▲5一 生徒

 困惑混じりでそっと開かれた纐纈家の扉へ強引に足を挟み込み、後輩がトイレ貸してほしいって言うんすよ、ジュースも飲みたいです、あと将棋仙人はご在宅ですか、などと要求なのか文句なのか判断がつかない言葉を並べて高槻さんは玄関へ侵入した。

 呆気に取られた顔の纐纈先生が外にいる僕たちを見て、何なんだ、と訴える表情をしたが、僕たちは曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。ご愁傷様です、という他ない。


「休日に何の用だ」


 纐纈先生は高校で普段来ているスーツではなく、ベージュのハーフパンツに薄緑のポロシャツ姿だった。完全に気を抜いていた様子で、突然の生徒たちの訪問に戸惑いを隠せていない。

 こうしてみると、先生もごく普通の中年男性なのだなと当たり前の感想を抱いた。厄年をとうに越え五十に差し掛かっているであろう世界史教諭は、彼の人生史上稀にみるであろう生徒の存在を持て余している。


「オープンキャンパスの訪問計画でも出しに来たのか?」

「もう期限過ぎてましたっけ。あんなもの学校から出す必要ないでしょう。夏休みに個人で行くんだから」

「学校主導で参加率を上げて将来のビジョンを意識させるのが方針だ。文句言う暇があるならさっさと出せ、あれは私がまとめ役なんだ」

「ええ、まぁ。出そうとは思ってますよ、先月からずっと」


 言いながら靴を脱ごうとしている。


「おい、待て待て、なんで入ろうとしてるんだ待て」


 慌てて纐纈先生が止めた。


「まず用件を言え、頼むから。どうして家に来たんだ。私はお前の担任じゃないし、将棋部の顧問でもないぞ」

「三年の学年副主任でしょう」

「いや、それはそうだが、それはこの状況と何の関係がある」

「何の関係もないですね」高槻さんはあっさりと言った。「いやね、俺たちもまさか本当に纐纈先生がいらっしゃるとは夢にも思ってなかったんです。用があるのは将棋仙人の方です」

「将棋仙人?」

「何年か前に、道徳公園に出没した、凄く将棋が強い爺さんです。その人の苗字が纐纈らしくて。んで、将棋仲間からアパート経営してるって聞いて、探してたら表札を見つけて、インターフォン押したら先生が出てきたんですよ」

「な、なるほど」


 居留守を使えばよかった、と纐纈先生の顔に書いてあった。だが実際、いきなり生徒が現れたら教師として対応せざるをえないだろう。本日この時間に家にいた時点で詰んでいたのだ。


「仙人かどうかは知らないが、多分私の親父だな。以前は将棋を指しによく出かけていたから」

「やった!」


 高槻さんがガッツポーズを決める。しかし、続く言葉も期待通りとはいかなかった。


「残念だが、親父は三年前に脳梗塞で倒れてね、もう将棋を指すのは難しいんだ。歳が歳だし、認知症もだいぶ進んでいる」


 纐纈先生が部屋の奥に目をやった。その先に将棋仙人と呼ばれた老人がいるらしいことが暗に伝わる。


「そうなんですか……、でもさっきアパートの人が梅の頃に玄関で見かけたって」

「ああ、米寿のお祝いか。あの時はまだギリギリ会話もできたんだ、敬老会の人から粗品を貰うために起きたんだよ。今はもう、それも難しい」

「そんな」

「悪いな、折角来てくれたのに。三年前なら親父も喜んだろうが、今はもうルールさえ覚束ないと思う。駒も盤もみんな処分してしまったよ」


 淡々とした口調で纐纈先生が話す。家族の介護がどれほどの苦労か、僕にはまだ実感できない。纐纈先生の目には、どこか割り切ったような諦観があった。


「期待に沿えなくてすまないな。それじゃ帰ってくれ、と言いたいところだが流石にそうもいかん。お前、まさかとは思うが後輩を引き連れて道徳公園の事件現場を見学に来たわけじゃあるまいな」

「俺は仲間と故人を偲びに来て、こいつらは勝手に来たんすよ」

「嘘を言うな。どうせ無理やり引っ張り出したんだろう。お前たちも可哀想にな、こんな先輩みたいになっちゃいかんぞ」


 なろうと思ってもなれそうにない。僕は肩を竦めて「気を付けます」とだけ答えた。


「ま、折角来たんだ。飲み物ぐらいは出してやろう」


 待っていなさい、と言って纐纈先生が中に入っていく。しばらく玄関で待つと両腕にペットボトルを抱えた先生が戻ってきた。


「株主優待で貰うんだが消費しきれなくてな。丁度良かった」

「じゃあ俺コーラ」

「では私も」


 高槻さんとハンナさんが早速受け取る。高槻さんは図々しいだけだが、ハンナさんも行動が早い。飲食に関しては積極性が高い、というのが観察から得られた彼女の特徴である。

 お礼を言って僕もスポーツドリンクを受け取った。黒木さんは最後に残ったエネルギー飲料だ。残り物だが、同じメーカのものを何回か飲んでいるのを見かけたことがある。いつもローテンションなわりに、この手の飲み物が好きなのだ。どこでエネルギーを消費しているのだろう。


「あっ、っとと」


 プシュっと炭酸特有の小気味良い音がした直後、ハンナさんのコーラから泡が溢れ出す。咄嗟に口に運んだせいで、彼女の服にコーラがかかった。白っぽい布地に、コーラの染みが広がっていく。


「大丈夫?」

「油断しました」

「先生ぇ、振ったっしょ」

「馬鹿言え、急いで運んだからかな。すまん二条、洗面台を使っていいから。廊下を進んで右にある」

「すいません。お言葉に甘えます」


 ベトベトです、と言いながらハンナさんが纐纈家の中に消えていった。

「矢吹君、何見てるのいやらしい」

「見てないよ」


 酷い偏見だ。黒木さんの冷たい視線をかわすべく、僕は急いで別の話題を探した。そして、今しがた交わされた会話に鉱脈があることに気付く。


「纐纈先生、三年の担当なのにハンナさんの苗字をよくご存知でしたね」


 桜場高校は在籍者数千人超の大型校だ。担当するクラスで40人弱、学年単位ならその10倍。毎年生徒たちの顔と名前を覚えて指導しなければならないと考えるだけで頭痛がしてくる。僕なんて未だにクラスの顔と名前が完全に一致しないというのに。


「ああ、あの子の兄貴はうちの三年生なんだよ。二条バルトシュ。日本国籍だそうだが、ほら、見た目がああいう風だから妹だとすぐ分かった」


 やった、と僕はその場で飛び跳ねそうになった。僕は単に先生の職業的記憶力を称賛したかったわけではない。


「へえ、そうなんですね」

「お兄さんがいらっしゃるのは聞いてましたけど、どんな方なんですか?」


 黒木さんが気付いて乗っかってくる。纐纈先生が三年生の担当なら、彼女の兄である二条バルトシュを知っていて当然だ。ハンナさんを見て紐づけられたことに違和感はない。これを利用しない手はなかった。多少露骨かもしれないが、僕たち以外の立場からその名前を引き出すことに意味がある。


「見た目こそ西洋人だが、真面目な、普通の生徒だよ。入学した頃は職員室でも話題になったな。英語の先生方が発音を正されるかもと惧れを抱いていたが、ポーランドで話されているのはポーランド語だから杞憂に終わったよ」

「ハンナちゃん美人だし、お兄さんもきっと素敵な人なんでしょうね」


 黒木さんが両掌を合わせ、まるで普通の女子高生のように爽やかな好奇心を発揮してみせた。彼女の演技はかなり大根だったが、僕も他人の事は言えないので指摘はしない。


「部活は何をされているんでしょうか? 是非お会いしてみたいですね」

「え、バルトシュは将棋部だろ。なぁ高槻」

「まぁ、そうっすね」


 あからさまに乗り気でない回答が高槻さんから返ってきた。

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