのである。しばらくの間は形を維持していても、次の瞬間には霧散している。睡眠中に記憶を整理する際の副産物が夢だと聞いた事があるから、メインメモリを使用せず、キャッシュで処理しているのが原因かもしれない。だから意識を再起動すると消えるのではないか。

 そんな雑多な思考さえも、顔を洗い終わったあたりで忘れてしまう。もしかしたら、毎朝顔を洗いながら同じ発想を抱いては、繰り返し忘れているのかもしれない。


 トーストを食べるためにリビングへ行くと、母が出掛ける寸前といった格好で冷蔵庫からお茶を取り出すところだった。テーブルの上は綺麗に片付けられている。父も兄も既に外出したようだ。妹は恐らくまだ寝ている。


「今起きたの」

「うん。食パンある?」

「まだ残っとるけど、賞味期限近いから全部食べちゃって」

「分かった」

「お母さん、料理教室行ってくるから。枇杷子が起きたら何か作ってあげて」

「分かった。行ってらっしゃい」


 二枚だけ残された食パンをトースターに放り込む。母が慌ただしく出ていった後、しばらく椅子に座ってぼーっとしていた。テレビを見たり、タブレットで動画を探す気分でもない。

 焼き上がったトーストにブルーベリージャムを塗って、パン屑が落ちないように慎重に周りから齧っていく。中心の最も贅沢な一口を頬張るあたりでそろそろ本格的に目を覚まそうと思い立ち、日課の将棋アプリで続けて三局対戦した。2勝1敗。今月の勝率は6割2分なのでまずまずだが、昇段は遠い。


 昨日、高槻さんに五連敗したのを思い出す。

 圧倒的だった。

 相掛かりは端攻めから崩壊し、居飛車穴熊は姿焼きにされ、左美濃は跡形もなく粉砕、角換わりは同型と思えぬほど一方的に攻め込まれて、矢倉に至っては「矢倉そのものは知らないがお前の矢倉はもう終わっている」と言い渡された。


 隣を見ている余裕はなかったが、黒木さんも似たようなやられ具合だったのだろう。帰りの電車では二人とも落ち込んでいた。ハンナさんが気を遣って明るく振る舞ってくれたのが救いだったが、がっかりさせてしまったかもしれない。少なくとも、正面突破は厳しいと彼女にも理解できただろう。かといって、これ以上婉曲に情報収集を続けても高槻さんの口からバルトシュさんとの喧嘩の原因を聞き出すのは難しそうだ。第一、昨日本人に直接宣言されている。


 勝ったら教えてやる。

 負けたら詮索するな。

 それは事実上、教える気がないということだ。とはいえ、昨日の収穫がなかったわけではない。高槻さんの個人的な事情を幾つか知れたし、何より、喧嘩の怒りが継続していないとはっきり分かった。高槻さんの態度からして、もうそこまでの感情は持っていない。ただ部外者に触れられたくはない。そういう印象を受けた。


 誰だって、感情なんて長続きしない。バルトシュさんの方は不明だが、お互いに同じようなら、きっかけが必要なだけかもしれない。今や仲違いしているのは喧嘩による感情ではなく、喧嘩したという記憶に依って、その状態を継続しているにすぎないのだ。


 だから、仲直りするきっかけがあればいい。

 だが、そのために何をすればいいのか。結局は元の場所に行き着く。原因を知らなければ、作戦の練りようがない。将棋部全員で無理やり二人を同じ部屋に押し込んでも、関係はこじれてしまうだろう。


 やはり勝つしかないのか。遥か格上の指し手を相手に。


 そこで、僕はふと自問した。勝敗の見通しはともかく、僕は何で挑むべきか。昨日は五戦とも意識して戦法を変えたが、高槻さんとのここぞという一局で選ぶべき戦法は何か。


 居飛車にしても作戦は無数にある。僕の得意戦法は角換わりの早繰り銀なのだが、問題は高槻さんも角換わりを僕以上に得意にしている事だ。研究量で劣り、棋力でも後れを取っているとなると、まともにぶつかってどうにかなるとは思えなかった。だからといって付け焼刃の奇襲戦法が通じる相手ではない。


「おはよ」


 不意にリビングの扉が開き、パジャマ姿の枇杷子びわこが現れた。酷い寝癖で側頭部の髪が逆立っている。


「まず顔を洗ってきなさい」

「んー、牛乳が飲みたい気分」


 注いでおいて、と言い残して枇杷子は洗面所の方へ行った。今頃起きてくるとは、全くだらしない。もう中学二年生なのだから、己を律する意識を持って生活すべきではないか。末っ子だから両親も兄も甘やかした結果、あんな風になってしまったのである。僕だけはせめて妹のためを思い、厳しく接しようと心掛けている。


 僕は溜め息をついてから冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに注いだ後、フルーツグラノーラとサラダボウルをテーブルに置いておいた。一応のことを思い、卵焼きは食べたいかと訊いたら、ひははい、と声が返ってきた。要らないなら余計な事はするまいと卵を戻して、元の席に着く。


「あー、さっぱりした」

「洗い物まとめてやるから、早く食べな」

「ん。お兄は何してるの、テレビも付けないで」

「いや、別に。考え事」

「ふうん」


 そっけない相槌が返ってくる。会話はそれで終了し、僕は椅子の背もたれに体重を預けて目を瞑ったのだが、思いがけず枇杷子が話しかけてきた。


「それで、何を考えてたの。考えなきゃいけないような悩みがあるんでしょ」

「必ずしもそうとは言えないと思うけど」


 僕の反論に枇杷子は反応しなかった。フルーツグラノーラを食べながら、スマホを流し見ている。僕の悩みに大して興味はなさそうだ。単に暇なのだろう。


「その、特定の相手に勝負を挑みたいんだけど、向こうが一枚も二枚も上手で成功しそうにないんだ。それでもやらなきゃいけないなら、どうする?」

「何それ、抽象的すぎ。誰かに告白でもすんの? フラれる予定なら、どういう感じでフラれたかだけ後で教えて」

「そうじゃない。そのままの意味だよ。将棋の話」


 なんだまた将棋か、と枇杷子が呆れた声を出した。妹は将棋をやらない。正確には僕らの前で一切指そうとしない。父と兄と僕が必死で教え込もうとした結果、早い段階で将棋アレルギーを発症し、遊んでくれなくなった。


「苦手な戦法とかないの」

「僕のレベルだと分からないぐらい強い」

「お兄って結構強いんじゃなかった?」

「上は果てしないんだよ」


 自分で言っておいて、息が漏れた。将棋は、僕が太刀打ちできない高槻さんが、道を諦めざるをえない程の強敵が犇めき合い、そんな強敵たちを食い物にする怪物が暴れ、そんな怪物たちを倒してしまうイレギュラーが現れ、そのイレギュラーらを更に踏み越えていく天才が降臨して、そんな天才同士が日々殴り合いを続けている。世界観はバトル漫画に近い。


「んー、相手の弱点を探すとか」

「見る限り弱点はないんだ」

「何それどうしようもないじゃん」

「だから困ってるんだよ」


 スマホを触りながら、枇杷子はうーんと呻った。


「その人が負けた棋譜でも集めたら?」


 なるほど、と思った。妥当な意見だ。というか、一番真っ当な考え方と言える。高槻さんといえど無敵というわけではないと黒木さんも言っていたではないか。


「そうしてみるよ、ありがとう」

「別に。洗い物よろしく」


 素っ気ない態度を維持したまま、枇杷子は自分の部屋に戻った。どうやら、洗い物をさせる対価として相談に乗ってくれた、ということらしい。意外にも的を射たアドバイスだった。悩みを人に打ち明けて得られるものは、話してすっきりしたという開放感だけだと思っていたのだが、案外そうでもないらしい。まさか女子中学生に教えられるとは思わなかった。


 しかし、折角方針を得られたというのに今日は日曜日だ。将棋部に公式戦の棋譜を見に行くことはできない。皿を洗いながら、明日にするか、と思った所で僕は自分が一枚だけ目的に合致した棋譜を持っていることに気付いた。

 ハンナさんに送ってもらった、高槻さんとバルトシュさんが喧嘩した原因と思しき棋譜の画像がスマホに入っている。善は急げとばかりに皿の水をきり、自室に戻って四つ足の将棋盤に駒を広げた。座布団を敷き、脇息を横に置いて、スマホで画像を見ながら棋譜を並べる。



▲26歩△34歩▲78金△84歩▲76歩△32金

▲25歩△85歩▲58玉△86歩▲86歩△86飛

▲24歩△24歩▲24飛△62玉▲38銀△84飛

▲22角成△22銀▲66角打△89飛成▲22角成△15角打

▲28飛△27歩打▲27飛△26歩打▲26飛△26角

▲32馬△44角▲21馬△86桂打▲43馬△78桂成

▲44馬△79龍 まで



 この将棋は、先手・二条バルトシュの勝利で終わっている。何故か高槻さんが相手を待たずに自身の最終手の後に投了している不審な点はあるものの、それは将棋自体には直接関係がない。指された手が客観的に記録されたものが棋譜である以上、この将棋において高槻さんが敗北した事実に変わりはない。


 たった三十八手なので、すぐに並べ終わった。

 やはり、非常に激しい。主な原因は十六手目の△6二玉だろう。この場合の王将の置き場は幾つかあるが、後手5二玉なら中住まい、4一玉で中原囲いで穏当に固められる。4二玉も金と連結し将来右桂の跳ねにも備えて指しやすい。

 だが、高槻さんが指した手は自陣の左辺を全て捨てて王将を右に逃がす6二玉だ。ない手ではない。プロでも実践譜はあるはずだ。何局か似たようなのを見た覚えがある。この手の意味するところは、つまるところ、左辺は全部やるから、代わりにお前の左辺は全部よこせ、である。一直線に駒を取り合えば、そうなるしかない。実際、この将棋はそうなった。


 しかし、注目すべき点は別にあった。激しさは過程でしかない。どうやっても、僕には理解ができなかった。最終手の△7九龍が指された局面を眺めて、盤を中心に回ってみる。それでも、やはり同じだった。


 局面は投了図。


 投了するような局面なのか……?


 バルトシュさんの先手玉には必至(次に詰む状態)が掛かっている。シンプルに7九の龍を6八に動かせば詰みだ。持ち駒を打って危機を防ぐなら、例えば▲9五角打? いや駄目だ、△6八飛打で詰む。持ち駒を消費しての我慢は盤面からして現実的でない。少なくとも先手は玉の逃げ道を作るか、4八玉で逃がすかしなければならない。あるいは、攻めて攻めて後手の持ち駒を使わせてから逃げるか。


 それとも、まさか詰みがあるのか。

 先手の持ち駒は歩兵5枚、角・金・銀・桂が1枚ずつ。

 後手の持ち駒は飛・金・銀が1枚ずつ。


 僕は盤の前であぐらをかき、脇息に肘をついて掌に顎を乗せた。視点は先手側である。即詰みがあるなら、守る必要は全くない。▲5六桂打ちから△7二玉と逃げる。後手はそれ以外なら4二金で詰むので、それしかない。それから、8三に何か放り込んで、同玉から歩打ちか? ▲8三角だと△8二玉で逃げられて続かない。銀なら、同玉の一手、▲8四歩で△9四玉……無理だ。歩で叩いても取ってくれるとは限らない。▲8三金からでも同じような手順で駒が足りない。


 ないか。駒を並べ直して、僕は再び盤上を睨んだ。

 いっその事、馬を捨てていきなり▲5三馬でどうだろう。いやいや。左辺が広すぎる。とてもじゃないが、追いきれない。やはり諦めて▲4六歩で逃げ道を作って上部脱出を目指すのが妥当か。これなら、まだまだ勝負の行方は分からない。3四の歩を取ってしまえば入玉が視野に入るし、後手は歩切れなので攻めも守りも難しい。△3五銀で馬が逃げて――


 一通り考えたが、結論は出なかった。逆に言えば、結論が出ないことが分かった。難しい形勢だ。どちらにも傾きうる。だからこそ、どうしてここで投了なのかが分からない。棋譜として中途半端なのだ。どちらが有利であっても、仮に詰みがあったり詰めろから逃げられないと匙を投げたとしても、まだ少し指せる。いや、人間であれば指すのが心情というもの。


 終盤は、たった一手の悪手で形勢が塗り替わる。


 受けの妙技から対戦相手のミスを誘い、その地位を盤石のものとした大山康晴十五世名人は「人間は必ず間違える」との言葉を残している。僕から見れば神様のような、タイトル戦に登場するプロ棋士ですら間違えるというのに、ここで高槻さんが投了した理由は何故か。


 気付けば僕は、対高槻さんの研究というより、この棋譜の不可解さに意識を集中していた。


 投了してしまえば、その将棋は終わりだ。


 この対局に重要な意味があったなら、尚更粘るべきではないのか。


 もしかして、将棋を終わらせたかった?


 例えば時間に追われていて……いや、二人は日にちと場所を後輩たちに隠してまで対局に臨んでいるのだ。棋譜を記録した立会人も含めれば三人で集まっている。予定が変わったなら切り上げればいいし、それにしたって喧嘩に発展する理由にはならない。


 そうだ。立会人がいた。ハンナさんが言うには、筆跡からして、この棋譜を書いた人物はバルトシュさんではない。高槻さんの字とも異なる。二年生は事情を知らないのだから当然外れる。二年生が見ても誰々だとすぐに判明しなかったので、卒業生や出入りしていた常連の字とも異なる可能性が高い。


 けれど、その程度は筆跡を意識して変えれば済むことであって、排除する理由にはなりえないだろう。確かなのは、立会人は少なくとも棋譜を残しているのだから、将棋にある程度詳しい人物だということ。もし立会人の正体が分かれば、その人に聞けば喧嘩の原因はたちまち判明するだろう。


 僕は早速黒木さんにメールした。将棋部の棋譜を探せば、もしかして同じ筆跡の人物が見つかるかもしれない。筆跡を変えていたとしても、無意識の癖のようなものが見つかる可能性はある。悪くない線だ。ひたすら推論を重ねるよりも、確たる証拠を元に辿った方が真実に近づくだろう。


 思いのほか早く、黒木さんから返信が届いた。

 内容は非常にシンプルだ。


KUROKI:その前に、私が高槻さんに勝つ。

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