▲5三 運転
纐纈ハイツからの帰り道、交差点を曲がると道徳公園の木々が目に飛び込んでくる。歩道のガードレール脇にタクシーが停まっていて、高槻さんが運転手と親し気に話し込んでいた。まさかタクシーに乗ってこれからどこかへ行くわけでもないだろう。歩行速度は一定のままで近付くと、高槻さんが僕たちに気付き、運転手に何か告げた。
「やあ、君たちがタカちゃんの後輩かい?」
白い運転帽を軽く上げタクシーの運転手が挨拶をしてきたので、僕たちも挨拶を返す。運転手は優しそうな壮年の男性で、郷田と名乗った。白髪交じりのオールバックは綺麗になでつけられ、日焼けして肌つやは良い。もしタクシー会社の制服を着ていなければ、中小企業の社長に見えただろう。
「この人がさっき池さんが言ってた、将棋仙人以外で茂木さんに安定して勝てる公園のメンバーの郷田さんだ。タクシーがあったからもしかしたらと思ったけど、大当たりだな」
「懐かしいねぇ将棋仙人、ここ数年見ていないけど。雁木が強かったなぁ」
「さっき自宅に行ったんだよ。脳梗塞で、もう将棋は引退したんだと」
「そうか、残念だな」
空に目をやって、郷田さんは静かに言った。
「郷田さんはな、アマ竜王の県大会優勝に限りなく近かったんだぞ」
話題を変えるためだろう、唐突に高槻さんが僕たちに向けて言った。アマ竜王戦の県大会に出るには、まず地区予選を勝ち抜く必要がある。その地区の将棋自慢が集まる予選を勝ち抜いた人間だけが集まるのだから、県大会は更に熾烈だ。そこに出場経験がある時点で、郷田さんの棋力はかなり高い位置にあると予想できた。
「決勝トーナメントの一回戦で優勝した人に当たっただけだよ」
「いやいや、そこで勝ってたら優勝してたかもしれない」
「負けた人は皆そう言うんだ」
郷田さんは軽快に笑った。それから思い出したように肩を回し、背筋を伸ばす。骨が鳴り、思わず漏れた声には疲労の色が多分に含まれていた。
「なんか疲れてるな、郷田さん」
「いやぁ昨日酷い目にあってねぇ。ほら、茂木さんの事件があったろ。それでずっと警察から質問攻めさ。茂木さんに関するどんな細かいことでもいいからって言われてもねぇ、将棋の内容ぐらいしか思い出せないから参ったよ」
「うちの高校にも来たぜ。すぐ帰ったけど」
「そりゃタカちゃんは高校生だもの。一通りの確認だけさ。こっちはあからさまに疑われてねぇ、ドライブレコーダーを提出してやっと解放されたんだ。今頃、僕の車内カラオケが署内に響き渡ってるはずさ」
郷田さんは大きな欠伸をして、目に涙を浮かべた。
「事件のことを聞いた時は驚いたけど、全く、死者を悼む暇すらなかった。まぁ茂木さん、天涯孤独だから葬式もないし、そもそも住所を知らないけどさ。ただ何となく、将棋仲間だし、居てもたっても居られなくて公園に来たんだ。さっき池さんと舟橋さんにも会ったよ。ツッチーとか東海林さんも明日あたり来るんじゃないかな」
「皆、考えることは同じだな」
仲間の喪失に対して出来ることは何もない。話を聞く限り、彼らはみな、年齢や職業を越えた、将棋を指す仲間でしかなかったようだ。そこでは将棋を指せること以外、名前などの最低限の情報しか必要とされず、時折挟まれる世間話で相手の生活を伺い知る程度の繋がりでしかない。だからこそ、やり場のない喪失感を補うために、かつて仲間がいた痕跡を求めて道徳公園に集まっている。
警察の立場からしてみたら、この手の趣味的なサークルは扱いにくい。まして、遺留品や手掛かりの少ない焼死体が、誰でも入り込める公園で見つかったのだ。その上、動機も、恐らくは焼く以前の殺害に使用した凶器も、身分証が残されていた理由も不明ときている。推測を組み立てる土台がなく、捜査令状や逮捕に踏み切る具体的な根拠が得られない。
「でも郷田さんが疑われる理由なんかあったのか?」
高槻さんが訊いた。
「もう半年も前だけど待った待たないで揉めたことがあってね。その話を、誰かがしたんだろうな。それにタクシードライバーは深夜早朝に働いてても不自然じゃないから余計に怪しまれたんだと思う」
「タクシーで死体を公園に運んで火を付けて、すぐに逃げられるってことか」
「そういうこと」郷田さんが頷く。「とりあえず犯人が死体を道徳公園の林まで運んで火を付けたのは確実だ。林では争った形跡がないと警察が漏らしてたから」
やはり、そうか。その警察の話を前提とするなら、僕の中で曖昧になっていた部分が補強できる。
もし殺害の現場が道徳公園なら、夜明け前の公園で争ったことになる。事前に準備していたにせよ、別件から突発的に殺害に発展したにせよ、高齢の老人を深夜の公園に呼び出す状況はあまりに不自然だ。怒声や悲鳴から近所の住人に通報されたり、目撃される危険性が高い。
加えて、咄嗟にエタノールのような液体燃料を準備できるとは考えにくかった。一人分の範囲が燃えていたなら、車のガソリンでは火力がありすぎる。使用されたのは灯油やエタノールだろう。
どこか別の場所で殺し、公園に持ち込んだのだ。死体を燃やすために。
「夜明け前とはいえ、公園なんて不特定多数が出入りする場所でよくそんな危ない事したよな。見つかったら即アウトだろ」
「犯人にとって、それが一番のリスクだったと思うよ。でも、結局見つかっていない。土地勘があるのかもねぇ」
目撃情報の収集は、警察が最優先で行っているだろう。しかし、現在のところ発表や報道はない。情報を伏せているのかもしれないが、表向きは誰一人犯人の存在を目撃していない。
「林のエリアは池もあるし、釣り人の格好をしてクーラーボックスか何かで運んだのかもしれません」
高槻さんたちの会話を聞きながら黙っているのも妙な気がして、僕はそれらしくコメントした。
「そうかもしれない」郷田さんが首肯する。「流石に直接おんぶして林まで持っていくわけにはいかないからねぇ。登山のリュックでもいいし、まぁ最悪段ボールで運んだっていいんだ。早朝に大きな箱を運んでいる人がいたって、まさか死体が入っているとは誰も思わないさ」
「そう考えると、郷田さんドライブレコーダーあって良かったな。なければ容疑者にされてずっと拘束されてたかもしれないぜ」
「本当にねぇ、技術の進歩様様だよ。あの時間帯は金山と栄の往復ばかりで道徳周辺
からは遠かったんだけど、誰かが証言してくれるわけでもないし、アリバイがなければ危なかったなぁ」
道徳駅から金山は地下鉄で五駅ほど離れている。交通量の少ない早朝ならば二十分分あれば行き来できる距離だ。タクシーといっても常に走行中ではないから、邪推するなら休憩時間に抜け出して他の車で移動すれば遺棄と着火は可能と言える。
しかし、想像できるのはそこまでだ。警察は実際にドライブレコーダーの中身を確認している。その上で、公園での作業や人目を避けて行動することを踏まえて、郷田さんの犯行は時間的に困難だと判断されたのだろう。第一、犯行が可能であったところで死体を焼く理由が全く思いつかない。
「犯人は、どうして死体を焼いたんでしょうか」
気付けば、声に出していた。
「茂木さんの死体に、何か犯人の証拠が残っていたのかもしれないよ。首を絞めた時に抵抗されて皮膚の一部が爪の間に入ったり、髪の毛を掴まれて抜けたり、そういう自分の痕跡が残るのを恐れたんじゃないの」
確かに、それは妥当な考え方だ。自宅で死体を保存できず、身近な場所に捨てた。痕跡が残っていそうだから燃やした。それだけの事なのかもしれない。しかし――
「犯人は茂木さんの身分証を置いていったらしいんです。見つかりたくないから死体を焼いたのに、被害者の身元を明かしてしまえば容疑者の候補を絞る手掛かりになるわけで、行動がどうも矛盾している気がして」
「無差別殺人なら、最初から容疑者から外れるんじゃないか?」
「その場合、今度は被害者の身元を明かす理由がなくなります。警察の手間を省いてくれる親切な無差別殺人というのも突飛すぎますし」
「それもそうか」
郷田さんは腕を組んでしばらく考えていたが、やがて溜め息を吐いて林の方を向いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます