第5話

二人の間に、雪が少しずつ積もっていく



暫しの沈黙の後、アヤはコクリと頷いた。

それは傍目には分からないほど小さい頷きであったが、綾の目には充分だった。


「知ってて否定しないでくれたのは、アヤだけだ。」

アヤは顔を上げて何かを言いかけたが、それは綾によって奪われた。

「ママがね、気持ち悪いって。陸上に強い藤枝学園に行きたいって、この間勇気出して言ったんだ。」

藤枝学園は男子校だが、トランスジェンダーの女子を受け入れた例があり、陸上でも全国大会に常に名を連ねる強豪校だ。

綾の言葉は尚も続く。

「このまま女として生きるくらいなら、死んでしまいたい…まだ〝女〟になってない内に、死んでしまいたい。」

綾が楽しそうに『あたし。まだ生理きてないんだよねー』と言っていたシーンが頭をよぎる。

「うん…知ってたよ。」

アヤは言う。

「綾が痩せたいのは、陸上の為だけじゃなかったの知ってたよ。このまま痩せていたらずっと生理は来ないかもしれないから。だからずっと、倒れるまでギリギリの生活を続けてたんだよね。」

「そこまで気付いてくれてたんだね。」

綾はホッとしたような顔をした。

アヤは胸がギュッとなった。知っていた…全て。随分前から、ずっと…


大丈夫だよ…そう言ってアヤは門越しの綾を抱きしめた。


「一緒に逝こう。」

アヤは綾の耳元で囁いた。

「…何言ってんの、こっちは本気なんだよ。冗談はやめて。」

「本気だよ。ずっと前から、もし綾がこの選択をする時は、一緒に逝くって決めてたの。」

「なんで…?なんでそんな事決められるの?茶化してるの?」

「茶化してないよ。前に話してくれたよね。自殺した同性愛者活動家の人の話。その頃から、いつか綾はその選択をしちゃうんじゃないかって怖かった。でも、そうするなら、私も一緒にって決めてたの。」

「そんな事簡単に決めないでよ。」

綾はアヤを軽い力で突き放すと、怒りの滲んだ目でアヤを見た。

「本気だよ。一緒に逝くよ。」

あまりにもキッパリとアヤは言った。それは、確信を持った、もはや宣言だった。その強さに、綾は思わず頷いてしまった。

「…分かった。茶化してるんじゃないって事は。でも一緒にはやめて。」

「じゃあ生きてくれる?」

「それは…」

アヤの問いに、綾は答えられない。

アヤがそうすると決めるずっと前から、もしこの先も女性としてしか生きる道が無いのなら、死んでしまおうと決めていた。

ずっとずっと違和感だった、自分の性。

少しずつ胸が膨らみ始めた事に気付いた時は、嫌悪感で一日中吐いていた。その後、母親が女性用の下着を買って来た時は、あなたは女の子なのよ、という母からの無言の圧のように感じて、完全に心は行き場を無くした。

母もずっと、薄々気付いていたのだろう。藤枝学園に行きたいと言った時は、驚いた様子は無かった。ただ、泣きながら一言だけあのセリフを言った。


キモチワルイ


その一言は、勇気を出した綾を絶望の底に叩きつけた。その言葉に、今も胸からは鮮血が流れるようだった。それはドクドクと噴き出して、止まらない。止める方法は一つだけだ。


「アヤ、ありがとう。一緒に逝こう。」

綾は力無く笑った。その笑顔は決して希望に溢れたものでは無かったが、アヤは嬉しかった。


「うん。絶対。一緒に逝こう。」

門扉越しにもう一度綾を抱きしめた。

「いつにする?」

「今すぐにでも。私が女になってしまう前に。」

「分かった。今夜、いこう。」

何もかも捨てて二人だけで今夜いこう。2人で居れば怖いものなんて無いよね。

「コッソリ私の家に入ろう。」

アヤが綾を誘った。

綾は静かに頷き、アヤの後に並んだ。

玄関をそっと開けて、誰も起きてきて居ないのを確認して、自分の部屋に招き寄せた。


急いでメイクをして、まだ作りかけのワンピースを着た。

晴れた冬の空の色のワンピース。

「どう?」

「よく似合ってる」

綾は心から微笑んだ。アヤは照れ臭そうにくるくると回った。優雅に揺れ動く裾が、金魚を思わせて思わず見惚れてしまったが、綾は口には出さなかった。

「綾は準備は必要ないの?」

「うん、要らない。特に着たい服も持っていきたい物も無いし」

「そっか…じゃあ私もアレ、ママから盗んで来るね」

そう言ってアヤは廊下に出ると、静かに階段を降りてリビングに向かった。

リビングのサイドチェストの引き出しには、アヤの母親が常備している睡眠薬が大量にある。

どれくらい必要なんだろう。いいや、あればあるだけ。

アヤはそれらをゴッソリ盗んでバッグに詰めた。


そしてまた静かーに階段を上り自室に着くと、「持ってきたよ」と綾に渡した。

まるでお菓子でも持ってきたかのような手軽さに綾は面食らったが、これからしようとしてる事を考えると、自分が言えた義理では無いと思い直した。


思い出の公園に行って、これを飲もう。朝にかけて大雪警報が出ている今夜なら、きっと凍死できるはず。


二人で、ね

二人で、必ず


アヤは立ち上がると、

「そろそろ行こうか。」

と、コートも羽織らずに言った。


だって、寒ければ寒い程いいでしょう?


綾は浅く頷くと、家を出るアヤに従った。


「寒いねー!流石に」

「ほんとだね、でも気持ちいい」

「うん、それになんて綺麗な夜」

白く積もった雪が街灯を反射して、いつもより明るく見える真っ白な夜の世界。

こんな夜に逝けるなんて幸せだ、と二人どちらともなく言ったので、顔を合わせて笑ってしまう。


これから死にに行くなんて信じられないくらい心は穏やかで、ワクワクさえしている。


もうすぐ終われる…女になる前に。

「もうすぐ、女でも男でもない魂の世界に行けるんだ。」

綾の呟きに、アヤは「うん」と優しく笑った。


それが綾の望み。


一人でなんて逝かせない。

一人で私の知らない世界になんて逝かせない。どこまでも一緒よ。


それがアヤの望み。


雪道をひたすら歩くと、懐かしい公園が見えてきた。遊具は雪を被り、誰も歩いた形跡の無いひたすら真っ白な公園は、普段とはまるで違う様相を呈していた。

ここがあの世とこの世の境目なんではないだろうかと錯覚するほど美しかった。


砂場にあるトンネルの中に、どちらからとも言わず身を折って入った。小さい頃、二人でよくこの中に入って遊んだ場所だ。


アヤは「これ…」と、小さな小瓶を取り出した。

「ママが飲んでるやつ、パクってきた」

その小瓶の白い錠剤達は、睡眠薬だ。

包装シートに一粒一粒包まれた大量の睡眠薬を、小瓶に詰めて持ってきたのはアヤだった。

精神科に通うアヤの母親は、使わなかった睡眠薬を捨てずに大量に取っておく癖があった。

それをアヤが知っている事は、勿論気付いていない。

箪笥の奥に仕舞われた、母親の秘密を知ってしまったのはいつだっけ?

いや、もうこの際どうでもいい事だ。


「本当にいいの?」

綾(りょう)が不安そうに聞いた。

「何度も言ってるでしょ?後悔なんてしないって。」

アヤは白い錠剤を小さな山が出来るくらい手に出すと、それを口に放り込んだ。

大丈夫。綾のいない世界を一人で生きてく方が嫌。そう口にしたかったが、もう言葉にならなかった。


大量の錠剤は、思ったより飲むのに苦労した。

二人は飲みきるまでに大量の水を消費しなければならず、飲みきった頃にはお腹が苦しくなってしまった。

「お腹たぷんたぷんなんだけど」

アヤが言うと、

「私も」

と言って綾が笑った。

そうして二人で笑い合って、どちらともなく、この世で見れるお互いの笑顔はこれが最後だねって話をした。

「死んだらどうなるんだろう…」

綾が今更とも言える疑問を口にした。

「分からない。でもずっと一緒だよ。私、絶対綾の手離さないから」

アヤが手を握ると、綾はコクリと頷いて握り返してきた。その顔には一筋の安堵が浮かんでいて、それはアヤには希望だった。


バイバイ、大っ嫌いなこの世の中。

バイバイ、ママ。最後まで私を否定したまんまだったね。

さよなら、優しかった人達。

さよなら…



二人の意識は、深い晦冥の中へと堕ちて行った。



















暖かい…お湯の中みたい…どこだろう、ここは。雪の中にいたはずなのに。

アヤが目を開けて周りを見渡すと、ピンク色の見覚えのないお風呂場だった。


隣を見ると、綾が目を閉じて居た。どれくらいの時間が経ったのだろう。

アヤは綾の頬に触れた。そばにいてくれてよかった。

「アヤ?」

綾が目を開けた。

「ここ…どこ?」

「お風呂場みたい。誰かが連れて来てくれたのかな?私もさっき目が覚めたの。」

「そっか。でも心地良いね」

「うん、なんだかフワフワする」

「なんか…お腹痛いかも…」

「え、綾?大丈夫!?」

綾がお腹を抑えたその時…ふわりと何かが舞った。


それは赤くて、金魚の尾鰭のようだった。

「なんだか金魚みたいだね。」

アヤが言うと、綾は一瞬口をポカンと開けて呆気に取られた顔をしたが、次の瞬間クスクスと笑い始めた。

今度はアヤが呆気にとられる番だった。

「なんかおかしい事言った?」

「ううん…でも可笑しくて」

綾の笑いは止まらない。

「金魚かぁ…」

「うん、綺麗だよ。」

アヤの真剣な顔に、ますます綾は笑った。




終わり

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少女心中 水都クリス @chrischan

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