Case 3 過去と未来を繋ぐもの ⑧


現在



 龍之介は目を開けた。


 暗い部屋の中、カーテンの隙間から漏れる微かな空の明るさに浮かび上がる時計は、間もなく四時三十分になろうとしている。

 始発は五時ちょっとだから、急いで支度をすれば間に合う。素早く着替えを済ませようと、布団から跳ね起きた。


 龍之介にはカメラ・アイとは別に、もう一つ特技がある。

 目覚まし時計を使わなくても、起きたい時間に起きることが出来るそれだ。今まで失敗したことはないが、慢心は危険だと分かっているので、流石に寝過ごすわけにはいかない時……ここ最近では入学試験の朝、は念の為アラームだったりタイマーだったりをセットするが、必ずそれより少し早く目が覚める。

 今朝は、昨夜寝ている時に思いついた考えだったので、果たして起きられるかどうか龍之介にも自信がなかったが、杞憂に終わった。

 

 手早く支度を終え、まだ寝ている家族を起こさないように、階段を抜き足差し足で下りる。途中の一段がぎいっと音を立てて、龍之介は少し立ち止まり耳を澄ます。

 分かっていたのに、油断した。思っているよりも気が急いでいるらしい。

 居間のダイニングテーブルに、部屋で書いてきたメモを残す。突然、消えてしまったと思われてないように、両親に心配をかけないように。

 目立つ所に置かれたそれには、アルバイト先に始発で行かなくてはならなくなったこと、連絡を入れるから心配はしないようにと書かれていた。

 龍之介は、静かに玄関の扉を閉める。



 倉部は事務所の応接室のソファで寝られない夜を過ごした。


 寝ようとしても目が冴えて、明け方近くにうとうとするも、脳が倉部を完全には休ませてはくれず、深く眠ろうとすると起きてしまうを繰り返し、身体が痛くなってしまった。

 横になったなっまま腕時計を見れば、まもなく六時半になろうとしている。

 浅い眠りばかりではあったが、少しは寝たのかもしれない。そういえば変な夢を見ていたような気がする。

 上半身だけ起き上がり、ぐしゃぐしゃと頭を掻き回す。

 眠れないのは、昨日空穂の祖父から聞いた話が頭の中から離れないせいだと、分かっていた。

 空穂は、本来ならこの『世界』にいる筈の空穂ではなかった。

 それは別にどうでも良い。

 そんなことは重要ではない。倉部が出会い、好きになったのは、この『世界』のあの空穂なのだから。

 問題は、そのことではない。

 この『世界』に来た空穂は、元の世界に戻ったのかどうか。違う世界に消えたのか。倉部が考えて分かることではないが、何かどこかに、ヒントになるものがあるのではないだろうか。

 そればかりが倉部の頭の中を堂々巡りし、浅い眠りで断片的な夢ばかり見る、眠れない夜になったのである。

 ……そう。

 ……夢。

 頭を掻き毟る手が、ぴたりと止まる。

 空穂が繰り返し見たという、倉部の夢だ。






1990年 空穂 

 


 どのくらいの時間、そのままの姿勢で居たのだろう。

 空穂は姿見の前で呆然と、自身の目に映るものを見ていた。

 母手作りの温かいキルト生地で出来た、小花柄の淡いピンク色をしたお気に入りのパジャマを着ている。ふっくらとした子どもらしい頬。寝癖により跳ねた毛先が、窓から差し込む朝の光に透けている。

 部屋のドアを静かに開ける音が聞こえた。

 空穂は音の方へ首を動かし、ゆっくりと伏せていた目を上げ、息を飲んだ。


「……空穂? あら、起きていたのね? 寒いのだからいつまでもパジャマでいないで、早くお着替えなさいな」


「……ママ……?」


 ……ああ、信じられない。

 驚きの後、少し遅れて懐かしさが涙と共に込み上げてくる。


 また、会えるとは思わなかった。

 誰だって死んだ人とは、もう二度と会えないと知っている。

 それなのに……?


 空穂の記憶では、遥か昔に亡くなった筈の母。……今、目の前に居る母は確か三十八歳だったと思う。母親としか見ていなかった子どもの時には、思いもしなかったが、改めて二十九歳の空穂の目から見れば、対して歳の差を感じないその若々しく美しい姿に、目を見張る。それなのに、あの事故で……。


 これは、夢……?

 それとも、わたし死んでしまったの?


 静かに涙を流し続ける空穂に、そっと近寄り慰めようと抱きしめる母の柔らかな温かさ、忘れかけていた懐かしい匂い。


「そんなに泣かなくても、お祖父ちゃまは大丈夫よ。後で病院に、お見舞いに行きましょうね」

 何を思ったのか、泣いている空穂に優しく声をかけた母の言葉に驚き、空穂の涙はすっと引っ込んだ。「顔を洗って、お着替えして階下りてらっしゃい」

 そう言うと頭をふわりと撫で、部屋から出て行く母の背後姿を見ながら、覚束ない足元で立ち上がる。顔を洗うため、素直に洗面室へ向かった。


 お祖父ちゃまが……入院?


 顔を洗い、鏡に映る水に濡れたままの幼い自分を見つめる。

 頬を手で触った後、乾いた柔らかなタオルに顔を埋めた。

 夢、ではあり得ない感触。

 しかし空穂に、祖父の入院した記憶はなかった。空穂の知る祖父は、過去も未来も一度として入院したことはない。

 夢、ではないのだとしたら……。

 着替えを済ませ、階段を下りる自身の足の小さなこと、その足がたてる音の軽さに空穂は改めて驚く。八歳の身体とは、なんて軽いのだろう。


 恐るおそるダイニングの扉を開けた。

 目の前に広がるその懐かしい光景に、鼻の奥がつんと痛くなる。


 とうに失くしてしまった朝が、目の前にあった。


 暖められた空気に薫るベルガモットの爽やかな香りは、空穂の幼い頃の朝の匂いだ。

 淹れたばかりだったのだろう。テーブルに置かれたティーポットから香りと共に細く湯気が立ち昇っている。隣には、なみなみと満ちたカップ。

 さらにカップの傍、そのテーブルの角に片方の肘だけ乗せて、浅く椅子に腰掛け脚を組み、新聞を顔の前に広げる父の姿があった。

 空穂に気づいた母が、茶葉の入った黒いクラシック缶を戸棚に仕舞いながら、声をかけた。

「空穂は今朝はパンにする? それとも、ご飯?」

 朝食は祖父が和食派で父が洋食派だったため、常にどちらも用意されていて、空穂と母はその日の気分でパンかご飯を食べていた。この朝もいつものように、祖父が居なくとも和食の用意もあるようだ。その習慣は祖父と二人暮らしになってしまった空穂が、失くしてしまったもののひとつ。

「……パンに、する」

 空穂の声に、新聞から顔を覗かせた父が「おはよう、空穂。ウチのお姫さまは、よく眠れたかな?」とにっこりと笑う。

「……パパ……お、おはよ……う」

 空穂は耳に馴染んだその深く落ち着いた声に、また泣いてしまう。

 父は心配そうに眉をひそめると、がさがさと音を立てて、新聞を畳みテーブルに置いた。

「ママが、空穂はお祖父ちゃまが心配で泣いているって聞いたけど、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。心臓の手術は無事終わっただろう? あの夜、空穂がすぐに気づいてくれたおかげだよ。もう怖いことはないさ」

 手を伸ばし、空穂を引き寄せると膝の上に乗せて顔を覗き込む。

「あんまり泣いていると、その大きな目が溶けちゃうぞ」

 乾いた大きな両の掌で、空穂の顔を優しく左右から挟んで笑った。

 空穂はもう限界だった。

 声を上げて泣く空穂に、困り顔で母に助けを求める父の慌てふためく姿がまた空穂の胸を締め付ける。

 泣いている本当の理由を知らない二人を思うと涙は止め処なく流れ、父のシャツを濡らした。

「空穂、いい加減になさい。ね? お祖父ちゃまは大丈夫。ホラ、席について。パパも、おしまいになさいね。優しくし過ぎるのも、空穂の涙が止まらない原因のひとつなのよ」

 父は、ちょろっと舌を出し吃逆しゃっくりをあげる空穂に目配せをすると、名残惜しそうに膝から空穂を下ろし肩をすくめた。

 しかし肩は、不自然な形のままぴたりと止まる。離れて席へ向かう空穂を追っていたその視線の先が、空穂の頭越しに何かを捉えたようだった。

「……うわッ酷いな。……ママ、空穂、テレビ。テレビ観てごらん」

 空穂は鼻をぐずぐずさせながら、椅子を引き腰掛けようとしていたその手を止め、父の顔を見た。

「これって……。まあ……恐ろしいわねぇ」

 母の声が空穂をテレビへと振り向かせる。


 テレビに映し出されていたのは、崖の下から引き上げられる車の映像だった。

 画面の端に『落石を伴う崖崩れで二人死亡』の文字がある。


「……この道、いつも雪遊びの帰りに通るところだよ。酷いなぁ。可哀想に……。父さんが倒れてなければ、僕たちが巻き込まれていても、おかしくなかったね? ……ほら、昨日の夕方だってさ。予定では僕たちも、まさにこのくらいの時間この道を通ることになっていたんだよ……。それにしても、悲運としか言いようがないなぁ」


 空穂はテレビの中、引き揚げられる潰れた車体を目にした瞬間に、身体中の血が冷たい何かに変わり、頭の奥から、ぐうっと胸の中心を突き抜けてゆくのを感じた。


 さらに続いた父の言葉によれば、祖父が倒れたことで旅行にはという意味になる。

 もし、そうなら……これが空穂の今の『現実』であるなら……。


「わたし達は、運が良かったのかもしれないわね? お義父さんには、入院なんて大変な思いをさせてしまったかもしれないけど」


「いや、父さんにとっても運が良かったのかもしれないよ。僕たちが留守の間に苦しんでいても、気づいてくれた空穂がいないんじゃ助からなかったかもしれないんだから」


 暖められた部屋。

 窓ガラスが白く曇り、母のお気に入りの紅茶、ベルガモットの香りが漂う。毛糸で編まれた手作りのティーコゼー。父の指についた新聞のインクの匂い。

 すぐ近くにいるのに、まるで遠くにいるように聞こえる母と父の話を耳に、空穂は考え込んでいた。


 祖父の入院。

 出会わなかった事故。


 空穂の良く知る馴染みあるこの世界は、空穂の知らない『過去』のようだ。

 つまりこの先もまた、『未来』があるのだろう。


 曇る窓の隙間から見える外は、まるで空穂の心を表しているように、いつの間にか空は真っ黒な雲一面に覆われていた。目を凝らせばこの街には珍しく、ちらちらと雪が舞っている。


 ……いま何処にいるんだろう。


 暗い空を眺めながら空穂は、彼の人の顔を思い浮かべた。

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