Case 3 過去と未来を繋ぐもの case closed


 倉部は喪服を身に纏い、窓から青空を見ながら電車に乗っていた。小鳥遊弁護士の葬儀が行われた斎場から帰る途中だった。

 故人の行いが良いと葬儀は晴れるとは、誰の言葉が最初だったのだろう。

 

 あの時、あの朝の石田の電話は、空穂の祖父が亡くなったという連絡だった。

 その日の朝、石田がいつものように自宅に電話したところ、小鳥遊氏が出ないことに不安を覚えて向かってみると、ベッドの中で亡くなっている姿を見つけたのだという。

『すごく穏やか顔をしていたよ。息子さんが迎えに来たのかもしれないね』

 石田は倉部にそう言ったが、小鳥遊氏が倉部に打ち明けたあの話が、張り詰めていた何かを結果的に緩ませ、死期を早めてしまったのではないだろうかと考えていた。

『寿命だよ。亡くなる前に、空穂さんに会えなかったのは残念だけど』

 倉部の思いを読んだ石田が、そう慰めるのをぼんやりと聞いていた。

 倉部自身が眠れなかったあの夜、空穂の祖父は永い眠りについていたのだ。

『葬式は上落合にある斎場で、事務所が執り行なう予定だよ。日時が決まったら連絡するから、倉部にも来て欲しい。所長タヌキ先生から預かりものがあるんだ』


 それで倉部はいま、お別れを済ませた後、喪服姿で電車に揺られているのである。

 新宿で乗り換えて事務所に戻るか……そう考えて何かが頭をよぎった。


 ふと自身の姿を見下ろした時、空穂の言葉がフラッシュバックする。常日頃スーツを着ていた頃には何気なく聞き過ごした『黒いスーツ』とは……首元のボタンを外し、特徴的な黒いネクタイをポケットに仕舞った今の、この姿。空穂は夢で勘違いした、あるいは見間違えた可能性があるのではないだろうか? 

 そう。この姿とスーツを。

 ……つまり?

 龍之介の言葉も蘇る。

『空穂さんの夢で、確実に場所が特定出来ているのが、ひとつだけありますよね? さらには、それはまだ起きていない未来の出来事のようでした……つまりは、もしかしたらですけど……空穂さんと会える可能性があるんじゃないでしょうか?』


 倉部がこれから行くべきところ。

 今、はっきりと分かった。

 新宿大ガードの交差点。その辺りに違いないと見当をつけ、倉部は電車を降りる。


 ……馬鹿なことしていると分かっていた。


 灰色の空の下、手に持った傘は閉じたまま小雨が空穂を濡らすままにしていた。

 離れたところでタクシーを降り、ゆっくりと歩いてきた。大ガードが視界に入る横断歩道の上には、細く降る雨と人と傘で溢れ視界が悪かった為、ひょっとしたらこれから起こるかもしれないことを見逃すまいと、少しの可能性を懸けて、空穂は自身の傘を畳んで濡れるのも構わず人波を眺めていたのである。



 倉部は空穂が見た夢のように、あちこちに視線を動かしながら横断歩道を繰り返し、行きつ戻りつ歩いていた。

 並行世界への入り口が見えない倉部には、空穂のいる世界だって見えやしない。それでも、どこかに綻びがあるのではないだろうかと、懸命に目を凝らす。


 

 空穂はしばらくの間、横断歩道を行き交う人々を眺めた後目を伏せ、何も起こりそうにないことを認めた。勢いで、ここまで来た自分に呆れて首を横に振る。

 ひっそりと笑って手にした傘を開いた。


 ……ぽんッ。



 倉部は視線の先に、突然現れた赤い傘に目を奪われた。

 空穂は視線と共に、傘を持ち上げた。


 ふいに現れたお互いの、視線がかち合う。

 世界が動きを止めたような気がした。

 音が、消える。


 再び世界が動き出した時、倉部は腕の中に空穂を抱きとめていた……。





『 空穂へ


 この手紙を湊くんに託したのは、私がどこかで二人がまた、会えると信じているから……いや、信じたいからだろう。

 二人を祝福する気持ちを言葉にしたかったのはもちろんだが、実はこの手紙は、本来なら直接空穂に謝るべき私の、謝罪の手紙なんだ。


 空穂、すまない。

 私は空穂に本当のことを話さずにいた。


 空穂は、ずっと事故でひとり生き残ってしまったことに罪悪感を抱いていたね。

 事故のことを思い出せないことも。

 両親との最後の記憶が曖昧なことも、悩んで苦しんでいた。

 私はその理由を知っていたにも関わらず、本当のことを告げることで空穂が消えてしまうのではないかと、空穂を失いたくないばかりに、酷い嘘をついていた。


 空穂、左手首を見てごらん。

 そこに三角形の火傷の跡はあるかい?


 私の知る空穂には火傷の跡があった。それは同じようで、違う空穂がいること、私の知る空穂と君は別人であることの証拠なんだ。

 ああ、上手く伝えられない。

 あの日消えた後、いま湊くんと再び会えた空穂には、その意味が分かると思う。

 あの事故の夜、私の目の前に突然現れた空穂は、私の知る空穂ではなく、どこか別にいる筈だった空穂だといまは確信している。


 事故の夜、私の知る空穂は何処かに消え、君が私のところに現れてくれた。

 なぜこんなことが起きたのか、どうしてこんなことが起こるのか、それは誰にも分からない。


 私は愛する者全てを失い、ひとりになる恐ろしさを受け入れられなかった。

 君を元の場所に返す術が分からないのを良いことに、君の記憶を騙してまで傍に引き留めたてしまったことを申し訳なく思う。

 ありのまま、起こったことを話す。

 あの時そうしなかったのは、君には理解させるのは難しいとか、上手い説明が出来ないからではない。ただ私が、それをしたくなかっただけだったというのが、今になってよく分かる。


 私のエゴが、もしかして全てを狂わせてしまったのだろうか?

 

 それは結果として、両親と過ごすはずの日々を君から奪い、君と過ごすはずの亘と千佳さんから、君を奪ってしまったのだろうか? 


 ……真実は誰も分からない。

 

 けれど君が……こうして再び空穂が、消えた今、ずいぶん戻るのが遅くなってしまったとはいえ、元の世界の居るべき場所に帰れているのだと、願ってやまない。

 私が奪ってしまったかもしれない時間を戻すことが出来たら。空穂、亘、千佳さん……君たちにそれを取り戻させてあげられないのが、苦しい。


 こうしてひとり取り残されて思い出すのは、愛する者が傍にいた何気ない日常ばかりだ。とくに私が君と過ごせた日々は、毎日がいつ壊れるとも知らない繊細な宝物だった。


 本当に、奇跡の日々だったよ。

 

 空穂は私といて、幸せだったかい?

 ほんのひとときでも、そう感じる瞬間があったことを願わずにいられない。


 湊くんには全てを話してある。


 どうか、どこにいても、どこに行こうとも君は幸せに。最後までひと目会いたいと思っている私は、どこまで強欲なんだろうな。

 

 空穂へ、いつまでも幸せを祈る。  』



 手紙を読み終えた空穂は、目を上げて隣に座る倉部の視線を静かに受け止めた。

 涙が頬を濡らしていることに気づき、慌てて掌で拭った後、スカートのポケットからハンカチを出して拭き直そうとして、着替えを済ませていたことに照れ笑いをする。


 その場に居たら、また空穂が消えてしまうのではないかと不安に駆られた倉部が、タクシーを捕まえ自宅マンションに向かったのは自然なことだった。

 雨など降っていないのに傘を持ち、喪服姿で水を被ったような空穂にタクシーの運転手は奇異の目を向けたが、異様な雰囲気を感じ取ったのか余計な詮索も、軽口のようなお喋りもなかった。

 今、目の前に座る倉部の大きなTシャツとスウェットパンツを身につけた空穂は、小さくて、また消えてしまいそうで、倉部は再び腕の中に閉じ込めておこうと、手を伸ばしかけて止める。空穂が何か話そうとして姿勢を正したからだ。


「……この手紙で、お祖父ちゃまが心配していたことだけど、わたし戻ったの。……多分。元居た『世界』に戻れたみたいなの」

 

 空穂はあの日、倉部の前で姿を消した後のことを話し始める。

 二十九歳の記憶を持った八歳の空穂が、歩んできた長いながい時間を、その日々を、空穂は倉部に打ち明けた。


「そうか……空穂は消えてから、二十八年も……それに比べてこっちは、たった六年だったのに……」


 それでも長い時間だったとは、弱音を吐けない。


「あははっ。お互いに、あの日から六つも歳をとっちゃった。だけど過去に戻れたおかげで、いまこうして同じ時間軸にいるのかもしれない。この世界に、八歳のわたしが現れたら困ってしまうわよね? それとも五十七歳の、わたしだったりしたら?」


 明るく振る舞う空穂のその強さに、倉部は、かなわないと思う。


「向こうの『世界』にも湊さんは居たのかもしれないけど、探す気にはならなかった。だって湊さんであって、湊さんじゃないし。

 ……あ、違うの。違うから。かと言って湊さんと逢えるのを、待っていたわけじゃないのよ? 他の人とも出会った。なのにまだ独りなのは、それでもなんとなく……だから、全く期待していなかったとも言えないし……諦めがつかなかったと言いますか……」


 俯く空穂の耳が、赤くなる。

 倉部は自身の幸運が、怖い。

 いつか再び消えてしまうかもしれない空穂を目の前に、手放しでこの幸せを受け止められない自分が情けなかった。


 だが待てよ。と、倉部は思い直す。

 

 その日が、いつ来るのかは分からない。

 明日かもしれないし、二年後かもしれない。あるいは、どちらかが亡くなるまで共にいられるかもしれない。

 ……しかし、それは誰にだって起こり得ることだ。

 冷静に考えてみれば、突然の事故や病気で大切な人を失うのと、何ら変わることはないのである。


 未来のことは、分からない。

 それは当たり前のことだ。

 一緒に居たいと、ただ、願うだけ。


 倉部は空穂を引き寄せると、自身の腕の中にきつく抱きしめ、囁いた。


「空穂のご両親には、心配させることになって申し訳ないが……遠いところにお嫁に行ったと思って、いつか諦めてくれる日が来るだろうか」


「……そうねぇ。黙って居なくなってしまったのだから、きっと心配するでしょうね。

 でも、それはわたし達がどうしようも出来ないことだし。考えても仕方のないことじゃないかな? それに……もしかしたら、もしかしたらね? また別のわたしが……」


「しーっ。いいからもう、黙って……」


 空穂の笑い声が倉部の耳に心地よく響く。

 倉部はゆっくりと、再びその甘い首筋に顔を埋めた。

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