△4四 関係
「矢吹お前、事件を解こうとしてるだろ。対局中に詰みが見つからない時と、同じ顔してるぞ」
「高槻さんは、犯人を捕まえたくないんですか」
「そりゃ、できるんなら捕まえてやりたいさ。あの爺さんは仲間だったからな。お前より直接会ってる俺の方が、思いは強いだろうよ。でもそれは警察の仕事だ。俺たちじゃない」
風が吹いて、遊歩道の木々がさわさわと音を鳴らした。
「詰将棋と実際の事件は違う。現実は不完全作ばかりなんだ。不要な駒も、余り詰めも、無駄合いもある。人を殺して焼いちまうような奴に、納得のいく指し手なんて見出そうとするなよ」
その言葉は高槻さんが自身に言い聞かせているように思えてならなかった。死体を焼いた相手の合理性を探る前に、既に殺人が合理的ではない。いや、犯人にとって合理的であったとしても、その理は僕たちの理が及ぶ境界を越えた場所にある。
高槻さんが言うように、茂木さんが焼死体になって発見されたと警察に聞かされて、一番ショックを受けたのは僕たちでなく高槻さんだろう。弔う家族も恨む相手もいないまま、故人の思い出を偲んで道徳公園を訪れた高槻さんについてきた軽率さを、僕は今更になって噛みしめた。
「すいません」
「別に怒ってるわけじゃねぇよ。お前らが来た理由も、大体分かるしな」
行くぞ、と言って高槻さんが歩道へ出た。追いついてきた黒木さんとハンナさんが不思議そうに僕を見る。
「何を話してたの?」
「大したことじゃないよ。現実は詰将棋みたいに綺麗じゃないって話」
「当り前じゃない」
「詰将棋が綺麗というのは、どういう意味ですか?」
ハンナさんが小首を傾げた。
「えっと、詰将棋って色々なルールがあるの」
歩きながら黒木さんが解説を始める。後ろで交わされる会話を聞き、見慣れない街並みを眺めながら頭の靄を晴らそうとしたが、僕の頭は堂々巡りを繰り返していた。初めて買ってもらったパソコンでマクロコスモス(千手を超える詰将棋)を演算させた時のハードディスクみたいに危険な熱を帯びて、止まろうとはしない。
「例えば、一手詰めの問題があったとして」
背後で二人が接近する気配を感じた。スマホの将棋盤を見せているのだろう。
「敵の王将が初期位置にあって、一つ離れた5三にこちらの歩が一枚。持ち駒が金将だとする。これだと、5二に金将を打って詰みでしょう?」
「はい、それなら分かります。頭金というのですよね?」
「そう。そんな用語を知ってるなんて、感動的」
「僕も知ってるよ、頭金」
「黙ってて」
さっきまで高かった黒木さんの声が一気に低くなった。僕にもオーバリアクションのサービスを提供してくれても良いのに。
「簡単すぎるけど、まぁそういう作為の問題として、この問題に全然関係ない場所、例えば8九に自分の香車とか、3三に相手側の桂馬とかを置いちゃいけないルールがあるの。無意味な駒だから」
「凄く複雑な問題でも、ですか?」
「ええ。使わない駒はないの。あと持ち駒に金二枚とか、余らせるのも駄目。必要な駒以外は持ち込んではいけません」
遠足みたいだな、と思ったがまた怒られそうだったので黙ることにした。
「他にも、わざと詰ませやすく有利になるように王将を逃がすとか、無意味な合い駒で駒をプレゼントするとか、そういうのも駄目。攻め方は最善手で王手を続けて、敵の王将は最善の逃げ方をさせないといけない」
「それを頭の中だけでやるんですよね」
「そうよ。追う側と追われる側どちらも考えるの」
「現実の問題は、そうか、無関係なものばかりという事ですね」
ハンナさんが呟いた。黒木さんも同じ理解らしく何も言わなかったが、僕のイメージでは少しだけ違う。けれど、そこまでの議論をする気はない。
例えば今右手にある民家に置かれた猫避けの水入りペットボトルや、そのペットボトルに猫避けの効果がないこと、浦賀にペリーが来航したことやアフリカ大陸の存在は、今回の焼死体に無関係だ。
だが、厳密にいえば物体も迷信も歴史も文化も一切完全に無関係である物事は存在しない。むしろ、僕は全てが繋がっていると考えている。その濃淡を、言語という不完全なツールで大雑把に区切っているにすぎない。
「折角だから、一問解いてみましょう」
「難しいのはなしですよ」
「大丈夫、三手詰めだから」
後ろではしゃぐ微笑ましい女子二人と、我が道を行く高槻さんとの狭間でしばらく歩いた。と言っても、高槻部長の後をゆっくりとついていくだけだ。やがて、高槻さんが二階建てのアパートの前で足を止めた。
「ここだな、纐纈ハイツ。ハイツと呼ぶには小振りだが」
「うちの近所にパレスを名乗るアパートがありますよ」
「その場合は、本当に王族が住んでればセーフだ」
纐纈ハイツは計8部屋のアパートだった。2階へ上る階段の手すりは塗装が剥げているが、それ以外はこれといって老朽化しているように見えない。築二十年前後だろう。外観とサイズから、部屋はワンルームか、小さめの2LDKだと予想できた。
「それで、どうするんです?」
「大体こういうアパートは大家が一階に住んでるんだよ。まぁ、いないなら諦めるしかないが、うーん、ないな。管理会社に聞くのもなぁ」
高槻さんがお構いなしに敷地へ入り込み、金属製の集合型郵便受けの名札を見ていく。僕も今更だろうと思い、中へ入って確認したが、同じ苗字の人はいないようだ。101号室は空欄、204号室も同じく空欄だったがこちらには新聞が二日分溜まっていて溢れそうだった。
「先生か仙人、いそう?」
遅れて到着した黒木さんたちが、敷地の手前で訊いてくる。
「纐纈って苗字の人はいないみたい」
「それは残念」
言葉と表情が一致していなかったが僕も同意見ではある。
「君たち誰かに用事かい?」
僕たちが入り口で固まっていると、まるで天のお告げのような声がして、僕たちは一斉に上を向いた。纐纈ハイツの二階、二〇三の扉が開き、白髪の老人がこちらを見下ろしていた。ヨレヨレの白いタンクトップ姿で、袴のようなゆったりしたズボンを履いて、手に新聞を持っている。
「おお! 貴方が将棋仙人ですか!」
高槻さんが興奮した様子で呼び掛けた。
「え、何の話だ。将棋?」
「すみません、僕たちはここのアパートの大家をされている、纐纈さんを探しているのですがご存じありませんか」
「ああ、大家さんか。そういやあの人は将棋好きだったわ、でもよ、纐纈さんに間違えられるほど俺は歳くってねぇよ」
白髪の老人は冗談めかして言ったが、僕には十分なお年寄りに見えた。八〇歳ぐらいだろうか。八〇歳男性に対して年上に見えると伝えることは不名誉なのか、それとも個人によるのか。まだ十六歳の僕には遠すぎる感覚だ。
「大家さんならほれ、そっちよ」
白髪の老人が僕たちの背後を指さす。
「あ」と、真っ先に振り向いたハンナさんが声をあげた。
「あそこの家の表札、纐纈です」
纐纈ハイツの向かい側にある古びた民家があった。太陽光が反射して見えにくいが、そこには確かに纐纈の文字が掲げられている。アパートに集中していたせいで、意識の外だった。
「最近とんと見かけんよ。死んどるかもしれん」
「え、お亡くなりになったんですか」
「ああいや、梅の頃に一回見たか」
どっちなんだ。思わず突っ込みそうになったのを堪えて質問の球速を抑えた。
「その時は、何をされていたんです?」
「米寿の祝いよ。役所の人が来て、記念品を渡すんだわ。玄関先でやっとったから、儂も声かけたのよ」
米寿ということは八十八歳。男性の平均寿命を十年近く越えている。仙人と呼ばれるだけあって長生きだ。
「ということは、まだここに住んでいるわけだ! ありがとうございました!」
言うやいなや、高槻さんが纐纈ハイツを飛び出して、向かいの民家の前に移動する。そして躊躇なくインターフォンを押した。
すごいなこの人は、と思いはしたものの、僕たち三人は遠巻きにその様子を眺めることしかできない。白髪の老人に会釈すると、老人は自室へ帰っていった。
再度、高槻さんがインターフォンを押す。電子音の余韻が消えてしばらく経つと、インターフォンから声が聞こえてきた。
「高槻か、どうしてうちの前に?」
その声に反応して、高槻さんが嬉しそうに口元を緩ませたのが背中越しにも分かった。どうやら僕たちの予想は当たっていたらしい。
「こんにちは纐纈先生。遊びに来ました。将棋しましょ、将棋」
高槻さんは元気よく返事をした。
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