第2話
「
先生に名前を呼ばれて、美誉は読んでいた本から顔を上げた。
「はい」
自分の発した声に、少しかすれてしまったかもしれないと思いながらも、習慣的に目線を文字の羅列に戻し、まだ目を通していないところを探す。
先生はクラス全員の名前を呼んでいく。今は朝の会の点呼をしている最中なのだ。
「よし、じゃあみんないるね。解散」という先生の声を合図に、周囲に座っている人たちが帰る準備をする気配がする。美誉も読み続けたいという未練を本を閉じることで断ち切ると、筆記用具と読みかけの本を学校指定の鞄に入れた。今日は昨日に続き公立入試二日目なので既に受験が終わっている人は、朝学校に来て点呼をしただけで帰ることになっている。点呼をするためだけに学校にくるのなら、いっそのこと休みにしたらいいのにと美誉は思っている。話を聞いたところだと、近くの学校は皆そうだというのだから、余計にそうする意味が分からない。
三年一組の教室を見渡すと、自分と同じように帰りの支度——とは言っても筆箱をしまって上着を着るくらいなのだが——をしている人が約十五人。これは昨日学校に登校した人の人数をはるかに上回っている。昨日、つまりは公立入試一日目は、私立単願の
「竹田」
誰かに呼ばれたのでそちらの方を向くと、クラスメイトの殆どが集まっているブロックが目に入った。
「これ、解ける?」とそのうちの一人が紙を渡してきた。受け取ってみると、それは問題用紙のようだった。「学校選択問題 英語」と印刷されていて、氏名を書く欄には、
「どの問題?」
「ここ」と言われたところを見ると、それは並べ替え問題だった。問題文の下には、賢太のやや雑な字でアルファベットが並べられ、英語の文が姿を現していた。
少し考えてから、「これで合ってると思う」と言うと、一同にはなぜか安堵の空気が流れた。
「他の問題は?」と星飛が聞いてきたので、他のものにも目を一通り通したが、難しそうなものばかりだったので「ごめん、分かんない」と言って返した。彼女はまあまあ勉強はできても、それは一時的な記憶力に頼ってる部分が大きいので、最近復習していないような問題は全くと言ってもいいほど解けなくなるのだ。
「ちょっとお子達、その話はいいから早く帰って帰ってー」
ずっと教壇の方でなにかをしていた先生が苦笑しながらこちらに向かって言った。
「はいはい」
クラスの目立つグループに分類されるような人達がそれに答える。他の人も少し億劫そうだ。
「ちょっと、中学校三年生ももうすぐ終わんのに、まだ返事は一回って注意しなきゃいけないのー?」
先生は心底呆れたように言うが、皆はそれがなんだか暖かくて微笑ましいような感じがして、わざとふざける。
生徒たちがぱらぱら「はーい」と言う声を聞いてから、先生は顔をしかめているのか笑っているのかわからないような表情をして教室を出て行った。
生徒たちも一人二人と徐々に教室から出て行く。甲高い声で楽しそうに友達と話しながら出て行く子、マフラーの巻き具合をなるべく可愛く見えるように調節しながら出て行く子、どこか表情が硬く参考書を広げながら出て行く子、どの人も残りの学校生活を思い、寂しんでいるような上着を羽織っているように見えた。机と椅子だけが並べられている教室を眺めて、美誉は電気を消した。
次の日。彼女は夢を見て、学校へ行った。
クラスには昨日までの閑散とした雰囲気はなくなっていた。
「竹田、おはよう」
声をかけて来たのは
「おはよう」
美誉は自分でも自覚するくらいに明るい笑顔で応えた。いつも一緒にいる人たちを見ると、色鮮やかな大きな花が一瞬で華やかに咲くような気持ちがするものだ。もう何日も会ってないというのも大きいだろう。
「ねぇ、なんか厨二病っぽいセリフ言ってみてよ」
いきなり自分に向かって放たれた矢に、美誉は反射的に身構える。
「その前に、公立入試どうだったか話す気は無い?」
「いいから言ってみてよ」
美誉の盾はあっさりと躱されてしまった。しかしこれで朝の戦いに負けるわけにはいかない。盾はそのままに、次に取り出したのは先の光る鋭い短剣。
「その話はそっちに置いといて……」
まだ短剣を前に突き出していないうちに多光の硬い盾が前に立ちはだかった。
「そっちってどこどこ?」
美誉の短剣は不意打ちに耐えられずに飛ばされてしまった。ここは降参して命を保つのが賢明であろう。
「分かったよ」
今日のところは、と心の中で付け加えて、彼女は白旗——ではなくハンカチをポケットから出してひらひら振った。
「でもその前にお手本をお見せ願えないでしょうか?」
そして精一杯の笑顔を作る。見る人が見れば非常にウザがるであろう、狡さを秘めた笑顔だ。
「この期に及んでまだそれやる?」
多光も笑顔を美誉に向ける。随分と余裕ぶっているように見えるが、その裏には「盾だけで勝てると思ってんの?」という恐喝が見え隠れしているのを美誉は見た。美誉は強いと思った。それと同時に、勝てないとも思った。大人しく両手を頭の高さにまで挙げる。
「この世界は俺が守ってやる!」そして「とか?」と付け加える。やや上目遣いで多光を見ると、あろうことか島田は腹を抱えて大爆笑中。
「うわぁ、チュウニビョー」
美誉を多光の右手が指すが、その先は定まらない。美誉は熱が脳から顔に移るのを感じた。耳まで熱くなる。
すっかり調子の波に乗った多光は近くに座っていた蚕羽俊哉にも厨二病っぽいセリフを吐くように求めた。俊哉は少し考えてからいきなり右の掌を顔の前に持ってきた。続いてその下に左手。右手の指の隙間から目を覗かせると「俺の手には神が宿っている」と呟くような、しかし他者の追跡を許さぬ力強い声で言った。
あまりにも突然のことに一瞬惚ける。多光も動かない。が、口を大きく開けて笑い出した。彼女もつられて笑い声が口から溢れた。ポージングしたまま仏頂面で微動だにしなかった俊哉も、思わずという感じで吹き出す。
「ロマンチックなセリフ言ってみてよ」と今度は美誉が提案してみた。
「花が綺麗ですね」と俊哉が即答した。仏頂面のどこからそんなロマンチックのかけらもないセリフが飛び出したのだろうと、まじまじと見てしまった。
「あ、それ知ってる!」と嬉しそうに反応したのは他の女子たちだ。
「ウチも知ってる!」
「もしかしてあれ?」
「うん、絶対そうだよね」
どうやら夜やっている連ドラか映画のパロディだったようだ。美誉はテレビをあまり見ないので、そういった話題にはついていけない。女子たちに構ってもらえて俊哉は嬉しそうだ。仏頂面なりに頰を赤らめて目尻を下げている。
「竹田はどう思った?」
多光に話を振られる。
「俊哉くんは女子を口説けない可哀想な男だと再認識いたしました」
「それはそれはおめでとう御座います」
美誉は近くの椅子を引き寄せ、その上に正座した。互いに一礼。椅子を取られた人が抗議の声を上げるが、無視する。椅子がひっくり返らない程度にゆっくり丁寧にそして厳かに頭を下げた。
「お前らマジで仲良いな」
俊哉がいかにもという感じで溜息をついた。
「そりゃどうも」
多光が全く感謝していなさそうな口調で言った。
多光と俊哉との出会いはなんてことない。美誉は多光と今年初めて同じクラスになって知り合ったのだし、俊哉は保育園からの腐れ縁だ。物心ついた頃からなぜかいた俊哉はまだいいとして、多光は今年に入るまで存在すら知らなかった。でもなんだか気が合ってしまって三人で一緒にいることが多いというだけだ。
二人共運動部で四肢は発達しているけど頭は簡単なタイプだから扱いやすい。そこにまあまあ勉強のできる美誉が入って、色に深みが出ているのだと勝手に美誉は思っている。
一緒に話して、バカなことやって、そうやって残りの日々を過ごして別れて、たまにメールして、そしてそれぞれが自分の人生を送るのだろうと思っていた。なんてことない、中学の友達。でも、一生忘れたくない人達だとも思った。
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