Case 4 兄と弟 朔太郎③
「……そうか。なるほど。つまり朔ちゃんは『並行世界』から来たのかもしれない、ということになるな」
書店のガラスドアから覗く夕暮れの空を、カウンターの後ろに二人並んでぼんやりと見ながら、訥々と朔太郎が弟の話をし終えたとき、紬は形の良い眉を片方だけ軽く持ち上げただけだった。
長い沈黙が満ちて、思い切って話をしてみたものの、朔太郎は自身の選択を間違えたのではないだろうかと思い始めた矢先。
冒頭の台詞は、紬がそのまま暫く自分の中で朔太郎から聞いた話の真偽を、吟味した後のことである。
「……『並行世界』? 何ですかそれって?」
どこかで聞いたことがあるその言葉に、朔太郎はそれがどこだったのかを思い出せないまま、紬に問い返していた。
「並行宇宙、とか並行時空とも言われている。つまり、今いるこの世界と並行して存在する、別の世界だな。その分岐点となる元の世界が一体何処であるのかは分からないが、世界とは無数の分岐点があり、その数だけ並行世界があるとされている。まあ、それだけの数があるのなら、今いる世界と似たような世界もあれば、全く違うのもあるだろうな」
きっと朔ちゃんは、弟の存在の有る無しは置いといても、よく似た世界から来たんだろう、と続けた。
「……はあ。そう、ですか」
朔太郎は、全身の力が抜けてゆくのを感じる。脱力感とは、こういう事を言うんだなぁと頭の片隅にやたらと冷静な自分がいて、この状況を面白く思っているのもまた、事実だった。
白い目で見られるかと思ったが、ごく当たり前のことを話しているような紬の様子に、拍子抜けしたのだ。
自分では、おかしなことを話しているつもりはないんだけど、おかしな目で見られることに慣れすぎたのかもしれない。
「そのプールが、怪しいな。落とし穴に落ちたみたいだったと言っただろう? 多分その時に、朔ちゃんは『
あの夏の日。
ビニールプールの揺れる水面。
「それで弟の存在が消えてしまった以外に、それまでとは違う何か、みたいなのは無いのかな?」
朔太郎はあの日の出来事を、思い出し得る限り細かく語った。
「今も覚えているのは、あの日の事くらいで。いや……。そうだなぁ……? 他に違うところ、か。もう何十年も前のことですからね? 僕も弟みたいな能力があれば別なんでしょうけど」
「能力?」
「お話ししませんでしたか? 弟には瞬間記憶能力みたいなのが、あるんですよ。一度見たものや、覚えたことは忘れないってやつです。僕は、まったく普通にナイですけどね」
「それはまた、厄介な能力だな。忘れることが出来ないのは、ちょっとした拷問だよ。夜中に突然、自分のしでかしてしまったあんな事やこんなことを、思い出すだけで身もだえするほどなのに、いつか忘れたいと思うことすらも、忘れさせてもらえないなんてな」
やれやれ、と首を振る紬を見ながら、ひとり夜中にしでかしたことの後悔に悶絶する彼女を想像してしまった朔太郎は、紬とは違う意味で首を横に振った。
その時目に入って来たのは、ガラス越しに犬を散歩させている人。
……散歩。
「あ、ひとつだけ思い当たるのがあります。……違うといえば、それかなぁ。実家の近くにある……そんな近くでもないですけど、その公園のモニュメント」
その公園には、猫を散歩させている人物の像がある。
……いや。像があったのだ。
プールに落ちる前は。
犬ではなく猫が後からついて来ている様子のその像を、弟が好きだったのでよく覚えていた。(見て! 猫がいるよ!)
その像がなくなっていた。
正しくは人物はそのままに『猫』だけが消えていたのである。
朔太郎もまた『散歩させているのは猫』というのが面白いと思っていた像だったので、無くなったのはどうしてかと一緒にいた父親に尋ねると「確かにこの博士は猫を飼っていたけど、散歩する猫の像なんて最初からなかったよ」と言われて驚いたのだった。
「なるほど。殆ど分からないくらいの差だな。朔ちゃんの元の世界とこの世界も、そのくらいの差なのかもしれない」
気をつけて、目を凝らして見なければ分からない違い。
「ところで朔ちゃんは、今でも戻りたいと思うのかな?」
すでに、遠くなってしまった過去。
「正直……分からないです。弟の存在は気になるし、本当のところを知りたいと思う自分がいるのは、確かですけど。紬さんの言うように、僕が並行世界から来たという前提ならば、元の世界の両親は僕が居なくなってどうしたんだろう、とか……。どうして僕だけがあの時……とか。
僕が移動してしまった。そうすると本当に元の世界には、僕が居ないんですかね? もしかして入れ替わっているだけなのかも? とか、知りたいことは沢山あります。だけど、帰りたいかと聞かれても……。そしたらこの世界の僕がまた消えるってことですか? それだけじゃなくて、別の僕が現れる? まさかね。そしたらこの世界の両親や友達は、どう思うんだろうとか……」
「わたしも……朔ちゃんに居なくなられたら困るな」
寂しげに呟く紬の横顔を見てどきり、と心臓が大きな音を立てる。
「え? それって……」
「こんな書店なんかでバイトを新しく補充するのは、結構大変なんだよ。そもそも成り手がいないし、その上仕事を一から教えるのも面倒だしな」
「……ですよね。ははは」
乾いた笑い声を上げるしかない朔太郎は、がっくりと項垂れた。
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