第3話
それはいつも真っ暗闇から始まる。光という名の付くもの全ての介入を一糸も許さない頑強な闇。闇は迷い込んだもの全てを呑み込み、拡大していく。
不意に、純粋で清らかな水が一滴、落ちた音が暗闇で響いた。その音はまるで救世主のように聞こえた。夢中になって水の出所を探すが、それはどこにも見当たらず、水滴の音もしない。闇が呑み込んでしまったに違いない。深い喪失感が胸に広がった。
どのくらい時間が経ったのかは分からない。闇に漂う空気に乗せようと息をそっと吐いてみるが、それは闇に触れた瞬間に消えてしまう。返されるのは重い沈黙と孤独という現実。いつ闇に呑み込まれてしまうのだろうかという冷たい恐怖が脳を支配し、身体を制御しているように感じる。
遠くに、新たな闇が生まれるのを見る。周囲に静かに控えているのも闇だが、新たに出来たものはそれとは明らかに違う。こちらの闇は冷たくて突き放されるような性質のものだが、あちらの闇は粘着質で何かおぞましいものを感じさせる。鈍くて重い泥に似たような足音を響かせ、生き物達の悲鳴を引きずりながらもその闇は前進しているように見えた。新たな闇は、巨大化しながらこちらに来る。こちらに来る。背筋に一直線に寒気が走った。と同時に新たな闇が闇を取り込んでいるのに気付く。元の闇よりも強い。必死に逃げようとする。足を動かそうとする。しかし、体は動かない。足は新たな一歩を踏み出さない。闇が迫ってくる。その異様な威圧感を肌に心臓に感じる。焦燥感が最高潮に達する。ねっとりとした闇が腕に触れる——。
「嫌‼︎」
目の前に突然白い壁が現れて、一瞬何が起こったのか美誉には分からなかった。荒い呼吸、背中を流れる無数の汗、自分の足、そして右の方に丸まってしまっている布団。しかしそれらは全て現実に戻って来たことを示していた。美誉はほっと息を吐き、布団をかけ直すと、ベットに横になった。
また夢だ、と美誉は思った。このところ、この夢ばかり見ているのだ。始めはただの闇だったが、いつしか闇の気配まではっきりと感じられるようになり、闇の行動までもが見えるようになってしまった。この一週間、ずっとこの夢を見続けている。しかしながらあの新たな闇。あの新たな闇は初めてだった。自分の中の何かが騒めくのを美誉は抑えられなかった。世の中にあんな物があったらどうしようと思いながら、美誉は夢で良かったともう一度息を吐いた。
その時、少し離れたところにあるリビングから声が聞こえた。
「美誉ー?まだ起きてなかったの?早く起きなさい」
そう言ったのはお母さんだ。
「はーい」
美誉は返事をして、ベッドから降りた。既に夢のことは忘れてしまっている。美誉にはその自覚があった。昼間は普通に過ごし、夜は悪夢を見る。こうして一日一日が過ぎていくのだ。
一月は行ってしまい、二月は逃げてしまい、三月は去ってしまう。時々筆を止めて顔を上げた時に思う。これを考えたのは誰なのだろうと。その人はきっと頭がいい人なのだろう。なぜなら現状はまさにその通りだからだ。入試をしたのが一月とちょっと前のことだなんて誰かに言われても、到底信じられないだろう。つい一週間前に入試結果の書かれた紙の入っている封筒を開けたような気がする。
しかしそれに対して、一週間以内に行われたことに関しては、まだそれだけしか時間は経っていないのかと驚く。きっと人間の記憶は不安定で曖昧なのだ。事後すぐに思い返すよりも後で思い返した方が記憶がずっしりと重くて安定しているように思える。
「みーよー」
手を振って後ろから走ってくるのはクラスメイトの
彼女はなんとなく手を振り返した。
「美誉が見えたから追いかけてきちゃった」
ここが帰り道の一本道ではなくて漫画の世界なら、小百合の顔のすぐ横に「うふふ」と書かれそうな雰囲気だ。
「わざわざ走ってまで?」
何か魂胆があるということは名前を呼ばれた時から察しはついていた。小百合は誰かを帰りに見かけたとしても、走ってまで追いかける足は持っていない。絶対体力を温存する方を選ぶだろう。では基本的に省エネ主義の小百合がなぜ美誉をそうしてまで呼び止めたか。真実は一つしかない。
「バレた?」
「そもそも隠そうとしてないでしょ」
小百合は目を逸らしてあらぬ方向を見る。いかにもわざと視線を逸らしたという光景だ。小百合の口はとんがって、そこから空気の音が僅かに聞こえてくる。
「余計なことかもしれないけど、口笛吹けてないよ」
「まあね」
いやそこ胸張るとこじゃないし、と彼女は呟いた。
「なんか言った?」
小百合が大きな目を鋭くさせて彼女を見る。
彼女は顔全体を上に持ち上げるような笑みを小百合に見せながら「失礼ながらお嬢様、空耳だったのでは?」という意を込めて両手と頭を小刻みに振った。
「ふうん、まあいいけど」
小百合は納得のいかないという表情をしていながらも見逃してくれた。
「それで?なんの用事?」
待っていたら家についてしまいそうだったので、美誉は小百合に切り出した。
「あぁ、美誉って島田のこと好き?」
さらっと軽そうに聞こえたセリフは美誉の中に大きな岩をもたらした。岩は想像以上に重く、喉につっかえた。
本当はそれどころではないのだけど、美誉は平静を繕う。
「生き物なら基本全部好きだよ」
声は震えていなかっただろうか。言うタイミングは不自然ではなかっただろうか。取り敢えずいつものジョークで流したが、心の揺れを悟られはしなかっただろうかと美誉は気が気でしかたがなかった。
「基本ってなに基本って」
「十五年も生きてれば苦手な生き物の一つや二つはあるからね」
「例えば?」
小百合の興味が逸れたようなので美誉は少しほっとした。気持ちに余裕が生まれる。
「カメムシとかかな」
「あ、それ小百合も嫌い!」
口を横に大きく開いて小百合は笑ったがすぐに急に声を低くすると「そう言えばさー」と他の話題を切り出した。
「ナナシって知ってる?」
「都市伝説か何か?」
「うん。病気の一種で、噂では五千人に一人いるんだって。でも認知症と似てるから気付かない人が多くて、実際はもっといるらしいよ。」
小百合はいつも最新の都市伝説やら噂やら怪しい話を話してくれるのだ。
「へぇ。じゃあその、なんだっけ?」
「ナナシね」
「そう、ナナシってやつは認知症の間違いって可能性もあるんだね」
「それは思いつかなかったわ」
「都市伝説は大抵ベースになる実在するものがあるからね」
「でも本当に発症例があるらしいよ?」
「それがナナシだとは限らないでしょ」
「そっか。急に記憶が無くなっただけかもしれないしね」
「記憶喪失のこと?」
「そうそう」
話しているうちに、美誉は自分の家の姿を認めた。
「じゃあね」
小百合に手を振り、別れる。小百合の「バイバーイ」という声を背中で受け止めながら、「メゾン」と書かれたマンションに向かって歩いて行った。
四階建ての少しくすんだ焦茶色をしたマンションを見上げながら、彼女は小さく息を吐いた。半径三十センチに白い薄い空気の層が出来て、消えた。国語で昔は一月二月三月が春だったと習ったが、今日の服まで凍らせてしまいそうな肌寒さでは信じられなかった。昔は今と季節の感覚が違うのだろうかと美誉は思った。
古くはないはずだが、どこか威厳のある、しかし四階までしかないマンションは、家族と一緒に小学生に入ると同時期に引っ越してきた。ここに引っ越すまでは団地に住んでいて、ずっと引っ越しをしてみたいという憧れがあった。それが、二つ部屋の多い向かい側のマンションに引っ越すという形で叶えられたことになる。
最上階の端の部屋のドアの鍵穴に鍵を突っ込み、左方向に四十五度回す。ロックの外れた音がして、鍵穴から鍵を引っこ抜く。恐る恐るドアノブを回した。静電気からのダメージを受けるのが怖いのだ。一気に触ってしまった方がいいらしいが、そんなことは死ぬより怖くて出来ない。
「ただいま」
形式的な挨拶だ。聞こえるか聞こえないかくらいの声で言うと美誉はすぐに右の部屋に入る。
玄関から伸びる廊下のその向こうには誰かがいると分かっていたが、今はそこから人が身動きする気配は感じられない。スマホでも弄っているんだろう。
大きいが既に軽いバッグを部屋の脇に下ろして、ベッドに腰掛ける。部屋の右側に掛けられているカレンダーを美誉は何気なく見た。明日の日にちが書かれている欄には「三送会」と丁寧に書かれている。これは一年が始まるときに、美誉が学校で配られる年間スケジュールをもとにして書き込んだものだ。高校でも年間スケジュールは渡されるんだろうか、と考えて美誉はスマホを手に取った。卒業迄の日数を今日で両手で数えられるほどになった。小学校の卒業式。美誉には暗記させられた台詞を言って、校歌や国歌を歌わされた記憶しかない。隣に座っていた女の子が泣いていたような気もするが、それはもう一つ向こうに座っていた子かもしれない。どちらにしろ、美誉には卒業がそんな悲しいことだとは思えなかった。むしろ嬉しかった。これから中学生になるという喜び。新しい生活への期待でいっぱいだった筈だ。でも十日後に控える卒業式はそうはいかないという気がしていた。
それに、と美誉は思う。明日は公立高校の合格者発表が控えているのだ。イツメンの顔が頭に浮かんでは消えていく。なんだか胸が騒ついた。今日は眠れないかもしれない。美誉は結局ホーム画面を見ただけのスマホを投げ出し、ベッドに上半身を預けた。
ナナシ きよ @KiyoOrange
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