最終章
Case 4 兄と弟 朔太郎
弟がいた。
少し変わった弟だった。一度目にしたものを、すっかり覚えてしまうことが出来る弟。そのせいで、夜にはよく悪夢でうなされていた弟。仲良くしているときは、可愛いと思うけれど大抵は面倒くさい弟。
その弟の存在は、ある日を境に突然消えてしまった。
そう。
……あの暑い夏の日。
弟の名前は、龍之介。
すとん。
落とし穴にでも落ちたのかと思って、一瞬ひやりとした。
ところが尻もちをついているのは、さっきまで助走をつけて飛び込んでいたビニールプールの中だと知って安心する。
なんだか高いところから落ちたような気がしたんだけど、と朔太郎は首を傾げた。
それにしても、静かすぎた。一緒に遊んでいたはずの、龍之介の姿が見当たらない。
あいつ、隠れてるのかな?
かくれんぼをしても龍之介はまだ幼いこともあってか、大抵はじっと隠れていることが出来ない。堪えられないくすくす笑う声が聞こえたり、探す人が近づいて来ても、来なくても、いきなり飛び出してきたりする。
かくれんぼの楽しさが、よく分かっていないのかな、と思う。
いつだって待っていれば、勝手に出てくるから、朔太郎がオニの時は、ひどく間の抜けた気持ちになる。
そう。きっともうすぐ騒がしく出てくるぞ。
朔太郎は耳を澄まし、水の中でじっと待つ。
髪を撫でるようなそよと吹く風もなければ、蝉の声すら聞こえなかった。
じりじりと暑い日差しが照りつける。
プールの中の、ビニールの臭いがする生暖かい水が、身体にまとわりつく。
たぷん、とぷん。
水だけが、まるで意思があるかのように波打っている。その様子を不思議そうに、朔太郎は見つめていた。
ぼくはじっとしているのに、水が動いている。なぜ?
龍之介がいつまでも飛び出して来ないのは、なぜ?
「……
突然、背後から聞こえた母親の声で、朔太郎は我に返る。
お母さん、ジュースって言ってたのに。
首だけ振り返りながら、文句を言おうとした朔太郎の目にしたのは、母の手にあるひとつだけのコップ。
「……ねぇ、龍之介の分は?」
母は、朔太郎の言葉に微かに眉を潜めた。
「だあれ? お友達が居るの? お母さんにちゃんと言っておいて頂戴。いつ来たの? それとも、これから来るの?」
困り顔の母に、朔太郎は言いようのない恐怖を感じる。
「えっ……。お母さん? 龍之介だよ? 知ってるよね?」
「そんなお友達、いたかしら? 幼稚園じゃないわよね? お母さんの知ってる子? ご近所さんのお友達は、女の子しかいなかったわよねぇ?」
のんびりとした母との噛み合わない話に、焦りが募る。
寒くもないのに、がちがちと歯が鳴った。
「……弟だよッ⁉︎ ぼくの弟! お母さん、忘れちゃったの?」
朔太郎は立ち上がり、全身で叫ぶ。
「何を言ってるのよ……どうしましょう……おかしいわね。そんなに震えて……どうしたのかしら? 寒いの? 暑いの? とにかくもう、おうちに入りなさい」
抵抗する間もなく、朔太郎の普段と違う様子に慌てた母によって、ビニールプールから引き摺り出される。
置いてあったタオルで身体を拭かれるまま、朔太郎は為す術もなくぼんやりと庭を眺めていた。
隠れているんじゃないの?
それともお母さんと二人で、ぼくを驚かせるつもりなの?
いつもならプールの後は、風呂場に行かせられるのに、朔太郎は震えながら大きなタオルに
いつもと変わらない見慣れた部屋。
朔太郎はあることを思い、タオルを翻すと階段を駆け上がった。
……そうだよ! 龍之介の部屋。
ばたんと、勢いよく開けてそこで目にしたものは、朔太郎には信じられないものだった。
水色の天井からぶら下がる飛行機も、龍之介の大好きな恐竜の汚れたオレンジ色の縫いぐるみも、ごちゃごちゃと散らかった色とりどりのブロックも、いつだって読んだままになっている絵本も、何ひとつ。
……ない。
あるのは本棚とシンプルなパソコンデスク。
「朔ちゃん? 前にも言ったわよね。お父さんの書斎は、勝手に散らかさないでねー?」
階下で声を張り上げる母親は、あたかもそこが最初から父親の書斎であったかのような口ぶりだった。
そうだ。
あの日から朔太郎は、龍之介の痕跡を求めて家中を探しまわる。
まとわりついてきた小さな手や、うるさい泣き声も頭にくる喧嘩も、この家には何もなくなってしまった。
転んだ朔太郎に優しく触れる手も、楽しそうな笑い声も二人だけの秘密の合言葉も、この家にはもうない。
それから、何度か機を見ては弟のことを周りの人達に尋ねた。
周りの大人は「弟が欲しいのね」と言うばかりで相手にはしてくれず、両親に尋ねてみても、朔太郎の願望が夢となって錯覚を起こしているのだと、笑われてお終いだった。
……弟の記憶は、朔太郎にしかないのだ。
ご両親の言うように、小さな頃の夢なんじゃないの? あるいは願望とか?
打ち明け話のできる友人に、その話をしてみても、返ってきたのはそんな言葉だった。
確かに、家には弟の存在を証明するものは何ひとつない。
周りの人に否定され、記憶が曖昧な朔太郎はあるとき「見えない友人」……イマジナリーフレンドというその言葉を知って、弟とは自身の創り出したそのIFなのではないかと疑うこともあった。
いつも自分の側にいてくれる、自分にしか見えない友人。
本当に?
曖昧な記憶と共に朔太郎は大人になったが、弟が存在していたのではないかという疑惑は、成長して過去を振り返るにつれて大きくなった。
家の中にはない確かな記憶。
それは、朔太郎の身体に今も残る傷跡に残されたもの。
左足首に今も薄らと残るそれは、家族で大型アスレチックに出掛けた時のこと。
ロープで板塀をよじ登っている時、先を行く龍之介が足を滑らせ落ちそうになった。
朔太郎は、咄嗟に手を伸ばす。
何かを考えてとった行動ではない。
ただ、どうにかしなくちゃ、という一心。
結果的に龍之介は朔太郎の手を擦り抜けて、ずるずると下に落ちただけで済んだのだが、朔太郎はといえば手を伸ばしたがため、体勢を崩し頭から地面に落ちそうになったのである。
周囲の悲鳴。
世界が反転した恐怖。
しかし幸か不幸か、朔太郎の足首に絡まっていたロープが朔太郎自身を支えることとなり、地面との頭からの衝突を避けることが出来たのは幸いであった。
不幸だったのは、その足首のロープが絡まったまま地面近くまで急直下したせいで、皮膚はロープの摩擦で深く
朔太郎が助けようと手を伸ばしたのは、イマジナリーフレンドではなく、確かに弟という肉体を伴う存在だったのである。
そうでなければ、朔太郎の手を擦り抜けていく時のスローモーションのようなあの動き。この手を掠めた弟の確かな身体の感触。逆さまになる朔太郎を見た、あの驚きと恐怖で歪んだ龍之介の顔。
もしあれが夢や幻であるならば、あのあと強く感じた朔太郎の気持ちは、一体何だというのだ。
助けようとしなければ良かった。
弟さえいなければこんな痛い思いなんて、しなかったのに。
弟の存在を否定されるたび、あの時の恐怖と痛みを思い出す。そして、痛みに泣く自分の側で、心配そうに朔太郎を見ながらも、肉の見える傷の
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