Case 4 兄と弟 龍之介



 兄がいた。


 仲の良い兄だった。

 勿論、当たり前だが喧嘩もした。仲違いもあった。仲が良いばかりでもないのは、どこの兄弟にもあることだが、楽しい思い出が多く龍之介にとっては優しい兄だった。

 自身の能力を持て余し、ひたすら怖い夢ばかり見る幼い龍之介に、覚えたいものだけ『シャッターを押す』という方法を使えたら良いのにと言ってくれたおかげで、龍之介がその後救われたことを兄は知らない。


 その兄の存在は、ある日を境に突然消えてしまったから。


 そう。

 ……あの暑い夏の日。

 兄の名前は、朔太郎。




 「そっか空穂うつほさんは、んですね……」


 熊谷ユキが、頬に手を当てながら言った。

 事務所に全員が揃った朝も早い時間、倉部が空穂を見つけた日の話に加え、空穂が世界を移動した後の話を倉部から聞いていた。

「並行世界を移動した誰もが、その入り口が判るわけではないってことだな」

 デスクに腰を寄りかかるようにして立つ倉部が、両腕を組みながら答える。

「『長い時間、元の世界とは違うところに居ると入り口が見えるようになるのではないか』というこれまでの仮定は、今のところ当てはまらなくなったな。ユキだけが見える理由は何なのか分からないが、並行世界へ紛れ込んでしまった人間は、帰りたくても帰れないということになる」


「うーん。自分たちも、あちこち入っていますが未だに入り口が試しがないですもんねぇ。……と言っても並行世界に長くいた人は、ユキさんと空穂さんしか知らないですから、まだ何とも言えませんけどね? ……っと、そうだ。言うの遅くなりましたが空穂さんとの再会、おめでとうございます! 心なしかチーフが小綺麗になった訳が、よく分かりました。いや、今までがあまりにもオッサン過ぎたとか、荒れてたとか、勿体なかったとか、そう言う訳じゃないですよ? ん? あれ?」


「ほほう。よく分かったよ、鬼海。お前がそういう目で俺を見ていたんだってことがな」

 鬼海の隣に立っていたユキが、真面目な顔でその肩を優しく叩く。

「鬼海さん。短い間でしたが、ありがとうございました」

「ええーッ……!? りゅッ龍之介くん、何か言ってよ。ねえ」

「えっと……鬼海さん、残念です」

 反対側に立っていた龍之介の両肩に手を置き、援護を求めたものの目を逸らし断られた鬼海は、がっくりと項垂れる。

 そこに笑いを噛み殺した倉部の声が被さった。

「鬼海」

 呼ばれて鬼海が龍之介の両肩に手を置いたまま、ゆっくりと倉部を振り返る。

「……と、いうことは?」

「猫の手よりマシなんだから、辞めさせるわけないだろ」

「……ですよねー」

 猫に失礼ですよ。あれ? 自分に? と呟きながら大袈裟に、ほっとしてみせる鬼海にユキが柔らかな笑い声を立てる。

 

 龍之介はそれを見て、笑みを引っ込めた後「ちょっと話は変わりますが、ずっと考えていたことなんですけど」と、倉部に空穂の並行世界を行き来するきっかけは祖父にあるのではないかという考えを述べた。


「空穂さんの並行世界の移動は、ぼくが思うに、お祖父さんが鍵を握っていたんじゃないでしょうか?」

「それ、考えすぎじゃない? 偶然じゃないの?」

 そう聞き返す鬼海に、ひとつ頷きながら龍之介は続ける。

「確かに、偶然かもしれません。でも単純にそう言い切れないような気がしませんか? 最初の移動は、空穂さんのお祖父さんが心臓発作を起こしたことを目撃した後です。ただし、その事実は世界によって違いますが……一方では発作を起こしてはいませんからね。そして次の移動は、お祖父さんの死去に伴うものでした。この場合は、どちらの世界も共通しています。この二回の移動については、空穂さんのお祖父さんがきっかけになっているような気がするんです。まず元の世界AからB、つまりこの世界へ移動したのがお祖父さんの発作。それからBからAに戻り、再びお祖父さんの死去によってAからBに移動した」

「わあ。そう考えてみると、そうだネ」

 鬼海は、なるほど、と顎に手を置いた。

「じゃあ、龍之介くんはひょっとして、空穂さんにとってこの世界は正しい方、と考えているのね?」

 ユキの言葉に、龍之介は頷く。

「……はい。倉部さんには酷かもしれませんが……。でも微妙なんです。すべての話を繋ぎ合わせていくと、ある時から……この場合は、ひょっとすると車の事故の少し前から……空穂さんはしか存在していない様なんです。つまり……」


「つまり、空穂は二つの世界を共有しているということか……」


 倉部が、龍之介の後を続けた。


「霊園で起こった移動。この世界Bから元の世界Aに戻るきっかけは不明だが、戻った時には時間も戻っていた。……そのねじれが起きたのは、空穂が一人で二つの世界を共有しているから、と言いたいんだな?」


「はい。この世界の空穂さんが何処に消えてしまったのかは、分かりません。でも、事故の直前にしまったのならば、また別の、こちらとは乖離の大きな世界に移動してしまったのかもしれません。そして……これは可能性としては大きいと思いますが、移動した先の世界で残念なことになってしまったと考えたらどうでしょう? さらには『世界』には元に戻そうという力が作用するため、なんとか『世界』が折り合いをつけようとした結果が、の空穂さんに、この世界と元の世界をまかなわせる方法。それしかなかったのかも……ちょっと都合の良い考えかもしれませんが」


「自分、頭がこんがらがってきました。ちょっと整理させてください。ユキさんは、完全に違う世界の人ですよねー? それゆえに異物である、と。一方で空穂さんは、この世界の人ではないけど、この世界の空穂さんの代わりが出来るってことですか? だけどそれって、あくまでも『世界』の介入があるって理屈ありきだよね? そうですよね?」


「それに、このA、B二つの世界線においては、空穂は死んでいないという前提なんだな。Cや、Dの世界では空穂が事故で亡くなるということもあるが、あくまでもこの世界と元の世界で空穂はとして物事は進んでいるということか」


 文字通り鬼海が頭を抱えながら、倉部と龍之介を交互に見る。

 そんな鬼海に向かって、龍之介はまた頷いて言った。

「そうです……というか、そうなんじゃないかなって思うだけなんですけど」

 それからユキが、一言ひとこと何かを確かめるように話すのを、皆それぞれの表情で聞いたのだった。

「だからこそ今のところ入り口は、わたししか見えない……。わたしがは、やっぱり異物だと『世界』の方が認識しているからと考えるのが妥当な気がします」


「不思議だよな。『世界』の介入や、その線引きは何なんだ?」


「不思議といえば、並行世界で自分自身と出くわさないのも、不思議ですよねー? 世界によっては存在してない可能性もありますが、ユキさんなんてニアミスの連続だったし……? んー? ……あ、そうか!! 分かったかも。並行世界の自分は磁石の同じ極のようなもので、反発しあってるんじゃないですかね? ある程度の距離を近づくと、知らず離れるように移動するとか? いやあ自分、天才じゃないですか? ねッ? ねッ?」


 突然閃いた鬼海の考えに、龍之介が同調するように何度も頷きながら顔を輝かせた。


「確かに。確かに……そうかもしれません。反発しているのかも。そうすると、それはもしかしたら、ぼくたちは磁力線に沿って、制限のある磁界の中を動いているのに似ているんじゃないかってことですよね」

「龍之介くん、ごめん。難しいことは分かんないけど、もしや天才なのは認めてくれてる?」


「えっと……」


「龍之介、ほっとけ。……でも、そうだな。見えない幾つもの磁力線、そして磁界の中に居る……か。それよりも何だか、量子力学みたいになってきたな。パウリの排他律みたいなことか? 簡単に言えばひとつの席には、ひとりしか座れない。同じ人間スピンは、同じ世界にはいられない。もしかしたら、『世界』とは、そういう理屈なのかもしれない。知らずに並行世界に紛れ込んだと思われる山縣さんの話、覚えているか?」


 いつもの鬼海を冷たく遇らった倉部は、自身の両腕を組み直した。

 ユキもまた、同情的な目線を鬼海に送りながら倉部の話に相槌を打つ。


「ええ、わたしも覚えています。……量子力学は、分かりませんけど。何となく倉部さんの言いたいことは分かります。本人のところで、本人とよく似た人を見るドッペルゲンガーの話も合わせると、その可能性はないとは言えませんよね? 実際の本人は別の所にいたと、主張するんですから。つまりこの別の所とは、ひょっとして知らずに良く似た並行世界だったとか? ……そうすると、わたしをとこの『世界』が認識するのは……もしかしたら、この世界のわたしは完全に居なくなったわけじゃのかもしれませんよね?」


「見えなくても存在している……? ってことを言わんとしているのか? なんだか幽霊みたいな話になってきたな」


 倉部の言葉に、ユキは黙って首を傾げた。

 皆も押し黙る。

 その答えは、誰にも分からないからだ。


「ユキさんの話は一旦置いておきませんか? ……山縣さんの話に戻りましょう。

 その話からぼくたちは、時折知らないうちに『世界』を跨いでいるのかも? ……ってことになりますよね。でも、そうは言ってもそれを確かめる為に、改めて並行世界に入って自分と出会うまで彷徨う勇気は、ぼくにはありません。まあ、その説からすれば、自分とは大概は出会えないんでしょうけど、それで出会った瞬間にとんでもないところに弾き出されそうで……怖いです」


「分かる! ホントはそんなに分かってないけど。だけど龍之介くん、自分もそれを確かめる勇気はない。断言できるよ。うん」

 それから、話、置いてかないでくださいよー。仲間外れにはしないでくださいよーと鬼海が情け無い声で続けたので、それまでの硬い雰囲気だった事務所に笑い声が満ちた。


「鬼海は揶揄からかいやすいから、つい。悪かったな」

「まあ、いくら考えたところで、さっくり言うと並行世界にルールは存在しても、その不思議は分からないってことですもんね! って……悪かったなって? いま、言いましたか? 謝った? いやあ……いいんですけど何ですかね、チーフ……気持ち悪ッ。いまさらコンプライアンスとかですか? 似合わないことはやめてくださいよー。真人間は似合わないですからね?」


 そう鬼海が言い終えるのを待っていたかのように、事務所の電話が鳴りユキが対応するのを龍之介は、ぼんやりと眺めていた。


 『並行世界』のルール……。同じ人間は、同じ『世界』には居られない。


 並行世界に行ったままの兄。

 そこから弾き出されていないのだとして、さらに『世界』の介入があるなら……。

 兄がいる『世界』は、久原家には子どもが兄とカウントしているということ……?

 一方で、ぼくの世界では人数の増減は『世界』のルールには抵触しない、という法則が当てはまるのだろう。

 『世界』から見れば、久原家に子どもが一人でも二人でもだけでよいのだ。

 人間は変数だ。つまり瑣末なことだからと、片方が行方不明になっても『世界』は何とも思っていないため、干渉の範囲外だと考える方が自然な気がする。

 ざっくばらんに言えば、ぼくの問題は、ぼくの家族の気持ちは、世界全体を数でしか捉えていない場合の『世界』とっては、当たり前に、どうでも良いということ。


 では、兄は帰って来れるのだろうか?



 ユキが倉部に受話器を手渡すのを見て、鬼海も龍之介も、すわ事件かと表情を硬くしたが、それを見たユキが優しく笑って囁く。

「大丈夫、事件じゃないの。柴崎さんだけど、空穂さんが帰ったことを聞いて連絡下さったみたい。今日に限って事務所に電話するなんて、一体どんな訳なのかしらね?」


 ……空穂さん。


 龍之介は話だけで会ったことのない女性を、想像しようとして諦める。

 倉部が柴崎の声に、嬉しそうな様子で相槌を打つ様子を眩しいものを見るようにな目で見ている龍之介の隣で、鬼海とユキはそっと顔を見合わせた。

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