Case 3 過去と未来を繋ぐもの ⑨
現在
倉部がソファの上の毛布を畳んでいると、事務所の扉の暗証番号を入力する電子音に続いて、それの解除されたブザー音が聞こえた。
時計は、見ると七時になろうとしている。
……誰だ? こんな早い時間。
足音がしたと思ったらすぐに応接室のドアが開いて、外の冷たい空気を纏った龍之介が顔を見せた。
「……龍之介? どうした? 何かあったのか?」
心配そうな顔をする倉部を見て、龍之介は張り詰めていた緊張が解け、ほっと息をつく。毛布を畳んでいるところを見れば龍之介の予想通り、倉部は事務所で夜を明かしたようだった。
ああ、やっぱり居た。大丈夫だ……。
でも何が大丈夫なんだろう?
倉部さんが酒井さんのように、現実から目を逸らし逃避するとでも? まさか? いや、そのことが少しも頭を
「おはようございます。ぼくの方は、大丈夫です。……倉部さんは、大丈夫ですか?」
顔色が悪く、少しも大丈夫そうにない倉部に、龍之介は手に持っていた袋からコーヒーを、そうっと溢さないようにひとつ取り出した。
「近くのコンビニで買ってきたんです。まだ熱いから気をつけてください」
毛布を脇に抱えた倉部が、空いている方の手でそれを受け取った後、龍之介はもうひとつ自分の分を取り出し、テーブルに置く。
「……何かあったんじゃないのか?」
プラスチックカップの蓋にある飲み口を、器用に親指だけで開けながら怪訝な顔で龍之介に尋ねる。
龍之介は首を横に振ると、カップの底を支えていた紙を折り、さりげなくビニール袋を畳んでポケットにしまった後、ソファの向かいの一人掛けの椅子に腰を下ろしながら答えた。
「正直、ぼくにも分からないんです。……虫の知らせって言うんでしょうか? 夜中にふと、どうしても行かなくちゃならないって思ったんです。倉部さんが呼んでるような気がして」
倉部は、そう言いながら小さな笑みを浮かべた龍之介を見たとき、それが何か、なぜなのか分かったような気がした。
シンクロニシティ……。
倉部と龍之介は目の前で親しい人を失った。倉部が空穂のことを考えていると時を同じくして、龍之介もまた兄のことを思っていたその二人の意識は、別々の場所にあっても無意識的に同調していたのかもしれない。
二人を引き寄せるほどに。
倉部は龍之介にコーヒーのお礼を言いながら、口をつける。香り高いとはいえないコンビニの、コーヒーの熱さが唇に触れたとき、倉部の曇っていた頭の中が晴れたような気がした。倉部は目の前の龍之介をしみじみと眺めると、畳んだ毛布を傍に置き再びソファに腰を下ろした。
向き合って座る龍之介の、一見すると少年を抜け出したばかりのような青年にしか見えないその姿には、落ち着きと不思議な静かさがある。
つまるところそれは、衝動的な感情に動かされ朝の早い時間に突然事務所を訪れたにも関わらず、倉部が昨日事務所を飛び出して行った理由も、なぜここで寝起きしているのかも、何も聞かずに黙ってコーヒーを飲むことが出来る成熟した知性が、龍之介には隠れているということだ。
この見た目に惑わされず、龍之介の本質を知る人は、どのくらいいるのだろう。
そのとき、倉部はこの話は龍之介にするべきことなのだと本能が告げているのを感じた。
もしかしたら龍之介でしか、気づき得ない何か、があるかもしれない。
唇を舌で湿らせた後、間違いなく他の誰でもなく龍之介相手でなければ、話さなかったであろう話を倉部は始めた。
最初のうちは、訥々と。次第に熱を帯びて……それは、倉部が空穂の祖父に話した自身の経験した霊園での出来事と、小鳥遊氏から昨日聞いたばかりの空穂の秘められた過去だ。
倉部が話す間も龍之介は黙ったまま、コーヒーの入ったカップを両手で抱え、時折頷くだけで倉部の言葉に耳を傾けている。
最後に空穂が見たという夢の話を付け加え話し終えた倉部が、唇をきつく結んだのを見て、龍之介は口を開いた。
「……覚えていますか? 酒井さんの手記にあった小学校の壁の、少年の話です。夜になってから、酒井さんは壁の向こうにある並行世界へ行った。にも関わらず向こうの世界は、夜ではなかった。……あれから考えていたんです。並行世界には、この世界の時間軸と同じではない場合もあるんだって。そこで、今聞いた空穂さんの夢ですが、ひとつだけこの世界で起きていないと思われる話がありました。さらには場所まで特定されている。……倉部さんも、もう気づいている筈です。」
倉部は、それこそ頭を殴られたような衝撃を受けた。龍之介にそう言われるまで、気づいていなかったのである。
途端、空穂の声が鮮やかに蘇る。
『……黒いスーツ姿で新宿カレイドビル前の横断歩道を歩く姿。横断歩道を渡っているんじゃないの。きょろきょろしながら、何か、あるいは誰かを探してる……』
いちばん鮮明に覚えているとまで、空穂は言ったのではなかったか……?
「もしかして、それは空穂さんの見た未来なんじゃないんでしょうか? そして空穂さんの夢として現れたそれは、シンクロニシティのひとつと言えませんか? ぼくと倉部さんにでさえ、こうやってシンクロニシティが起きるのなら、倉部さんと空穂さんがお互いを思う気持ちの方が強いことを考えると、それもまた可能性のひとつじゃないかと思うんです」
「つまり……?」
龍之介が何かを答えようとした時、テーブルの上におかれていた倉部の
妙な胸騒ぎを覚える。
その着信音を、早く消してしまいたいと電話に出た倉部耳に聞こえたのは、会ったばかりだというのに奇妙に懐かしく感じる石田の声だった。
……空穂は空を見上げている。
灰色の空から細かな雨が落ちてくるのを、服や顔が濡れるのも構わず傘もささずに見上げていた。
「空穂。こんなところに居たのね? 空を見上げて……お祖父ちゃまにお別れを済ませていたの?」
喪服を着た母が、空を見たまま頷く空穂に傘を差し掛けた。
誰が言ったのだろう。お葬式に降る雨は、泣くことの出来ない人の代わりに空が泣いてくれているのだと。
「お祖父ちゃまのお歳は、九十四歳だったし、最期まで
そう言った母の目尻の皺に、涙が薄く残っている。
空穂の目に映る母もまた、歳を取った。
現在葬儀を終え、この上落合にある斎場の火葬炉で祖父の身体が煙になる間、祖父が空を登るのは見えるのだろうかと、空穂は空を見上げていた。
……やっぱり、見えないものなのね。
穏やかな葬儀だった。
悲しみは伴うものの、高齢だった祖父の眠りについたままの死は、人間の自然なる理のひとつとして、誰もがすんなりと受け入れられるものであったからだ。
静かに、穏やかな悲しみが、この細かな雨のように音もなく降り注ぐ。
「いつまでも、そうしていたいのかもしれないけれど、お骨になるには、まだ時間がかかるわよ。お祖父ちゃまの事務所の皆さんもいらっしゃることだし、中で何か飲みながら待ったら?」
母の言葉に、いらないわと柔らかく首を横に振った。
そんな空穂に、何か言いたそうにしながらも、傘を残して母は中へ戻る。
空を見上げながら空穂は、再び八歳からやり直したこの『世界』のことを考えていた。
両親の居るこの世界と、祖父と二人だけで暮らしたあの世界。
あの日、空穂自身に起きたことを自分なりに調べる中で出てきた『並行世界』という言葉が、その答えなのではないかと二つの世界で暮らした上での、空穂の結論だった。
自身の力では、どうにもならないことに翻弄されてきた空穂のやり場のない思い。
長いながい夢のような話。
ある時は過去をなぞるように、またある時は全く知らない未来を覗くように、空穂は八歳のあの日から今日までを過ごしてきた。
時折思い出すことはあっても、このところすっかり忘れてしまっていたあの人の顔が、急にふと思い出されて胸を突く。
空穂は三十七歳になっていた。
なんとなく独り身で、この歳まできてしまったのに理由はない。
ただ、倉部 湊は、この世界の空穂の元には現れていなかった。
自ら探すべきだったのだろうか。この世界のあの人を?
探して何になるというのだろう。
何と思われるだろう。
空穂のことを、全く知らない彼なのに?
本当に、長い夢の中にいるようだった。
……夢?
そういえばあの人を見る夢の中で、ひとつだけ、はっきりと場所の分かるところがあった。
ここからさほど遠くない新宿の……そうだ。新宿カレイドビル……大ガードが見える交差点じゃなかったかしら?
今ちょっと、行ってみる?
その思いつきは、空穂を大胆にさせた。
バスも電車もあるけど、ほらあそこにタクシーがいる。タクシーでなら、お祖父ちゃまがお骨になるまでに、すぐにでも行って帰って来れそうじゃない?
空穂は雨の中、足を踏み出す。
小さな水溜りがその足元で跳ねた。
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