△4二 問題

 僕はどうして彼女の一家が日本にやって来たのかを知らない。ハンナさんはポーランドの生まれで外見的に完全な西洋人だが、育ちは日本だという。子供の教育を含め、全く異なる東洋の一国に家族ごと引っ越して来るのは相当な困難を伴うだろう。彼女の苗字が日本姓であることを踏まえると家庭の事情に踏み込んでしまう可能性もある。際どい質問だと思えたが、ハンナさんは気にする素振りもなく答えた。


「ええ、私は二年生の時に。大変でしたよー、ポーランドにいた頃、家族で使っていた日本語は、家族の中だけで通用する魔法の呪文だと思っていたのに、魔法の国に来てしまったようなものですから」


 周囲の人も、気候も、言語も、文化も、何もかもが劇的に変化してしまった彼女の体験を、僕は言葉上の意味でしか理解できない。今、僕の隣であっけらかんとしているハンナさんが受けてきた苦難はどれほどのものだったのか。


「おーい! 黒木ちゃん!」


 ハンナさんが手を振った。距離が縮まったので、ベンチの周囲にいた人たちも分かるようになった。数は四人。二人が立ち、二人はベンチの両端に将棋盤を挟んで腰掛けている。


 ハンナさんの声でこちらに背を向けて座っていた黒木さんが振り返った。暗褐色のカッターシャツに細いパンツを履いている。洋服を着た日本人形みたいだ。

 隣で腕を組み、将棋盤を見下ろしているアロハシャツの男性が高槻さんだろう。対局相手とその後ろにいる二人の男性は僕の知らない人だった。更に距離が近付いて、年齢はかなり高めだと分かる。彼らが例の、公園で将棋を指す集まりのメンバーなのだろう。


「よお。休日に武者修行とは感心だな」


 人と会話するにはまだ少し遠い位置から、高槻さんが話しかけてくる。更に数歩近付いてから返事をした。


「ネットより対面で指す方が面白いですから」

「よく分かってるじゃないか」


 高槻さんは鷹揚に頷いた。

 武者修行というのは、今日僕たちが高槻さんに合わせて公園に来る理由として使った、僕らも知らない人と将棋を指してみたいので尊敬する部長についていってもいいですか、という後輩ムーブから来ている。メールは二つ返事でオーケーだった。


 ただ、ハンナさんを連れてきた時点で、今日僕たちがここへ来た目的が異なる事は即座に見抜かれるだろう。実際、高槻部長の視線はすぐに僕の横に立つハンナさんに移った。


「バルの妹、だよな。ハンナだっけ」

「はい。二条ハンナです。兄がお世話になっております。私、将棋部への入部を検討していて、今日は見学にきました」


 淀みなくスラスラと挨拶を返すハンナさんは、高槻さんに対して薄く透明なバリアを張っているように見えた。胸中は複雑だろう。


「そうか。良い事だな。将棋が指せるなら、競技人口的にそれだけで人類の上位1%に入れるんだ。将棋星人が攻めてきた時に、生き残れる確率も上がる」


 高槻さんが言った。斬新な誘い文句ではあるし、いつもの感じに近い。けれど、僕にはやはりどこか高槻さんがハンナさんを警戒しているように思えてならなかった。第一、入部というワードに反応していない。いつもの高槻さんなら足に縄をかけてでも引き摺り込もうとしてくるはずだ。眼鏡の奥にある目から、いつもの勢いが感じられなかった。


「その子、高校の後輩かい? 日本語上手だねぇ」


 ベンチの後方に立っていた男性が言った。ポケットの多い、登山客のような釣り人のような服を着ている。オールバックにまとめられた髪には白髪が混じっており、60歳ぐらいに見えた。


「ええ、よく言われます」


 ハンナさんは笑顔で応じた。彼女は日本語話者なので的外れな誉め言葉であるはずだが、外見からくる誤解に慣れているのだろう。


「タカちゃんの後輩なら、君も強そうやな」


 黒木さんと対局していた小太りの男性が僕を見上げる。Tシャツにチェック柄のシャツを着てベンチにまたがって座るその男性は七福神の大黒様に似ていた。局面を見ると既に終盤に差し掛かっている。黒木さんが俯いて固まっているので形勢判断は必要なかった。


「僕は高槻さんほどではありません。部長が一番強いですから」

「こんな事言ってるけどな、こいつ『将棋図巧』全部解こうとしてるんだぜ」


 高槻さんが笑って言った。それを聞いた男性二人が口々に賞賛の声をあげたが、何の事はない、どれだけ難解な詰将棋集でも、解こうとすることはできる。最初の十問は自力で解いたが、時間無制限なら誰だっていつかは解ける。そう主張してみたが、やろうとも思わんねと一蹴された。


「詰将棋と言えば、茂木さんも得意だったよな」

「やってたね。自分で作るのも好きだったよ、あの人」


 高槻さんとオールバックの男性が言った。


「茂木さんというのは」

「ほら、事件の。あっちで焼けちまった奴だよ」


 大黒様がぽつりと言い、それから持ち駒の飛車を盤上に放り込んだ。玉頭に差し出された大駒はタダだったが、黒木さんの指は動かない。同玉、香車、斜めに逃げて、馬、逃げて金打ちから必至だ。この飛車は取れない。


「負けました」


 黒木さんが投了する。


「5四歩を突いた方が良かったでしょうか」

「うん、そっちの方が嫌やったわ。馬つくっても桂馬が跳んで忙しなるし」


 その場で感想戦が始まったので、僕は話をオールバックの男性に移した。


「公園で将棋を指していた方と聞きました」

「そうだよ。いやぁ、まさか茂木さんがあんな事になるとはね……。俺なんて先週会ってるんだ。一局指したんだよ。負けてカップ酒奢らされたけど」

「池さん、なんか心当たりねぇのかよ」

「警察にも話したけど、茂木さん、自分の話しなかったしなぁ。天涯孤独で、ろくでもない人生だった、とはよく言ってたけどね。もしかして自殺かとも思ったけど」

「自殺はありえないだろ。自分で火をつけることになる」


 高槻さんが否定した。


「焼身自殺ってのがあるじゃないか。警察も自殺か他殺か発表してないし」

「警察がまだ林の方でなんか探してるだろ。自分で火を付けたなら、探す必要ないはずだぜ。茂木さんの死体の近くに道具が残ってるだろうからな」

「それもそうか」


 池さんと呼ばれたオールバックの男性はあっさりと引き下がった。


「昨日、電話で教えられて公園来てな、さらっと現場見してもろたんやけど、燃え跡を囲うみたいにテープ張ってあったわ。それが倒れた人間一人分やったから、死んでから燃やされたんやと思うよ。生きとったらもっと暴れるやろ」


 感想戦を終えた大黒様が参加してくる。黒木さんもいつの間にかベンチから腰を上げハンナさんの傍にいた。その服可愛いねとハンナさんを褒めている。そういう感性があったんだな、と僕は感心した。


「なんか犯罪に巻き込まれたのかな」

「始末されたってことか」

「そんな歳ちゃうやろ。多分八十超えとるで、あの人。ヨボヨボの爺に何させることがあるん?」

「振り込め詐欺の出し子とか、なんか弱みを握ってたとかさ」

「公園に来てたメンバーで、誰か金でも貸してたのかな」


 三人の会話を脇で聞いて、ぼんやりとした被害者像が浮かんできた。茂木さんと呼ばれる人物は、かなり高齢の男性で、見た目も年相応。本人の言葉を信じるなら家族はおらず、凡そ幸福な生涯を歩んでこなかった。どうも裕福ではなさそうだ。将棋を好み、詰将棋は作る方も解く方もやる。総括すれば、道徳公園の近所に住む孤独な老人だ。


「許せないよな。将棋を指す人間を減らすなんて」


 高槻さんが真面目な顔で呟いた。そういう問題なのかと思ったが、だったらどういう問題なのかと訊かれたら、僕は答えを持たない。

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