▲4三 仙人

 黒木さんの対局が終わりベンチが空いたので、次に僕が座った。黒木さんを負かした大黒様に挑戦することになる。黒木さんは隣のベンチで池さんと呼ばれていた男性と対局を始めている。示し合わせたわけではないが、僕たち二人が対局に入ることで高槻さんとハンナさんを会話させることができる。


 流石の高槻さんも、喧嘩中の親友の妹が傍にいては気まずかろう。これに懲りて少しは関係改善を考える方向に進んでくれれば、という淡い期待があったのだが、高槻さんは平然と「六枚落ちで教えてやろうか?」とハンナさんを誘っていた。そして断られていた。

 彼女は主に黒木さんの対局を観戦して、時折こっちに来る。ギャラリーを背負う将棋はプレッシャーがかかるので、僕としてはあまり見られたくない。


「『図巧』制覇しただけあるわ、あかん、負けました」


 大黒様との対局は僕の勝利で幕を引いた。しかも、その後で対局した池さんにも僕は勝った。初手合いの相手に二連勝だ。嘘ではない。僕だって勝つときは勝つ。ただ、鮮やかに長手詰めを決めたわけでもなく何回かミスもしたので、内容は良くない。どちらも相手の緩手を突いて一手一手リードを守る地味な将棋だった。


「若いのに凄いな。タカちゃんより強いんじゃないか?」


 池さんが言った。順当に考えてリップサービスなのは分かっていたが悪い気はしない。横で聞いていた高槻さんは鼻で笑い、俺のが強ぇよ、とだけ言った。


「そういえば、亡くなられた茂木さんの棋力はどうだったんですか?」

「強い方だよ。ここに来る人って、私みたいに定年して暇になった下手の横好きが多いけど、あの人はかなり指せた。三段か、四段はあったと思う」


 池さんが答える。


「巡回中のセールスマンとか、なんか中国人の郵便配達員が飛び入りで来た時もあったな。平均すれば、あの爺さんはまぁまぁ上の方だ」

「茂木さんに安定して勝てる人なんて、それこそタカちゃんか、あとは郷田さんぐらいだよ。ああ、あと昔なら仙人がいたね、あの人も強かった」

「仙人?」

「この公園の集まりはな、その仙人から始まったんや。まぁ、一人で将棋指しとる爺さんがおって、散歩しとった誰かが対局を申し込んで、そういうのが細々と続いとるだけやけど」

「俺、会ったことないんだよなぁ。弟子を名乗る人ならあるんだけどな。指導が上手くてメキメキ強くなれるから、あだ名が将棋仙人らしいぞ」


 水墨画のような雲にのった白髭の老人が、公園のベンチにまたがっている姿を想像した。古に封じられた幻の奇襲戦法を教えてくれそうだ。


「ただのお年寄りでしょう」

「将棋大天狗がいるなら、将棋仙人がいたっておかしくないだろ」


 黒木さんの呆れ顔に、高槻さんが反論する。


「懐かしいなぁ『五5の龍』やろ。今の子、知っとるの?」

「部室に将棋漫画が一通りあるんです」

「一回、将棋仙人と指してみたいんだよな。なんで来なくなっちゃったのかな」

「さぁ。もう来なくなって三年ぐらい経つから、それこそ亡くなってるかも」

「住んどるの近くやなかったか。アパート経営しとるんやろ」

「意外と堅実だな、将棋仙人」

「なんだっけ。そのまんまの名前のアパートなんだよ。画数が多くて、確か、糸偏が続くんだけど」

「もしかして、纐纈(こうけつ)ですか」


 黒木さんが小さく手を挙げて言った。


「あ、そうそれだ。よく分かったね」

「うちの高校に、同じ苗字の先生がいるので」

「世界史の纐纈先生ですね。三年の担当だから授業受けた事はないですけど」

「仙人も昔教師やっとったんやなかったかな」


 大黒様が思い出したように呟いた。


「ほう、それはもしかしたらもしかするかもな」


 高槻さんがスマホを取り出し、何か調べ始める。

 纐纈という苗字がどれぐらい珍しいか僕は知らない。同じ苗字だから親子だ、と推測するのは明らかに飛躍している。だが、親が教師なので子供も影響を受けて同じ職業を選択した可能性はある。それに、道徳駅は職場である桜場高校からも二駅しか離れていない。同じ地域に住む他の纐纈さんよりも、僕らの知る纐纈先生の方が、将棋仙人と繋がりを持つ可能性は少し高いだろう。


「あった。纐纈ハイツ。まんまだな。北北西に220メートル」


 高槻さんが何もない方向を指さした。


「行ってみようぜ。纐纈先生の家だったらジュースぐらい出してもらおう。お前らだって、将棋仙人に会いたいだろ」


 いいえ別に、と喉から出かけたが何とか飲み込んだ。僕たちは高槻さんとバルトシュさんとの喧嘩の内容について、情報を引き出すためについてきたのだ。機嫌を悪くされても仕方ない。


「まぁすぐ近くだし」

「私も構わない」

「では私も」


 三人で顔を見合わせ、とりたてて否定材料もないので将棋仙人訪問ツアーが承認された。


 北から抜けようと話していると、事件現場である林のエリアはまだ立入禁止のテープが貼られていると大黒様が教えてくれた。従って最短ルートは、林への遊歩道を途中まで行き、歩道へ出て公園の外周を回るようにして北北西の纐纈ハイツを探すコースになる。


 打倒将棋仙人を掲げて高槻さんが大股で歩き始めた。ずんずん先に行ってしまうので、見失わないようにしなければならない。振り返ると、大黒様にハンナさんが何か話しかけていた。池さんがそれを聞いて笑っているようだ。会話はすぐに終わったらしく、待っていた黒木さんのところまでハンナさんが駆け寄り、三人で高槻さんを追った。


 遊歩道が西へ曲がる手前に、歩道に繋がる東側の出入口がある。高槻さんが足を止めたので、てっきり僕たちを待ってくれているのかと思ったが、林の方を見ているだけだったようだ。目線の先に、警察と思しき紺の服を来た人たちが見えた。


「まだ調べることがあるんだな」

「手掛かりが少ないのかもしれないですね」


 答えてから、自分の中で保留にしていた疑問を思い出す。


「警察は、どうして発見された焼死体が茂木さんだと分かったんでしょう?」

「ああ、それなら俺も聞いた」


 黒木さんとハンナさんはまだ少し遠い。彼女たちが来るまでの時間潰しとして交わされる会話としては物騒だが、他に話題もない。


「事情聴取に来た若い刑事が教えてくれたよ。死体の近くに、財布があったんだと。んで、中に身分証が入ってた。免許証か保険証かは知らないが、そこから聞き込みを始めたらしい。大したもんだよな、早朝に発見されて、その日の10時にはもう俺のところまで来てるんだから。日本の警察が優秀ってのは本当らしい」


 初動捜査の段階で、とにかく情報が求められる状況だったのだろう。高槻さんから聞けた話で何名か公園に集まっていたメンバーが連鎖的に判明し、話を聞くことができたのかもしれない。


「でも、身分証があったから本人だとは限らないのでは? 家を訪れても行方不明だから蓋然性は高いかもしれませんが」

「そりゃ黒焦げだからな。学校で会った刑事も恐らくと前置きはしていた。だが、俺は訂正されてないし、池さんたちにも同じように説明している。警察もある程度は断定して捜査するだけの根拠があるんだろ。DNAとか歯の治療痕とか」

「そうか、さっき一人分しか焼けていなかったと言ってましたし、骨まで焼けてないなら――」

「生焼けだったんだろうな」


 あっさりと高槻さんが言った。亡くなられた茂木さんへの哀悼は、焼けてしまったものにはない。それは、ただのモノだ。言外にそういう思考が含まれているように感じられる。


「なんだか、不思議な事件ですね。わざわざ身分証を残すなんて。死体を焼くのは、普通、被害者の身元を隠すためでしょう。発見されたのが山の奥地でなく、こんな人の多い公園なのも、いまいち分かりません」


 どうして犯人は死体を焼いたのだろう。身分証を残してまで身元を特定させたいなら、なおさら焼くべきではない。道徳公園に死体を転がしておけば、すぐに発見されるのだから。ポケットに財布を入れておけば済む。


 茂木さんを殺してしまった犯人は、その死体が茂木さんだと分かってほしかったのかもしれない。何故だろうか。顔をぐちゃぐちゃにしてしまった、とか。いや、それでも液体燃料を準備してまで焼く必要はない。やはり、どこか矛盾している。山奥に死体を捨てて焼いたなら、死体が誰だか判定できずに捜査が行き詰まるかもしれなかったのに。


 考えがまとまらない。筋の通った理由が見つけられないのだ。


「やめとけよ」


 高槻さんが言った。

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